90話 だからこそね……
今日も今日とて部活の日、
場所は物理実験室。
そこに御影と千歳が居た。
「…………」
「…………」
二人は机に向かい、勉強をしていた。
「…………」
「…………」
物理実験室に響くのは教科書をめくる音とノートを打ち付ける筆記音。
紙がこすれ合り、硬質なペン先が走る音は心地よいリズムを奏でいた。
しかし、ある瞬間その音が止まる。
「……御影さん?」
デュオのように奏でられた協奏曲の停止。
相方の異変を感じ、千歳は顔を上げて御影を見た。
御影は机に肩肘を載せペンを頬につけながらも、まっすぐに千歳を見ていた。
それはあたかも千歳を観察するようだった。
二人の視線がぴったりと合う。しかし、御影は反応しない。
「御影さん?」
底の見えない御影の瞳に、千歳はわけがわからず首を捻る。
「……御影さん?」
「…………ああ、すまない」
再度の呼びかけに、御影が返事をする。
どうやら、自分の世界に入ってたようだ。
「いえ、いいんですけど。どうかしましたか?」
「いや、なに。ちょっと考え事をね」
「……どんなことを……って聞いていいんですか?」
御影の少しぼかした言い方に、千歳は一歩踏み込んで、聞いた。
御影は一度視線を宙にさまよわせた後、つまらないことなんだけどね、と前置きして口を開いた。
「千歳君は私といて楽しいのかなって思ってさ」
「え?」
千歳はしっかりと御影の目を見ていた。
その真っ直ぐ視線に気恥ずかしさを覚えに御影は頬をかく。
「……今ふたりきりだよね」
「はい」
千歳は何気なしに周りを見渡した。
広い物理実験室に居るのは御影と千歳のみ。
他のメンバーは用事があってけんぽう部に来れなかったのだ。
「せっかくの部活動なのに勉強に付き合わせてしまって罪悪感を覚えたのさ」
「……ああ」
御影はけんぽう部に来て早々、本日出された宿題をやらないといけないとノートを開いた。クラスが違う千歳には宿題がなく、ただ御影に付き合って教科書を開いているだけだ。
「別に帰ってもいいのだよ。私は家では集中出来ないからここでやっているだけなんだから。授業が終わっても勉強ってつまらないと思うよ?」
御影の言葉に千歳は静かに首を振った。
「楽しいですよ。御影さんと勉強するのは」
「楽しい?」
「はい。わからないところがあれば御影さんに聞けますし。一人でやるより二人で一緒にやる方が楽しいです」
「喋らないのに?」
「喋らないのにです」
御影の言葉に、千歳は笑って断言する。
その言葉に御影は大きく息を吸って、吐き出した。
「……御影さん?」
「ひーちゃんの言った通りだ。千歳君はふかふかのクッションだ」
「え、え? ふかふかのクッション?」
謎の言葉だ。人に対して使う言葉ではない。
そんなこと緋鞠は言ったのかと千歳は聞く。
御影は苦笑しながらうなずいた。
「うん。正式には風船のように流されやすいのに懐に入れればふかふかのクッションに様変わりする奴だって」
「…………」
「前半の部分はわからないけど、後半はわかったよ。千歳君はふかふかのクッションだって」
「僕には後半がよくわかりませんけど」
御影は千歳の言葉に愛おしげに微笑みを返す。
「千歳君はね、優しいんだ。嫌がってるようで、実際は嫌がらずに受け入れてくれる。だからこそ私は甘えてしまうのだよ。自分のことを優先しても怒らないでいてくれる君に」
御影の瞳が千歳の姿を映す。
「居心地がいいんだ、君といるのが」
「過大評価です。僕はそんな立派な人物ではないです。違います」
御影の視線の評価がくすぐたっく、千歳首を動かして逃げる。
千歳の照れに御影は頬を緩ます。
「かわいいね、千歳君は」
「ぐっ、からかったんですね」
御影を見れば、千歳を見る目は悪戯じみた笑顔だ。
ぷぅと千歳の頬が膨れる。
「本心さ」
千歳の態度に御影は心外なと答えるが、千歳は信じない。
「ふふっ。じゃあ、勉強に戻ろうか」
そう言って、御影はペンを持った。
何事もなかったのように、すました顔で勉強に戻る御影の姿を見て、千歳は大人の女性ってずるいなぁと思った。
そして、千歳もペンを握り勉強の世界に戻っていくのであった。




