悪魔に金棒
「鬼に金棒、って言うだろ」
放課後の教室で、悪魔が言った。
いや、悪魔といっても、角があるわけでも、羽があるわけでもない。黒いパーカーに黒いマスク、黒い前髪で顔の半分を隠した、うちのクラスの黒崎くんだ。
ただ、彼はいつも人の心の柔らかいところを、針でつつくようなことを言う。
だから私は、心の中で彼を悪魔と呼んでいる。
「言うけど」
私は机に頬杖をついたまま答えた。
「鬼に金棒。強いものに、さらに強い武器が加わるって意味でしょ」
「そう。じゃあ、悪魔に金棒なら?」
「……悪いものに、さらに悪い武器が加わる?」
「惜しい」
黒崎くんは笑った。
「悪魔に金棒。つまり――金で棒に振る」
「どういうこと」
「悪魔は契約が仕事だからな。金を積まれれば、人の人生くらい棒に振らせる」
「最低」
「最高の最低、だろ」
彼はそう言って、私の机の上に一本の金色の棒を置いた。
細長い、金属製の棒。キーホルダーくらいの大きさで、先端に小さな輪っかがついている。
「なにこれ」
「金棒」
「これが?」
「金色の棒だからな。略して金棒」
「鬼が泣くよ」
「鬼は泣かない。泣くのは人間だ」
黒崎くんは、またそういうことを言う。
はぁー、
私はため息をついた。
「で、その金棒で私の人生を棒に振らせるつもり?」
「いや。逆だ」
「逆?」
「君の人生を、棒に振らせないために来た」
窓の外では、運動部の掛け声が響いていた。
夕方の光が教室に斜めに差し込んで、黒崎くんの影を長く伸ばしている。その影だけが、妙に悪魔っぽかった。
「1ヶ月後の生徒会長選、出るんだろ」
「……出ないよ」
「嘘だ」
「出ないって」
「出たいくせに」
私は黙った。
悪魔は、人の心の柔らかいところを知っている。
「どうせまた、あの子に譲るんだろ。幼なじみの天野さんに」
「彼女は人気あるし、向いてるし」
「君も向いてる」
「私には無理」
「出た。人間が一番好きな呪文だ」
黒崎くんは指を立てた。
「『私には無理』。唱えるだけで、挑戦しなくて済む。失敗しなくて済む。嫌われなくて済む。便利だよな」
「うるさいな」
「うるさいのが悪魔の仕事だ」
「契約じゃないの?」
「契約前の営業だ」
私は笑いそうになって、こらえた。
黒崎くんは金棒を指で転がした。
「これ、持っていけよ」
「選挙に?」
「お守りだ」
「金棒を?」
「鬼に金棒。君に金棒。つまり、君は鬼になれる」
「女子高生に向かって鬼になれは、なかなかの暴言だね」
「鬼ってのは本来、強いもののことだ。恐れられるくらい、自分の欲しいものを取りに行けるやつのことだ」
「……悪魔みたいなこと言うね」
「悪魔だからな」
そう言って、彼は少しだけ目を細めた。
「君さ、天野さんに譲ってるんじゃない。天野さんのせいにして逃げてるだけだろ」
胸の奥が、きゅっと痛んだ。
「そういう言い方、嫌い」
「だろうな。本当のことは、だいたい言い方が悪い」
「悪魔って、もっと甘い言葉で誘惑するんじゃないの?」
「甘い言葉は天使の担当だ。悪魔は現実を突きつける」
「嫌な悪魔」
「いい悪魔よりマシだろ」
「いい悪魔ってなに」
「君の望みを叶える悪魔」
黒崎くんは金棒を私の手元に押しやった。
「契約しよう」
「やっぱり契約するんだ」
「君は1ヶ月後の選挙に出る。俺は推薦人になる。代償は――」
彼は少し間を置いた。
「当選したら、購買の焼きそばパンを一個」
「安い悪魔」
「悪魔業界も価格競争が激しい」
私は金棒を手に取った。
軽かった。
こんな軽い棒で、人生が変わるわけがない。そう思った。
でも、人生を変えるものなんて、たぶんいつも軽いのだ。
たった一言。
たった一歩。
たった一枚の立候補用紙。
「落ちたら?」
私が聞くと、黒崎くんは肩をすくめた。
「落ちたら、人生を棒に振ったことになる」
「最悪じゃん」
「でもな」
彼は笑った。
「振らなきゃ、当たりもしない」
言葉遊びみたいな理屈だった。
でも、妙に胸に残った。
翌日、私は生徒会長選に立候補した。
1ヶ月後、結果は、落選。
天野が当選した。
私は拍手した。ちゃんと笑った。ちゃんと悔しかった。
放課後、教室で黒崎くんに金棒を返した。
「負けたよ」
「知ってる」
「人生、棒に振った」
「いい空振りだった」
「野球じゃないんだけど」
「人生なんて、だいたい空振りだ。たまに当たるから気持ちいいだろ」
黒崎くんは金棒を受け取らなかった。
「持ってろよ」
「なんで」
「次に振るとき、いるだろ」
私は黙って、その金色の棒を握った。
「ねえ、黒崎くん」
「なんだ」
「どうして私に出ろって言ったの?」
「悪魔だから」
「理由になってない」
「なってるよ」
彼は窓の外を見た。
「悪魔は、人間が本当に欲しがってるものを見抜くんだ」
私は少しだけ、息を止めた。
「じゃあ、私が本当に欲しがってたものって?」
黒崎くんは私を見た。
その目は、悪魔というより、少しだけ寂しそうな人間の目だった。
「負ける権利」
その言葉に、私は何も言えなかった。
「じゃあな。鬼塚」
「私、鬼塚じゃなくて小野寺だけど」
「今日から鬼塚でいいだろ。鬼に金棒なんだから」
「勝手に改名しないで」
「悪魔に名前を知られると危険だからな」
「もう知ってるでしょ」
「小野寺さん」
急に、ちゃんと名前を呼ばれた。
「君はたぶん、これから強くなる」
私は金棒を見た。
金色の、ただの棒。
でも、少しだけ重くなった気がした。
「悪魔の予言?」
「いや」
黒崎くんは教室のドアを開けながら言った。
「友達の期待」
そう言って、悪魔は帰っていった。
私は一人で笑った。
悪魔に金棒。
それはきっと、悪いものがもっと悪くなることじゃない。
誰かの中にいる弱い鬼が、やっと立ち上がるための、くだらなくて軽くて、でも確かな一本の棒のことだ。




