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悪魔に金棒

作者: ましろ
掲載日:2026/05/01

「鬼に金棒、って言うだろ」


放課後の教室で、悪魔が言った。


いや、悪魔といっても、角があるわけでも、羽があるわけでもない。黒いパーカーに黒いマスク、黒い前髪で顔の半分を隠した、うちのクラスの黒崎くんだ。


ただ、彼はいつも人の心の柔らかいところを、針でつつくようなことを言う。


だから私は、心の中で彼を悪魔と呼んでいる。


「言うけど」


私は机に頬杖をついたまま答えた。


「鬼に金棒。強いものに、さらに強い武器が加わるって意味でしょ」


「そう。じゃあ、悪魔に金棒なら?」


「……悪いものに、さらに悪い武器が加わる?」


「惜しい」


黒崎くんは笑った。


「悪魔に金棒。つまり――金で棒に振る」


「どういうこと」


「悪魔は契約が仕事だからな。金を積まれれば、人の人生くらい棒に振らせる」


「最低」


「最高の最低、だろ」


彼はそう言って、私の机の上に一本の金色の棒を置いた。


細長い、金属製の棒。キーホルダーくらいの大きさで、先端に小さな輪っかがついている。


「なにこれ」


「金棒」


「これが?」


「金色の棒だからな。略して金棒」


「鬼が泣くよ」


「鬼は泣かない。泣くのは人間だ」


黒崎くんは、またそういうことを言う。



はぁー、



私はため息をついた。


「で、その金棒で私の人生を棒に振らせるつもり?」


「いや。逆だ」


「逆?」


「君の人生を、棒に振らせないために来た」


窓の外では、運動部の掛け声が響いていた。


夕方の光が教室に斜めに差し込んで、黒崎くんの影を長く伸ばしている。その影だけが、妙に悪魔っぽかった。


「1ヶ月後の生徒会長選、出るんだろ」


「……出ないよ」


「嘘だ」


「出ないって」


「出たいくせに」


私は黙った。


悪魔は、人の心の柔らかいところを知っている。


「どうせまた、あの子に譲るんだろ。幼なじみの天野さんに」


「彼女は人気あるし、向いてるし」


「君も向いてる」


「私には無理」



「出た。人間が一番好きな呪文だ」


黒崎くんは指を立てた。


「『私には無理』。唱えるだけで、挑戦しなくて済む。失敗しなくて済む。嫌われなくて済む。便利だよな」


「うるさいな」


「うるさいのが悪魔の仕事だ」


「契約じゃないの?」


「契約前の営業だ」


私は笑いそうになって、こらえた。


黒崎くんは金棒を指で転がした。


「これ、持っていけよ」


「選挙に?」


「お守りだ」


「金棒を?」


「鬼に金棒。君に金棒。つまり、君は鬼になれる」


「女子高生に向かって鬼になれは、なかなかの暴言だね」


「鬼ってのは本来、強いもののことだ。恐れられるくらい、自分の欲しいものを取りに行けるやつのことだ」


「……悪魔みたいなこと言うね」


「悪魔だからな」


そう言って、彼は少しだけ目を細めた。


「君さ、天野さんに譲ってるんじゃない。天野さんのせいにして逃げてるだけだろ」


胸の奥が、きゅっと痛んだ。


「そういう言い方、嫌い」


「だろうな。本当のことは、だいたい言い方が悪い」


「悪魔って、もっと甘い言葉で誘惑するんじゃないの?」


「甘い言葉は天使の担当だ。悪魔は現実を突きつける」


「嫌な悪魔」


「いい悪魔よりマシだろ」


「いい悪魔ってなに」


「君の望みを叶える悪魔」


黒崎くんは金棒を私の手元に押しやった。


「契約しよう」


「やっぱり契約するんだ」


「君は1ヶ月後の選挙に出る。俺は推薦人になる。代償は――」


彼は少し間を置いた。


「当選したら、購買の焼きそばパンを一個」


「安い悪魔」


「悪魔業界も価格競争が激しい」


私は金棒を手に取った。


軽かった。




こんな軽い棒で、人生が変わるわけがない。そう思った。



でも、人生を変えるものなんて、たぶんいつも軽いのだ。



たった一言。



たった一歩。



たった一枚の立候補用紙。





「落ちたら?」


私が聞くと、黒崎くんは肩をすくめた。


「落ちたら、人生を棒に振ったことになる」


「最悪じゃん」


「でもな」


彼は笑った。


「振らなきゃ、当たりもしない」


言葉遊びみたいな理屈だった。


でも、妙に胸に残った。


翌日、私は生徒会長選に立候補した。







1ヶ月後、結果は、落選。







天野が当選した。




私は拍手した。ちゃんと笑った。ちゃんと悔しかった。







放課後、教室で黒崎くんに金棒を返した。


「負けたよ」


「知ってる」


「人生、棒に振った」


「いい空振りだった」


「野球じゃないんだけど」


「人生なんて、だいたい空振りだ。たまに当たるから気持ちいいだろ」


黒崎くんは金棒を受け取らなかった。


「持ってろよ」


「なんで」


「次に振るとき、いるだろ」


私は黙って、その金色の棒を握った。


「ねえ、黒崎くん」


「なんだ」


「どうして私に出ろって言ったの?」


「悪魔だから」


「理由になってない」


「なってるよ」


彼は窓の外を見た。


「悪魔は、人間が本当に欲しがってるものを見抜くんだ」


私は少しだけ、息を止めた。


「じゃあ、私が本当に欲しがってたものって?」


黒崎くんは私を見た。


その目は、悪魔というより、少しだけ寂しそうな人間の目だった。


「負ける権利」


その言葉に、私は何も言えなかった。



「じゃあな。鬼塚」


「私、鬼塚じゃなくて小野寺だけど」


「今日から鬼塚でいいだろ。鬼に金棒なんだから」


「勝手に改名しないで」


「悪魔に名前を知られると危険だからな」


「もう知ってるでしょ」



「小野寺さん」


急に、ちゃんと名前を呼ばれた。


「君はたぶん、これから強くなる」


私は金棒を見た。


金色の、ただの棒。


でも、少しだけ重くなった気がした。


「悪魔の予言?」


「いや」


黒崎くんは教室のドアを開けながら言った。


「友達の期待」


そう言って、悪魔は帰っていった。


私は一人で笑った。


悪魔に金棒。


それはきっと、悪いものがもっと悪くなることじゃない。


誰かの中にいる弱い鬼が、やっと立ち上がるための、くだらなくて軽くて、でも確かな一本の棒のことだ。




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