10
夜会が終わりギルバートがエミリの部屋の前に立ったのは、その日の夜遅くだった。
侍女の姿はすでになく、部屋の中からは何の音も聞こえなかった。
おそらく寝ているのだろう。
ギルバートの訪問を告げた警備の兵も、訝しげな表情だった。
ギルバートは、部屋の前でしばらく立ち尽くしている。どうしても謝りたかった気持ちはある。けれど、今まで一度も訪れたことのない妻の寝所を訪問するのは、少々ためらわれた。しかも、今は夜だ。
ギルバートとエミリの間には、未だ夫婦の契りがない。
あれほどギルバートに声をかけ続けたエミリだが、身体を使ってギルバートを誘惑したことは一度もなかった。それがギルバートには清々しくて、娶ったエミリを立場を利用して抱こうとは思えなかったのだ。もちろん、逆にギルバートがエミリを誘惑すれば……、と、イタズラを考えたことはあるけれど、実際には何故か出来なかった。
だからこそ、夜に彼女の寝所に入ることを随分ためらっているのだ。
一度、深く息を吐きだす。
ここで立っているだけではどうしようもない。
ギルバートはそっと扉にかけたてに力を入れた。
できるだけ音を立てないよう、扉を開く。
部屋は暗く、明かりは全て消されていた。
窓からうっすらと月明かりが差し込んでいる。
あ、と、ギルバートは窓の下を凝視した。
そこには、ゆったりとした椅子に座って窓枠に顔を伏せるエミリがいた。
足音を殺しながら、ゆっくりと近づく。
エミリはあの下品なドレスではなく、簡素な部屋着に着替えていた。
近づくにつれ、規則正しい寝息が聞こえてくる。エミリは窓のそばで眠ってしまったようだ。
何故だか非常に申し訳ない気持ちになりながら、ギルバートはそっとエミリの顔をのぞき込んだ。
はっと息を呑む。
月明かりに照らされたエミリの頬には、はっきりと涙の跡があった。
それどころか、目頭にはうっすらと涙が浮かんでいる。
その様子を見ただけで、ギルバートの鼓動は心臓がはちきれんばかりに乱れた。
(やはり、出直そう)
ギルバートはエミリの寝顔をしばらく眺めて、そう結論を出した。せめて、涙を拭いてベッドに移動させてあげよう。そう考え、エミリに手を伸ばす。
「……うん?」
エミリの涙に近づいた指が、ピタリと止まった。
ギルバートの目に、エミリが大切そうに抱く封筒が映る。
(どう言うことだ?)
先ほどまでとは違う意味で指が震えた。
何故、手紙などを大切そうに抱いているのか?
それも、涙を貯めて。
それは、エミリの腕の下になって良く見えないが、庶民が使うような事務的な封筒だ。差出人は……『M』とだけ、書かれている。
イニシャルで送るというのは、それだけでエミリが誰か分かるほど親しい者ということだ。
(まさか、男……か?)
あり得る、と、ギルバートは考えた。
エミリは家のためにギルバートに差し出されたのだ。それ以前に恋人が居なかったとは限らない。
ギルバートに身体で誘惑をかけないのも、男に操を立てたからだと考えたら?
エミリは、美しく豊満だと言うわけではない。むしろ、可愛く庇護欲を掻き立てられる。そんな彼女を、男が放っておくだろうか。
もし、彼女に男がいたのなら……。
他の女に思いのあるギルバートなら、彼女を抱かないと思われたのかもしれない。そして、彼女とMと言う男は、こうして手紙で遣り取りをする。辛いことがあれば、彼女は男からの手紙を慰めに泣くと。
ギルバートには、それが一番しっくりと来た。
カチリと、頭の中で欠けたピースがハマる音を聞いた気がした。
グラグラと揺れる視界を何とか抑えこみ、ギルバートは自分の部屋に戻ってきた。正直、どうやって戻ってきたのかは覚えていない。
「は、……はは、は」
乾いた笑いが、部屋に響く。
ああ、そうか。
彼女は自分の妻になりたいわけじゃない。
彼女は、自分と家族になりたいのでは?
家族なら……、親兄弟ならば、相手の恋愛を束縛しない。
エミリは王宮にいるので、実際には男と会うこともないが、それでも心は繋がっていると。
誰に確かめたわけでもないが、ギルバートは、この思いにとらわれていた。
(ああ、結局、私はまた失恋するのか)
エミリが他の男の手紙を抱く姿を見て、己の心に大きな嫉妬が蠢いたのが分かった。
ギルバートは、もうすでに自分がエミリに愛しい思いを抱いていたのを理解した。




