ミッション1:まずはファーストコンタクト
「弟が、学校に行きたがらないんです」
言って、あたしは目の前の人物を見定めるようにじっと見つめた。
「ほ~ぉ」
わりと若い男性だと思う。30歳になってるかどうか、というところか。なんか暢気な調子で相づちを打ってきた。
天使が通りすぎるほどの時間をあけて、彼はむずむずと何かを求めるように手を彷徨わせた。落ち着きなく動いた指先が着地したのはなぜか灰皿に入れられているチョコレート。一口だいのチョコレートをほいっと口の中に入れる。
隣には、あたしくらいの年頃の男が座っている。視線をテーブルのところに落としているせいか、表情がよくわからない。なんかすごく暗そうなイメージにも見える。
なんだかこう、二人の醸し出す雰囲気がちぐはぐで、こういうデリケートな話を進んでしたいとは思わせない。
だいたいこの部屋も、ただのマンションの一室の部屋の中にテキトーにソファを向かい合わせに置いて、真ん中にガラスのテーブルが置いてあるだけで実に殺風景だ。
ふう、と息をつくと、若い男は口を開いた。
「学校に行かせたいんだ?」
「はい」
「ふぅん…」
なんだか気が乗らないといった雰囲気に、あたしはもう帰ろうかと思いかけていた。そもそも、こんな得体の知れない所に来たのが間違いだったのかもしれない。
「それが、どうしてうちに相談に来ようと思ったのかな? そういうのはどっちかというとカウンセラーとかの仕事なんじゃないかなぁ、と僕は思うんだけど」
いや、それはむしろあたしが知りたいことだし。
そう内心で突っ込んだが、さすがに口にはできない。
「えっと、紹介です。あたしの友達の姉にここを紹介されて。……登校拒否専門の病院とかもあるっていうのは聞いたんですけど、弟がとにかくそういうところには行きたがらないんで……」
「友達の姉ねぇ……」
「はい。弟のことを友達に相談したら、お姉さんにそれを相談したみたいで、それならここが専門だよって言ってたよって」
「専門? 別に登校拒否児童の専門とかじゃないんだけどな……」
彼はそう言って、また指を落ち着きなく動かしてチョコレートをつまむ。
というか……。
あたしはずっとさっきから思ってたことがあるのだ。
「あの……それなんですけど」
「なに?」
「ここってどういう所なんですか? えっと、来ておいてナンなんですけど、どういうところかも教えてもらってなくて、住所だけを教えてもらって来たんですけど、……来たら……、なんの看板もでてなくて、ただのマンションの部屋だったから……」
間違いかと思ったんです、という言葉はちょっと口ごもりながら付け加えた。さすがにちょっと言いづらかった。
「うん、それだよね。どういう所だと思って来たのかがすごく不思議だったんだ。そのお友達のお姉さんって、どうしてここを知ってたのかな? ここは、特に電話帳とかにも載せてないから普通の人は知らないはずなんだよね」
更に言いづらいことを聞いてくる。
「友達のお姉さんは、絶対に自分の名前は言わないで、って言ってたので言えないんですけど……、ただ、とっても怪しげな男が二人いて、とにかく得体が知れなくて怪しくてどうしようもなくて、片方は性格も軽くて、人間としてはどうかと思うような人なんだけど、……こういうことだけには信用できるからって……」
さすがに声が段々小さくなる。言いづらすぎる……。もっと最後に一言あって、「こういうこと以外は絶対に信用しちゃ駄目だよ」とも言われていたのだが、そればっかりはやっぱりどうしても言えない……。あたしは、もうここに頼るしかないんだから。
と、隣の男がこらえきれない、とばかりにくつくつと笑い始めた。咳き込むほど笑っていた。
「そんなに笑うのはひどいと思う」
彼が言うと、隣にいる男が、げほげほとしばらく咳き込み続けたあと、
「だってもっともじゃん。っていうか、誰だかほぼわかったよね」
初めて隣の男がしゃべった。
「わかりたくない。知りたくない。わかったよ。僕の降参。この件、引き受けます」
「え?」
いきなりの宣言に、あたしはぽかんと見つめた。
そして彼は、おもむろに名刺を差し出してきた。
『神田川心理調査事務所 所長 神田川太一郎』と書かれていた。
かんだがわしんりちょうさ……。心理調査ってなんだろう? とあたしが訝しんでいたら、
「ええと、まぁ、こういう者です。その……お友達のお姉さんが言ってるのは、登校拒否児童の専門なんじゃなくて、まぁいうなれば、心のもつれをほぐすお手伝いをさせてもらってます、というところかな」
「心のもつれ?」
「うん、あ、ちなみに、この隣にいるのが、僕の助手。よろしくね。んで……」
「たいっちゃん、お茶」
「あ、そっか。お茶がいるね。お茶お茶」
言って、神田川さんがいそいそと席を立った。っていうか、こういうことは普通は助手がするのでは……? 太一郎で、たいっちゃん、なのかな?
「あんた、高校生だっけ?」
「うん? うん」
助手さんに話しかけられて、反射的にため口で答える。なんとなく、やっぱり同じくらいの年頃に見えたので、その気安さだ。そのときになって初めて彼の顔を正面から見たが、なんか……不健康そうなほどに痩せている顔つきなのに、なんだかそれがかえってひきしまって見えるというか、すらっとしてる感じだ。
神田川さんはわりと好青年に見えるのに対し、助手さんはクールなイメージ、かな?
「弟さんは何歳?」
喉がいがらっぽいのか、咳払いを何度かして、聞いてきた。
「13歳」
「中学生か」
「うん」
そんな会話を交わしてる間に、お茶が運ばれてきた。
「今日のは新茶だよ~」
「あ、どうもありがとうございます」
「中学一年なんだ?」
お茶を口にしながら、神田川さんが聞いてくる。
「はい」
「義務教育だね。いつから学校に行かなくなったの? 何か原因とか、思い当たらないかな?」
「全然思い当たらないんです。もともとそんなに学校が楽しそうには見えないとは思ってはいたんですけど、友達もあんまりいないみたいだし、でも、半年前くらいかな? それくらいから休む回数が増えてきて、今月に入ってからはまったく行かなくなっちゃって……。もうどうしたらいいのか……」
「親はどうしてんの? あんた一人できてるけど、こういうことって普通親とかが来るもんじゃねぇ?」
助手さんが無遠慮に言うのに対し、お茶をすすっていた神田川さんがそれを咎めるような視線で見る。
「あっちゃん、そういうことはもっと慎重に言うもんでしょ」
「あっちゃ………」
あっちゃんはちょっとイメージとは違う感じかなぁ、と思わず笑ってしまったあたしに、彼……もとい、あっちゃんがこちらをギロリと睨んだ。目の所の彫りも深くて、めっちゃ迫力。かなり怖いかも……。目が変な色で光ってる気すらした。
「笑うな! ……っ」
怒鳴った直後、げほげほと盛大に咳き込んだ。苦しそうに咳がとまらないでいるあっちゃんに、神田川さんが背中をさするようにする。
「だ……大丈夫?」
「ああ、気にしないで。あっちゃんちょっと風邪気味なだけ」
「あ-、そうなんですか」
「喋ると咳がでるみたい」
咳は体力を消耗するって言うけど、本当にそうなんだな、って思うくらいの咳の仕方。咳の一つ一つに、体が小さく跳ねる。
しばらく続いた後にやっと咳が少なくなってきて、ソファに預けてた体を重たそうに持ち上げて、あっちゃんはあたしに言った。
「まず、問題は、あんたの家」
「え?」
短い言葉を言うたびに、苦しそうに重たく息を吸う、それからまた少しだけ言葉を続けて、また苦しそうに息を吸って……、という繰り返しで発された言葉にあたしは絶句する。
家に問題って?
ドキリと心臓が跳ねた気がした。
「あんたの、親」
2、3回咳をして、それから慎重に呼吸を整えてからまた続ける。
「離婚、すんなら、さっさと、しろ」
涙目でなければ、彼の性別が違えば、年齢がもっと上だったら……、
「大人の、ごたごたに、子供を、巻き込むな」
どこぞのファンタジー小説かアニメの映画にでもでてきそうな、予言者のオババに見えたかもしれない。
目が変な色で光ってる……とさっき思った理由がわかった。彼の顔の角度での関係で、今は彼の目がよく見える。
私の瞳を見据えるのは、
緑がかった目。
彼の言葉は実はとても的が当たっていた。確かに、考えられそうな原因だった。
言うべきことを言って息絶える予言者の老女のように、あっちゃんはとうとうソファからずるりと体を床に落として大きく体を上下させていた。胸の上のところ、首の付け根のあたりを爪を立ててるんじゃないかっていうほど強く押さえていた。
そんな様子でも神田川さんはとても落ち着いてあっちゃんにタオルケットをかける。
「ごめんね、なんかあっちゃん具合悪そうだから、今日はもう終わりにしていいかな?」
「は、はい」
「今度、弟さんと会いたいな。こっちに連れてこれそうなら連れてきてもらいたいんだけど、無理そうならこっちから伺いたいんだけど?」
「え……えと、弟はもう外にも出たがらないので……」
「了解。じゃあ、日を改めて近いうちにこっちからまた連絡するから」
これが、あたしとこの二人の最初のコンタクト。
本当にこの人に頼んじゃっていいのかな? という迷いは、なぜか一発でうちの家庭の不和を見抜いたあっちゃんに打ち消されてしまった。
もう彼らになんとかしてもらうしかない。あたしはもう、腹を決めていた。