メモ
※メモ
これより、現在開発中の人工知能、AIX2-5000βの非公式テストを開始する。
すでにフロアには、私、音琴哲子しかいない。
部長命令で、部員には今夜の徹夜勤務を許さなかったからだ。
本日は2013年7月12日。午前4時。
AIX2は、情報整理用途を想定して開発を進めている。
物理ボディは持たないが、進化を制御したタイプのAIとしては最新型のものだ。
特に今回の5000では、ある種のヒトが行う文章での創作に対してアプローチをしている。実用化できれば、ノンフィクションの小説やドキュメンタリィの脚本などの創作活動に人工知能による積極的な支援を受けられるようになるだろう。
商品化には、まだ相当の開発期間と投資が必要だ。だが、創作物としてのデータをマシンインテリジェンスが生成できるようになれば、これまでになく高価なデータを生み出すエンジンとして市場導入できる。そのためには惜しくない投資だと私は判断している。
あのころのことを、このテストでまとめてみようと思う。
もう、二十年昔のことだ。
私には、昔のプロジェクトを思い出して感傷に浸るような趣味は無い。
だが今でもあのころのことはよく思い出す。簡単に忘れられるようなものではない。
当時、まだ私は係長になったばかりで、功を求めていた。女だてらにと言われることも多かったが、そんな連中のことは見下していた。いまでは望み通りの地位についている。次の人事では役員だろう。
惣領。あのころの呼び名でいえば「耕平くん」は大学生だった。
今では、彼が当時の私と同じような立場になっている。役職で言えば当時の私より高位だ。
時間が経ったのだ。
いろんな場所での、いろんなことがあった。
彼女、AIX-TYPE00「シンパシィ」を連れ初めて耕平君と会った。
あの喫茶店。
シンパシィは緊張して、クリームソーダのグラスを倒した。テーブルに緑と白の模様が拡がった時の、耕平君の若い、真っ直ぐな優しさ。
何度も行ったあの古い酒屋。
坂の多いあの町でのことは、このマヤ本社ビルの中では感じられない風の気持ちよさと一緒にいつでも思い出せる。
シンパシィとの突然の別れについても、そうであるように。
こんな事を私がしたと知れば、惣領、耕平は何というだろう?
「哲子さんがそんなことするなんて意外ですね」とでも言うのだろうか?
あるいは、あの時のように。
彼の優しい感覚だと許されない事かもしれない。
だが、このテストはセンチメンタリズムで行うわけでは決してない。
ひとつのエピソードについて、これほど大量の、しかも詳細部分まで完全に電子化されているデータは他にない。負荷テストには最適だからだ。
処理すべきデータ量を稼ぐため、今回のテストでは当時最後まで外部に出さなかった記録も全てAIX2-5000に入力する。土壇場で八盾がバックアップした内容を初めとする、米国には存在すら教えず渡さなかった解析結果も含める。
5000は、創作物としてあの頃のことを処理し、吐き出す。
そう作られているからだ。誇張やウソも入る。
だが、あの一件を残す記録ならば、それが最適なようにも思える。
全てのファイルはデータサーバーに転送済。
そして、創作処理を開始するために、5000は作品の方向性をオペレーターに求める仕様になっている。
具体的に言うなら、処理を始めるためのキーとして作品のタイトルだけはヒトが決めなくてはならない。機械任せにするにもキーは必要だ。
言い換えれば、人間側で最低限必要な創作活動はタイトルを決める事のみ、とも言える。
彼女の名前であり、プロジェクト名でもあった。
この処理結果にヒロインがいるとすれば、それは彼女だろう。
タイトルは、シンパシィ。
「ハイパーリンカ・シンパシィ」だ。
出力形式には「小説」を強制指示。
……まだ10代の少女だったころの私がこの光景を見たら、なんと言っただろう。
社内の誰も信じないだろうけれど、その頃の私は小説家になりたかったのだ。
(章名「メモ」終わり。小説本文に続く)