禁魔竜ファーフニル
今回ちょっと長いです。
十一日前。
アベルとヴァンは三つの死体を土に埋め弔った後、焚火を囲んで話し込んでいた。
「ふうん、お前はヴァンというのか……まあ、テオだろうがヴァンだろうが、どちらでもいいけどな」
そう言って、アベルは猪の肉にかぶりついた。
「おい、この縄をほどけ! ヴァンてめえ、裏切り者め! ピエールを殺して、殺人吸血鬼なんかと仲良くしやがって! 殺す! 殺してやる!」
その後ろでは、木に縄でくくりつけられたマルコが騒いでいる。
「それで、一体どうやってファーフニルを倒すつもりだ……? ヤツには魔法が効かないんだぞ」
「ああ。何も思いついていない」
「……」
ヴァンは水筒に口をつけたまま、冷たい眼でアベルを見た。
「まずはそのファーフニルが棲んでいる洞窟に行ってみないとな……しかし俺らが行ってバレないものなのか?」
「洞窟は村の外れにあるし、ファーフニルは鈍感な竜だ。俺たちが通ったところで出て来たりはしないだろうな」
「じゃあ、深夜とかに行けばバレないか……?」
「そうだな」
「よし行こう」
「え、今からか」
「一秒も無駄にできない。何しろ、十日しかないわけだからな」
「アベルお前、さっきは十日で充分だと言っていたじゃねえか」
そして二人は実際に洞窟へ赴いた。そこでアベルは閃き、作戦を伝えた。
その内容はこうだった。
「まず、落とし穴を掘る。そしてテッサに落ちてもらう。人一人しか通れないような狭い穴なら、ファーフニルも戸惑うはずだ。殺すなら上からブレスを撃ちこんで終わりだが、食べたいのなら生のまま味わいたいに決まっている。そして戦闘員が取り囲む中で、テッサが来るのはここの、横の道だ。つまりテッサが従者から離れた瞬間真後ろにダッシュしない限り、穴には誰も落ちない」
ヴァンはこれを聞いている時、やはりこのガキを少しでも頼りにした自分が馬鹿だったかと思うようになってきていた。
「その隙に、俺がファーフニルの左翼を破壊し、飛行能力を封じる」
「どうやってだ」
「崖から飛び降りて、落下速度を利用してやるんだ」
「無理だろ」
ファーフニルの洞窟は切り立った崖の下にある。崖から地上までの高さは数十メートル。どれほど運動神経がよくても、それだけの高さから的確に翼を狙うことは難しい。また一か所の傷では飛行能力にそこまで影響しない、というのがヴァンの意見だった。
「俺には翼がある。この翼による微調整と、俺の剣の腕が重なれば、可能だ。もちろん特訓はするがな。それにこの翼、生やしてみるとわかるんだが、骨格が指に似ているんだ。この尖端に突き出ているのが親指で、膜を広げている筋が残りの指だ。そして、ここ。この親指の付け根が翼の骨格の中心と言っていい。ここを貫けば、ドラゴンとは言え羽ばたかせることができないはずだ」
アベルは自分の背に生えた翼に指差し説明した。
「ブレスはどうするつもりだ。エクソシズムドラゴンは炎の息を吐くことができる。翼を失ったところで、そいつを放たれたら下手すると村全体が火事になるぞ」
「まだ俺の話は終わってねえだろ、聞け。俺が左翼を破壊した後、ヴァンは隠れて矢を射るんだ。右眼にな。するとファーフニルはお前に向かってブレスを放つ。その瞬間、俺がファーフニルの鼻に剣を突き刺す。鼻を突けば息が十分に吸えず、ブレスも吐けないという寸法だ」
「お前を狙って来たらどうするつもりだ」
「俺をブレスで狙うことはない。近すぎるからな。俺は必死でファーフニルの攻撃を避けるから、ヴァンはなるべく挑発的に矢を射続けてくれ」
「挑発的な矢の射方か。ぜひともご教授願いたいものだな」
「そして戦闘員のエルフが頑張る。ブレスと飛行が封じられていればエルフでも勝てるだろ?」
「ああ……翼を破壊し、ブレスを封じることができたらの話だがな」
「それとマルコには一日早く村に戻ってもらい、戦闘員の増員を頼みたい。こいつにその権限があるかどうかは謎だが」
「俺はお前の殺したロランド村長の孫だぞ、これでも!」
その後三人は別行動をとった。アベルは探知結界の外にある谷で急降下の練習、ヴァンとマルコは交互に掘る役と、人がいないか監視する役を務め、洞窟の前で落とし穴を掘り続けた。浅くては駄目で、テッサがすっぽり入る深さでなくてはならない。魔法が生活のベースであり、肉体労働をほとんどしない二人が穴を掘るペースは遅かった。
「なあヴァンさん、本当にこの作戦で大丈夫なのか……」
「わからん……」
二人は半信半疑であった。
「正直、落とし穴はいいセンを行っていると思いつつある。しかし問題は翼を剣で破壊するところだ。あいつの戦闘時のスピードとパワーは目を見張るものがあるが、やはり現実的に考えて無茶だ」
「だよな……はあ、村に帰りたい……ソレーユに会いたい……」
マルコの体が半分入るぐらいまで掘ったあたりで、二人は疲れたので切り上げて、アベルのいる谷へと向かった。
そこで二人は認識を改めることになる。
アベルは崖から飛び降りて、数十メートル下にある切り株に枝を突き刺す、といった特訓を繰り返していた。二人が訪れたのは、ちょうど切り株の中心に枝が植えつけられたところだった。
*
空が橙色に染まっている。太陽との別れを惜しむように、切なげに草木が揺れた。
テッサは窓辺に腕をかけ、横顔に夕日を浴びながら外を見ていた。
「明日、か……」
解かれた金髪がなびいた。
「テッサ、ご飯できたよ」
下の階から、ソレーユが彼女を呼んだ。テッサは「はいはい」と面倒げに返事をして、木造の階段をどたどたと音を立て降りた。
「今日はテッサの大好物の、ケンタウルスの中落ちよ!」
食欲をそそる香りの発生源がテーブル上にある。既に席についていたソレーユは満面の笑みを浮かべていた。
「……ありがと、お姉ちゃん……」
親しい人以外には、常に敬語を使うソレーユ。
(ここ数日、わたしと話す時しか普通に喋らないな)
テッサはテーブルの前で立ち止まったまま、椅子に腰かけようとはしなかった。
「どうしたの?」
「ごめん……やっぱり、食べる気になれないや」
「テッサ……」
ソレーユは俯いて、「ごめんね」と呟いた。もう謝らないでと、テッサは何十回も言ったが、結局姉は最後まで謝り続けた。
その晩。いつもと同じように、姉妹は同部屋で眠りについた。かの吸血鬼がなお滞在していたなら、向かいの部屋にいたはずなのだが、彼は十日前に姿をくらました。
(アベル……)
すぐ隣に姉がいても、あの時の記憶が頭にこびりつき、離れてくれなかった。おかげで寝不足になり具合が悪い。しかしどうせ死ぬのだから、体調不良などどうでもいいか、とテッサは開き直る。
そんなことを考えている内に、時計は二時を差した。
(そう言えば、庭で彼と話したのもこんな時間だったっけ)
彼は庭で言っていた。
「俺、やっぱり明日からは別の所に泊まるよ。すまなかったな、いきなり押しかけて来て」
(彼は知っていた。わたしが今月の生贄であることを。だからわたしとお姉ちゃんに気を遣わせぬように、そう言った。)
彼は優しい。そして強い。責任感があり、勇敢だ。強すぎるあまり、テッサからは悪魔に映った。
テッサはギデオンを殺した時の彼の姿を思い出す。毎晩、毎晩。朝も昼も夕方も。そしてテッサはその度に、泣き喚きたいような衝動に駆られた。
(わたしは、彼の、悪魔の姿に囚われて、彼の本当の優しさをないがしろにしてしまった……)
テッサは姉のいる反対側を向いたまま、シーツを強く握りしめた。
(どうして、あの時わたしは逃げてしまったんだろう。ありがとうの一言も無しに。傷つけちゃったかな。ごめんアベル、わたしは……)
その時、木が軋む音がした。テッサは足が向いている方向を見やった。ドアが開いていた。
(誰!?)
体が強張る。
(ど、泥棒!? どうしよう、お姉ちゃんを起こした方がいいのかな。でも起こしている間にやられちゃうかもしれない。かと言ってわたしが相手しても勝てるとは思えない。狸寝入りでやり過ごしてから自警団を呼んだ方がいいのかな。でもそれじゃあ逃げられちゃうかもしれないし、うう、どうしようどうしよう!)
テッサは目を瞑り、出来るだけ自然に寝ている感を出そうと努めた。しかし焦りと恐怖が呼吸の間隔を狂わせる。
足音が迫る。あまりに小さい足音は、床だけに響き、寝そべっていないと気付かないような僅かな振動だった。
足音はテッサの顔のすぐ横で止まった。
「テッサ」
「ひいっ!?」
しまった、とテッサは思った。あまりに唐突に声をかけられたため、つい悲鳴を上げてしまったのだ。布団の中に顔をうずめ、がたがたと震えるテッサだったが、しばらくそうしている内に、その声が聞き覚えのある声だと言うことに気付いた。
「あ……アベル?」
おそるおそる布団から顔を出し、勇気を出して目を開けると、やはり見覚えのある姿があった。
「十日ぶりかな……テッサ。落ち着いて俺の話を聞いてくれ」
「う、うん……」
「あと、お姉さんは起こさないように」
謝りたい。あの時アベルを恐れ逃げてしまったことを謝罪したい。テッサの頭の中はそんな想いで一杯だった。しかしアベルは彼女の心境などは関係ない、とでも言うように淡々と言葉を連ねた。
その内容は明日のことだった。従者(生贄を洞窟の前まで連れて行く人のことだ)がテッサから離れた瞬間、洞窟の反対側へ全力疾走してほしい、というものだった。
「待ってアベル、それは……」
「じゃあそういうことで。悪いな、急いでいるんだ」
謝罪はおろか、アベルは質問すらする時間も与えてくれなかった。アベルはテッサの呼び止める声を無視し、部屋から出て行った。そして静かに扉が閉められた。
テッサは布団にくるまったまま硬直していたが、弾けたように起き上がると、姉が起きても仕方ないような音を立てて、彼の後を追った。
「待ってアベル!」
廊下を駆け、階段を一段とばしで降りる。一階に降りると、ちょうど彼が外へ出ようとしているところだった。
「アベル!」
ばたん、と扉が閉まった。裸足のまま外に出たが、吸血鬼は姿を消し、気配すら感じられなかった。
テッサは泣きそうになった。
(わたしがあの時逃げたから……)
どれだけ思い悩もうとも、夜は明ける。テッサがファーフニルに食われる日が訪れた。
*
アベル、ヴァン、マルコの三人は焚火を囲い話し合っていた。村からは捜索隊が駆り出されているため、出来るだけ草木が多い場所を選んだ。
「ヴァンさん、もし、ファーフニルを無事に倒せたとしたら……どうする?」
マルコが尋ねた。
「どうしようかな……俺は殺人者の身だ。村に残っても死刑になるだけだし、アベルの旅について行こうと思った。だがそれは責任から逃げているのと同じだからな。今は大人しく処されるつもりだ」
ヴァンの話を聞いて、アベルが口を開く。
「村長が保守派トップということは、保守派の地位の方が高いんだろう? ならヴァンが村長になれるってことはないのか?」
「このまま俺が発見されれば、そうなるだろう。しかしこれだけ犠牲を強いた俺が村長になる資格はない。それ以前に、生きる資格すらない」
「……なあ、ヴァンさんはどうしてそこまで革新に必死だったんだ? 保守派に成りすましてまで……」
再び、マルコが尋ねる。ヴァンは重々しく口を開いた。
「近年のヒューマン達の軍事的、魔法的にも日々進化している。それこそ、迷いの結界すらも破れるほどにな。それに比べて、エルフはどうだ。強力な魔法に慢心して引きこもってばかり。人型種族最強の時代は終わったんだ。このままでは、他種族に支配される。理不尽な扱いを受けることになる。数年前、村を出て旅をしてやっと気付いたんだ」
ヴァンは滑らかな口調で続ける。
「かつて世界を救ったという英雄、レオポルドも敵国に家族を殺されたことを機に戦士としての頭角を表したそうだ。エルフも一度痛い目に合わなければ、強くなれない。だが、エルフだけではこれ以上強く慣れない。だから、ヒューマンを中心とした他種族と友好的な関係を築き、エルフの種族としての地位をこれ以上下げないようにしなければならない」
そう言い切った後、沈黙が続いた。各々が、何が正しいのかを考えていた。
「俺……ヴァンさんが正しいのかどうか、よくわからない。エルフは人型種族最強で、独立できる種族だと、ずっと教えられてきた……。でも、ファーフニルにぼこぼこにされる皆を見たら……その通りな気もしてきた……」
「俺は関係ないから意見するのもはばかられるが、エルフを守る為に必死に考えた策を、残虐で非道だと一概に決めつけることはできないと思うぜ、とだけ言っておく」
アベルは、ぼんやりと虚空を見つめながら言った。
「そしてヒューマンからの感想だが、ヴァンは世界が見えていると思う。少なくとも、そこのガキよりはな」
「なんだと、コラァ!」
*
太陽が顔を出した頃。
テッサは心ここにあらずな面もちで、目の前にある空洞を見ていた。数分後にあの中から巨大なドラゴンが現れる予定だ。
従者はテッサの左右に一人ずつ。逃げださぬよう、がっちりと腕を絡めている。その周りではすすり泣きやら嗚咽やらで溢れかえり、テッサの名を呼ぶ声が飛び交っている。そんなテッサの死を惜しむ者の前には、槍を持った戦闘員が立ちはだかり、テッサに近づくことを赦さなかった。
ソレーユは両腕の拳を握りしめたまま、妹の後姿を見つめていた。最後の別れをしたのが数十分前。姉としては、妹の最期の寸前にもう一度別れを告げたかったが、戦闘員に拒否された。どうしてもしたいと抵抗すると、槍を突きつけられた。
(魔法さえ使えればこんな雑魚、二秒で吹き飛ばせるのに……)
顔を合わせないまでも、何かを告げたかった。しかし今更、何を告げれば良いのだろうか?
ソレーユは死を目前としている妹に対して、彼女の名を呼ぶことしかできない自分を歯がゆく思っていた。
その時、空気が乾いた。触れるだけで全身が呑み込まれていきそうなどんよりとした雰囲気は、けして日が落ち切ったから出たのではない。
エクソシズムドラゴン、ファーフニルが洞窟の中からその巨体を晒した。
戦闘員を除いた多くのエルフがその場を離れた。生贄が喰われる瞬間を見ようなどと思う者はそういない。いたとすれば、どれだけ悲惨な最期であっても見届けられるほどにテッサを愛していた者ぐらいであろう。
ゴーレムや近隣に棲む魔物とは比べ物にならないほどの威圧。これで低級の竜かと思うと世界の広さが恐ろしくてたまらないのだが、目の前の竜だけで恐怖は臨界点を越えている。妹の最期でなければ、とっくに気絶していた……とソレーユは思った。
巨大な体躯は灰色の鱗で覆われ、しなやかに伸びた首の先に、蛇と馬を混ぜたような顔がついている。目玉はぎょろりと飛び出し、湾曲した二本の角が生えている。
「娘以外は散れ」
地の底から響くような声。声質としては壮年の男と大差ないが、圧力は桁違いである。
従者は逃げるように絡めた腕を外し、左右に散った。テッサは従者たちから解放された瞬間、ファーフニルの反対側へと走り出した。
誰もが、テッサの行動に疑問を抱かなかった。これから喰われる恐怖を黙って堪えられる人など早々いない。逃げて当然だと。
無論、ファーフニルもテッサが逃げ出すことは想定内であった。大樹のような前脚が、ゆっくりと前へ出された。
少女にとって全力の数歩は、竜の一歩にも満たない。ファーフニルは大口を開け首を伸ばした。白く、鋭利な牙がテッサに迫る。ソレーユは妹の名を叫び、戦闘員を押しのけて妹の元へ向かおうとしたが、押しとどめられた。
そしてまさにテッサがファーフニルの口に収まろうとした時、テッサが落ちた。ファーフニルの動きが止まった。テッサが落ちた穴から、どさっと痛々しい音がした。ファーフニルは口をぽかんと開けたまま、地面を見下ろしている。
エルフ達がどよめく。テッサの身に何が起きたのか。目を開けていた者はその真相を見ていたはずだが、あまりに意外であったためそれが真実であるのかどうか、判別しかねていた。
「あれって、落とし穴……?」
張りつめられた空気にヒビが入った中、そのヒビにつけこむかのように鈍い音が響いた。
骨が砕け散る音だ。
「誰だ……俺の翼を砕いた奴はああああああ!」
ファーフニルが咆哮する。その右眼に一本の矢が突き刺さった。
「誰だ、俺の眼を射た奴はああああああ!」
ぎょろりと眼球を動かし、射られた方を向く。その視線に一人のエルフが捉えられた。
「まずは貴様から殺してやる!」
ファーフニルは再び大口を開けた。今度は食べるためではない。ファーフニルの口周りで陽炎が揺れた。
「ブレスを撃つ気だぞ!」
エルフたちは恐れおののき離散した。勇敢な数人はその場に留まり、事の顛末を見届けようとしていた。ソレーユもその例外ではない。
「アベルさん……!」
突如空から降ってきて、ファーフニルの左翼に剣を突き刺した男は、肩甲骨の辺りから漆黒の翼が生えていた。それは彼女の知っているヒューマンとはあまりに異なる禍々しい姿だった。
血濡れたバスタードソードを引き抜いたアベルは器用に翼を羽ばたかせ、ファーフニルの頭上で止まった。鼠を捕ろうと近づく猫のような静かさだった。
ファーフニルの口内がめらめらと燃えだした。鼻からは煙が上がり、陽炎の範囲も広がっている。真上にいるアベルには気付いていない。
アベルはバスタードソードを竜の鼻に思い切り突き刺した。
ファーフニルの口が爆発した。
「ぐっ……」
竜の口を盾にしているとはいえ、爆風を地肌に浴びたアベルは苦悶の表情を浮かべた。それでも彼は剣を引き抜き、竜の左眼をえぐった。
「グオオオオオオオオ!」
視界を失い、暴れ狂うファーフニル。脚、尾、首。あらゆる動かせる体の部位を振り回し、アベルを殺そうとする。アベルはファーフニルに貼りつくように飛び回り、紙一重でそれらを避けた。
エルフ達は固唾をのんでその光景を見守っていた。彼が何者なのか、何故戦っているのかもわからなかったが、皆アベルの勝利を願っていた。
そんな中、壮年のエルフが木陰から現れた。
「皆、力を貸してくれ!」
森中に響き渡りそうな大声が、彼から発せられた。
「今! 憎むべきファーフニルは飛行能力、視界、そしてブレスを失った! 今なら、魔法無しの我々エルフでも、武器を用いれば勝てる!」
「あなたは……ヴァン様!?」
戦闘員のエルフたちは疑心を抱きながらも槍を構えた。戦いに飛び込もうとする者は一人もいない。
「ヴァンだと……!?」
「これ以上竜に喰われる、哀れな娘を増やしたくないならば、槍を持て! 持っていない者は増援を呼んで来い! そしてこの悲しみの連鎖を断ち切るのだ!」
ヴァンの話を聞いて覚悟を決めたように、一人のエルフが飛び出した。
「俺は戦うぞ! 俺の娘が喰われることになるとしたら、死んだ方がマシなぐらいだからな!」
「お……俺も!」
「俺も殺る!」
ファーフニルに向かって次々と突進するエルフたち。振るった槍の切っ先は、ファーフニルの甲殻に刺さりはするも、けして深く刺さりはしない。
「槍を刺したらすぐに引け! 深追いはするな! 無理だと思ったら引いていい! 前後の間隔は五メートル開けろ! 数で押すんだ!」
ヴァンはそう言いながら、坦々と矢を打ち込んでいく。矢は一本残らずファーフニルに命中するも、多くが硬い甲殻に弾き返された。エルフたちは男に言われた通り、槍で突いては引き、突いては引きを繰り返した。時折吹き飛ばされるエルフもいたが、竜の動きは着実に鈍くなっていった。
「うおらあっ!」
そして遂に。アベルによる、渾身の一振りが竜の首を切り裂いた。おびただしい量の鮮血が飛び散る。ファーフニルは吐血し、その巨体がぐらりと傾いた。
「人間ごときに……この俺が……」
この一撃を引き金に、槍を持つエルフたちの攻撃より一層勢いを増した。それからファーフニルが息を引き取るまでそう時間はかからなかった。
「ヴァン、お前今まで何をしていたんだ……?」
戦闘員のリーダーを務める男が、散らばった槍を拾いながら尋ねた。
「落とし穴を掘ったりしていた」
ヴァンがちらと見やった先では、ソレーユ含む数人がテッサを引き上げていた。
「村長、ギデオン、ピエール、そしてヴァン……保守派のトップと中心人物が三人も死に、保守派も終わりかと思っていた頃合いだったが、まさかお前が生きていたとはな。お前には会議で詳しく話してもらうことになるが、恐らくお前が次の村長になることは間違いないだろう」
「そうか……」
ヴァンはまた別の方向をちらと見やった。数人のエルフがきょろきょろと辺りを見渡している。
「何処へ行ったんだ、吸血鬼の坊主は?」
小太りのエルフが言った。
「殺されると思って逃げたんだろう。俺はむしろ、救世主として崇めてやりたいぐらいなんだが」
筋肉質のエルフが、荷台に乗せられたファーフニルの死体を見ながら言った。
「誰もがお前のように思っているわけじゃないだろ」
「そうだな……」
男はヴァンに、「村長になるのか」と質問した。ヴァンは答えず、茶を濁した。
ヴァンは男との会話を終えた後、崖の上を見上げて、ほんの少しだけ微笑んだ。
「ありがとう。正義の吸血鬼さんよ」
*
テッサの胸は激しく鼓動していた。
ファーフニルに食べられそうになったからではない。いきなり落とし穴に落ちて驚いたからではない。
「お姉ちゃん、アベルは!?」
落とし穴から這い上がってから放った第一声。
ソレーユがアベルの飛んで行った方向を指差すと、テッサは喜びのあまり号泣している友人たちや姉を押しのけ、走って行った。慌ててソレーユも後を追った。
「一番最初に気にするのがアベルさんなんて、嫉妬しちゃうなあ……」
そう言いながらも、走る妹の後姿を眺めながら、喜びを噛みしめていた。
二人は走り続けた。テッサは分かれ道に差し掛かっても、少しも迷う素振りを見せなかった。ソレーユは勘かと思っていたが、テッサはある場所を目指していた。そこに彼がいると妄信して、全力で駆けた。息が切れ、横っ腹が痛み、足がもつれようとも走り続けた。
「やっぱり、いた……はあ、はあ」
テッサは何時かのように、木の幹に手をついた。その視線の先には、木の根元に腰かける青年の姿。先ほどまでは上半身裸だったが、いつの間にか服を着ている青年は姉妹に気付くと読んでいた本を閉じ、笑顔で手を振った。
「久しぶり、二人とも」
正確には一人は久しぶりではないのだが、細かいことは気にしない主義のアベルであった。
「ごめんなさい!」
テッサは髪を乱す勢いで頭を下げた。
「え……何が?」
「アベルを怖がってごめんなさい! アベルは、悪魔なんかじゃないって、わかってたのに、わたしは……」
「いや、恐怖を抱かない方が気味悪いぜ。十五そこらの女の子が。それに、テッサが本当の俺を見てくれていることは、充分伝わっているから」
テッサはアベルの顔を見上げた。両目には涙が溜まり、今にも零れ落ちそうであった。
「……ありがとう。そして何より、ファーフニルを倒して、わたしを助けてくれて……ありがとう」
「まあ結局倒したのはエルフたちなんだけどな」
テッサはくすっと笑った。その拍子に涙が頬をつたって落ちた。慌てて拭おうとするテッサだったが、水道の栓が開けられたように次々と溢れ出た。
テッサはアベルに見られまいと、背中を向けてしまった。
「アベルさん、わたしからも。本当に、本当にありがとう……」
ソレーユが、既に腫れぼったくなっている目元をこすりながら言った。
「まあ、これも治療のお礼の一部ってことで……あ、ソレーユ」
「はい、何でしょう」
「おめー、俺が吸血鬼だと知って村に入れただろ」
「えっ……いえそんな、アベルさんが吸血鬼だなんて、今初めて知りましたよ!」
「嘘こけ。俺の傷の治療をした時点で気づくはずだろ! 俺の回復速度は自分で言うのもなんだが異常だからな!」
ソレーユはぺろっと舌を出した。
「バレてました?」
「ったくよー! したたかな女だよまったくよー!」
「す、すみません。でもわたし、吸血鬼ならファーフニルを倒してくれるって思って招いたわけじゃないですからね!」
「はいはい、お望み通り倒してあげましたよーっと」
「ち、違うんです、わたし、そんなつもりじゃ……!」
テッサは冷ややかな視線を姉に向けていた。
「男の人が、女は怖いって言うのがよくわかった気がする……」
「テッサはこういう女になるなよ」
「もう、二人してわたしを悪女扱いして、酷いですよ!」
そうして三人はしばらく笑いあった。
「じゃ、そろそろ行くよ」
あまりに唐突な発言に、姉妹はぴしりと固まった。
「え、もう行っちゃうんですか?」
「ファーフニルに痛恨の一撃を与えたとは言え、悪魔であることに変わりはない。二人は俺を認めてくれるそうだが、他はどうだろうか? 保守派と革新派があるように、考えの違いは必ず現れる。そして時としてそれは争いに繋がる。俺はエルフじゃないが、これ以上余計な問題は増やしたくない」
二人は黙り込んでいた。彼女たちは、エルフ史の中でも重要な時代に生きている。無論それを自覚し、エルフ全体を良い方向へ進めよう、という意気込みもあった。
「行かないで……わたしは、アベルのことが好きだから……」
蚊の鳴くような声は徐々に小さくなっていき、しまいには蚤の鳴くような声になっていた。
「テッサ、今なんて言ったの?」
ソレーユが訊く。アベルは少しの間呆然としていたが、やがて微笑んだ。
「ありがとう。…………でも俺にはやることがあるから」
テッサの目は再び潤みつつあった。
「何、そのうち会えるさ。それに、俺にテッサはもったいない」
またな、と言って背を向けようとしたアベルの肩を掴み、引き下ろす。アベルは何か言おうとしたが、テッサの唇によって口を塞がれたため言えずに終わった。
「絶対、来て……」
「ああ、必ず」
それを聞いて、テッサは安心したように微笑んだ。
「ふふ、まさかテッサに先越されちゃうなんてねー。この色女め!」
ソレーユは指先を蜘蛛のようにうごめかせ、テッサの脇をくすぐった。
「あ、ちょっとお姉ちゃんやめてよ、あは、あははは!」
アベルは穏やかな顔で二人を見つめていた。
(エルフと関わること自体が間違えていたかとも思ったが……案外そうでもなかったかもな)
高く登った太陽の光がアベルの肌を焼いたが、二人の笑顔が彼の心をじんわり溶かした。
崖下に広がるエルフの村を見下ろす。
エルフが今後どのような道を辿るのかはわからない。それでもいずれ、この姉妹のような笑顔で溢れるような村になってくれれば俺も嬉しい。何故嬉しいのかは、よくわからないのだが。
つづく