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(2)

 自転車での配送は、今日はあまりなかった。そのことにほっとした耕平だったが、今日はこれまで耕平の経験したことのない大物が控えていた。

 店の前に台車をおいて、青いビニールシートを店の中から台車まで敷いた。

 店の中に置いた、日本酒の樽。しかもかなり上等の酒で年に数回も出ない高額商品だ。注文の品で、取り寄せてここ数日店内に置いてあった。今日はそれを配送する。

 涼子は耕平に、まるで使用人にいうように「先方に失礼のないようにするのよ!」と酒樽を台車に乗せる耕平に指示した。横では涼子の祖母が、うんうんとなぜかうれしそうにうなづいている。

 シンパシィは大樽についてはすでに耕平よりも知識を持っていたが、今日の配達先を知っているらしく「しーちゃんも行きます!」と一緒にいくことを希望し、涼子は、そうね、そのほうがいいかもと同意した。

「いつもはお父さんが行く配達先なんだけどねー。でも、しーちゃんがいっしょだったら大丈夫かな?しーちゃんの仲良しさんのところだもんね」

「うん、おじちゃんたちです!」

「…っつ、乗ったぁ!ふぅ。つか、涼子さん、配達先どこなの?こんなすごいの」

 耕平はビニールシートの上を、軍手をはめた両手で大樽をねじるように底面を回し、転がすようにしながら店の前まで出して、やっとの思いで台車に乗せた。

 首に掛けたタオルで額の汗をぬぐう耕平に、涼子は意味ありげな笑顔。

「ん?そんなに遠くないよ。商店街の一番はずれ。護堅興業さん」

「あ、そう。近いんだったらいいや。助かった」

「そっか、耕平くんはここで育ったわけじゃないからわかんないよね。つまり大親分さんのとこ。失礼のないようにね」

「あぁ、さすがに言われてどこかってのは、すぐには…。え?」

 大親分?

「間違っても、ヤクザとか暴力団とか、言っちゃだめよ。しばらく出てこれなくなるから。ほんとにそういう人たちじゃないし」

「ちょ、ちょっと、涼子さん!」

「しーちゃんに任せれば大丈夫よ。ね、しーちゃん」

 シンパシィは、「仲良しさんのおじちゃんたちのところに行く」ということでいっぱいになっているらしい。凍り付いている耕平にも気づかずに、店先に出ている涼子達のところから一足先に台車にとりついた。押し手を握りしめ、うん、と押し、テレビドラマかなにかで覚えた声を上げた。

「全速前進、よーそろー!」


 耕平の実家は北海道で、サラリーマン家庭だ。両親とも共働きで、親戚もみな勤め人だった。住んでいた団地もほとんどの家がそうだった。

 だから川澄屋での配達や店のあれこれは物珍しくて面白い面もある。

 だが、今日のこの配達は違った。面白い、というだけでは済んでいない。がたがたと進む台車に、通り過ぎる商店から「よぉ、耕平ちゃん、景気いいねー!」などとその姿に声がかかるが、えぇ、まぁ、とあいまいに返事をする余裕しかない。

「言ってはいけないことは「ヤクザ」と「暴力団」。「ヤクザ」と「暴力団」はアウト」

 そんなことをぶつぶつとつぶやき、台車を押す。そして今日の台車はいつもより強烈に重い。

 この二ヶ月の経験で、台車には慣れた耕平だったがこんな酒樽を運ぶのは初めてだった。荷台いっぱいに液体を積んでいるに等しい。透明なビニールを掛けて汚れないようにしているが、今はそのビニールの重さも恨めしい。

 耕平は、不安におののく気持の残りを全部使い、慎重に台車を押す。

 目的地までは、道のりは緩いのぼり坂だ。買い物客や子供をよけながら、あるいはよけてもらいながらゆっくり商店街の中を進んでいる。

 シンパシィも一緒に押してくれていた。いつも彼女が台車を手伝うときと同じく、耕平の両手の間に入り、押し手の中央部を握って押す。耕平からは、彼女の頭のてっぺんと両押し手をにぎる両手が見えた。

 どういう構造なのだろう。「うーん!」と力一杯に押してくれている彼女の顔は赤く染まり、押し手を握る手は強く握りしめていて白い。まだ夕暮れと呼ぶには早い日差しの中で

、かわいいつむじと、おかっぱ頭が揺れている。ふっとシャンプーのような香りが上る。

 耕平は、それを視界にいれてさっきの涼子との会話を思い出した。おかしいよなぁ、でも、まぁでも、もういいか。涼子の言ったとおりだ。なんか気にしてるのがばからしくなってきた。

 連想で、中村からの頼まれ事も思い出した。これから行く先についても、今、自分がやっている作業のこともふと忘れてしまい耕平はふっと台車を押すのを忘れて力を台車から抜いてしまった。するとシンパシィの手にずっしりと重みが来た。

 すかざす、シンパシィからクレームがつく。真上を見上げ、耕平の顔を見て彼女は言う。口をとがらせて。

「耕平お兄ちゃん、ちゃんと押してください!」

「あ、ごめん」

 ごめんごめん、ほら、せぇの。

 耕平があやまってかけ声をかけると、シンパシィはしっかりしてくださいよー、と前をむき直し、うんしょ、と押しなおした。

 また耕平はごめん、と謝り、押す。

 ロボットだろうがなんだろうが、すまん、おれ、押すのさぼってた。ごめんね、ほら一緒に、せぇの!


 やはり、普通に台車を押して到着する時間の倍ほどがかかり、よろよろと耕平は目的地に到着した。

 駅に近い川澄屋からは、商店街全部を踏破していた。耕平のアパートに向かう曲がり角は商店街のほぼ中央だったことから、自炊もしていない耕平にとってはとたんに不案内になる商店街の後半半分。配送で来ること以外はないあたり。

 涼子の言うように、確かに距離はたいしたことはない。だが、荷台の上の重みと不安定さと、なにより今から行く先への不安が耕平の距離感を大きく狂わせていた。

 長い旅をしてきたような気さえする。

「あ、ここです。つきましたー!機関停止、錨おろせー!」

 店を出る時に始まっていたシンパシィの戦艦ごっこは、まだ続いていたらしい。楽しそうに息を切らせて、耕平に到着を教えて停止の指示を出した。目の前の雑居ビルの、一階に不動産屋が入っているその上が目的地らしい。そうか、ここかと首に掛けたタオルで額の汗をぬぐった耕平はそのビルを見上げ、そしてシンパシィがこのあたりにもすでにずいぶん詳しいことに驚いた。

「シンパシィ、こことか、来たことあるの?」

「はい、中にはトラさんとかクマさんがいますよー」

「う、そっか」

 耕平は「しーちゃんと一緒に行けば大丈夫」と涼子が言った意味がわかった気がした。今から想像もつかない世界が拡がるかもしれない。ならば先に知っているシンパシィを頼りにするしかない。

 それに、仮にどんなに中に入ることを躊躇しても、元から行かないという選択肢自体が耕平には存在していない。

 一階の不動産屋に向かって左端の、エレベータホール。目の前の厚いガラスのドアはオートロックで閉まっている。出る前に涼子に教えられたとおり、ドア横のインターホンの前で401とボタンをを押す。妙にごつい、金属製の箱に巨大なボタン。

 呼び出し音がして、ぶつっ、いうノイズの後に音がしてインターホンがつながった。

「おう」

 横柄な男の声。

 耕平は息を吸い込む。がんばれおれ。言うぞ。まいど、川澄屋…。

 だがシンパシィが一足早かった。無邪気な、手慣れた調子で声を出す。

「まいどー!川澄屋です。おとどけにあがりましたー!」

 彼女の目線より少し上になるインターホンのマイクに、顔をあげて名乗りを上げていた。すると、さっきの横柄な一言から少し柔らかくなった声が、くぐもって聞こえた。

「おう、嬢ちゃんかい、ご苦労さん。そこの男、顔を上にあげろ」

「え?はい」

 耕平は言われるままに、インターフォンに近づけていた顔をあげた。眼にはいるのは、ひさしのところからこちらをねらっている監視カメラらしきもの。レンズの前に張られた透明なアクリルが剣呑な雰囲気を与えている。再度男の声。

「よし、入れ」

 モーターが回るような音がして、ドアのオートロックが解除された。

 シンパシィが気を利かして、ガラス戸を全身を押し当てるようにして開け「どうぞー」とにこやかに一言。耕平は観念し、台車の前輪をあげて数センチある段差を登らせて押して中に転がし入れた。するとシンパシィが押し開けたドアから身体を離し、まごつきもせずエレベータの呼び出しボタンを押した。

 すでに一階に、エレベーターは待機していたらしい。すぐに扉が開く。シンパシィは先に入って、「開く」ボタンを押続けた。耕平は、その無言の手順に従うしかない。扉がしまって、耕平は不安に耐えられずに聞いた。

「シンパシィ、もしかしてもう何度も来てるの?」

 エレベータが上がり始める。二人と酒樽と台車を乗せて。エレベーターの操作パネルは、4Fのところが橙色に点灯しているのが妙に耕平の眼には鮮やかに見え、その前に立つシンパシィはふりかえりもしないでさらっと返答した。今から行くところが彼女にとっては楽しみな場所であるかのように、待ちきれないかのようだった。

「はい、最近は一人でも来ますよ。きちんとおばあさんや涼子お姉ちゃんに言ってから、遊びにきてます。楽しいです」

 マジかよ!おばあさんも、涼子さんもなにやってんだ!、と顔を引きつらせたところであっというまに4階に到着。ごん、とエレベータの両開きのドアが開く。

 その前には小さなホールと、高価で重そうな木材のドア。金看板に黒く太い文字で「護堅興業」。

 シンパシィは耕平が台車をエレベータからホールに出すまで「開く」ボタンをおしつづけて、それから飛び出た。そして心の準備を耕平がするヒマも与えずノックもなく、いきなりそのドアを開ける。

「まいどー、川澄屋でーす!」

 開いたドアの内側で彼女を出迎えたのは、どこから見てもいわゆる「若い衆」だった。

 決してよくない人相とラメ地のシャツに無言で笑顔。なぜか片ほおを赤く腫らせていた。

 その背後には、飾られたトラとクマの剥製が見えた。


 耕平は、予想以上にシンパシィがこの商店街にとけ込んでいることを知った。開けられたドアの中にはいった直後から、シンパシィは事務所に数人いた若い衆ににこやかにかこまれて、「川澄屋の嬢ちゃん」と呼ばれていることですぐにわかった。

 無事に台車の上のものを納品して、さっと帰ろうと思った耕平の気持ちとはまったくうらはらだったが、同時に涼子が言った言葉の意味を耕平はやっと正しく理解できたことにほっとしていた。

 伝票の受け渡しを耕平が行っているうちに、その間にシンパシィは若い衆達とチャンバラごっこを開始していた。剥製の置物の前で、丸めた新聞紙でえいやぁ、とやっている。 伝票を受けたのは若い衆ではなく、30代後半に見える若頭のような男だった。冷房の効いた事務所内でダークスーツが似合っていた。男は横目でシンパシィと、楽しそうにその相手をしている若い衆たちをちらりとみて耕平に「ちょっと休んで行かれませんか。暑かったでしょう」と耕平にソファを勧めた。

 その光景に気を楽にしたことと、楽しそうなシンパシィの邪魔をしたくないこと、そして、やはり目の前の男もこの場所も見知らぬ世界であることから断ることもできずに、じゃぁ、少しだけとその勧めに応じた。同じフロアの小さな応接セットの、小さなガラステーブルには不釣り合いなごつい茶革のソファに座る。

 腰を下ろすと、今日まで耕平が感じたことのない豪勢な座り心地。テーブルを挟んで男は、耕平の前に座った。

「すみませんね、さっきインターホンに出たうちの若いのが横柄に出ちまって。よく、言って聞かせましたから」

 細身のその男は優しげな笑顔だが、同時にどこか昏い雰囲気を漂わせていた。さらに丁寧な分だけすごみがある。さらりと言った、その「言って聞かせた」の意味を耕平は瞬時に理解して、顔を引きつらせる。

 落ち着こうと、グラスにつがれた麦茶を一口飲んだ。

 明らかにそれは自然な動作では実行できなかったことを耕平は意識したが、それを目の当たりにしている男はそれについてなにも気づかない雰囲気で、自分の前にも出された板麦茶を同じく一口、飲んだ。そして、ここを任されている桜井です、と名乗り、世間話を始めた。

「おたくさんが、よく嬢ちゃんから聞いてる耕平お兄ちゃん、ですかい?」

「は、はい」

 一秒ほど、その返答をした耕平をちらと観察するように見た桜井は、眼で斜め後ろのチャンバラ風景をさして言う。

「あれは、いい嬢ちゃんだ。おれら半端モンにもびびりゃぁしない。うちはね、このへんの不動産や興業をやらせてもらってる会社だが、まぁ、耕平さんの見た通り元はまぁ、そういうあつまりだったんです」

「は、はぁ」

「今日は社長のね、ちょっと大事な日だったんで、祝いの酒を用意したかったんです。そちらの大将にもよろしくお伝えくださいな」

「はい」

 その社長っていうのが、大親分なんだろうか。聞けないが。と耕平が思った瞬間、ぐわぁぁ!!、やられたぁぁっと、大げさな声がする。

 チャンバラごっこは、シンパシィの全勝で事が収まったらしい。

 その声が合図だったように、桜井は耕平に何も聞かず「おい、客人がお帰りだ」と穏やかな、だが少々大きめの声でいい、立ち上がった。耕平も立つ。やっと帰れる。ほんの少しの間のはずだったが、耕平には長い時間に感じられていた。

 テーブルを挟んで立った二人は、向かい合う。そそくさと場を離れようとした耕平だったが、それは桜井の「おぉ、そうだ」となにかを思いついたような言葉で遮られる。歩き掛けた自分の身体を急制動させ、耕平はぎくしゃくと桜井にむき直した。

 桜井は、今度は右斜め下をちら、と見た後、おだやかに耕平に言った。これを、お話しておきたかったんでさぁ、そういえば、と言い、続けた。桜井の表情はなにも変わらない。だが、言葉の内容は耕平を驚かせた。

「耕平さん、ところで…まぁ、深くはアレですが、あの嬢ちゃんと同じような立場の、耕平さんが行かれる予定の会社以外の何社か、子供にみえるのも大人にみえるのもいるようですが、いくらかこの近所に来てるようですよ。来年3月までってね」

 …!

 息を呑む耕平。別に隠している話ではない、と音琴は言っていた。だが、そんなことは耕平が今日まで一切聞いていたことに含まれていない。それどころか、この桜井という男がなぜそんなことを知っているのか。

 その耕平の様子に、やっぱりご存知なかったんですねと桜井はつぶやき、説明にもならない一言を加える。

「あたしら難しいことはわかりませんがね、この街のことなら何でも知ってます」

 一呼吸をおいた。桜井の後ろでは、シンパシィが若い衆からチャンバラごっこの講義をうけていた。かけ声のかけたたについてのようだ。そのえいやぁの声に隠すように、桜井は小声で、少し早口に耕平に言った。

「耕平さんとこも含めて、妙な仕掛けを町中にしつらえてる。電気や電話の工事を装ってね。いや、本業の工事屋だとはおもうんですが、普段あたしらとつきあいのあるとこじゃないのが来てまして。まぁ堅気の衆の商売だし、うちの中以外はいまんところほうってありますが、だが、ちょいときな臭い連中も出入りし始めてる」

「桜井さん、それって」

 耕平には、その桜井の言葉の内容が理解できない。だが、自分の知らないこと、いや、少なくとも音琴から知らされていない事があることを意識する。さっきまでのこの場所や、桜井達への緊張よりももっと深い、感覚的な不安を耕平は胸の奥に感じた。

 その桜井の言葉の内容を詳しく知りたい。耕平は桜井にそれを聞きたい。だが、このひとたちは。

 ヤクザものだ。

 耕平は、ぐっと言葉をこらえる。自分は、会社員になる。無事に内定も得て、ちょっとしたきっかけでシンパシィやマヤの設計メンバーと共に暮らして、川澄屋で働き涼子の料理と食べている。だが、それらとはあまりにも反する、距離を取るべき存在だ。耕平は言葉ではなくイメージで、自分が今日まで過ごしている場所や接してきている人々とは違う目の前の男と、この場所への警戒を思い出した。

 耕平は、無意識にシンパシィを護らないと、との感覚に支配された。ここで簡単に話を続けることは、自分がもっと知らない、気づいていないことにはまる可能性すらある。

 桜井は、言葉の途中で押し黙った耕平の気持ちのなかを見透かすように、それについてはなにも聞かずに眼で事務所の入り口に耕平を促した。若い衆にかこまれて、シンパシィは新聞紙の刀をかまえ、にこにこ話している。

「あいつらもあたしも、嬢ちゃんが好きなんでね」

 桜井は、ダークスーツの懐に手を入れ、名刺入れを出した。

「差しでがましいしご迷惑かもしれやせんが、もしもなんかのときがあればここに」

 桜井は名刺を抜き出し、耕平に差し出す。

 怖かった。知らないことも、目の前のことも、自分の知らないことも。だが、耕平はどん、と自分の中の何かに突き動かされるようにはっきりと、少しうわずった声で反射的に言っていた。

「お断りします!」

 頭から、ざっと血がおりる音がした。額が冷たい。


 その事務所の空気が、一瞬で凍り付いた。

 シンパシィにだけはその空気がわからなかった。


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