涙のあとで
翌朝、リリはいつもより早く目を覚ましていた。
気づけば、昨日の姿のままベッドの上に横たわっていた。
まさかと思いその身を確認するものの、何も起こったような形跡はなかった。
窓の外では、淡い朝霧が街を包んでいた。
光はまだ柔らかく、世界の輪郭がぼやけて見えた。
まるで夢と現実の境界を歩いているかのような、不思議な感覚でもあったのだ。
リリは、小さく息をつく。
昨夜の涙が乾いた痕を指先でなぞり、静かに笑う。
胸の奥に残る痛みは、まだ消えていない。しかし、どこか違っていた。
「もう、ハルトは遠いのね……」
そう気づいた時、涙ではなく静けさが心を満たしていたのであった。
そしてウルにも、ひどく迷惑をかけてしまったと反省した。
手早く着替えて、リビングへと向かう。
小さな椅子には、ウルが座っていた。
昨日のままの服装で、テーブルに腕をのせて、眠っている。
ランプの淡い光に照らされて、灰色の髪が柔らかく揺れていた。
その姿を目にして、リリの胸には温かなものが込み上げていた。
「……ウル?」
呼びかけると、彼は静かに目を覚ます。
獣人特有の鋭い金の瞳が、ぼんやりとリリの姿を映していた。
「おはよう。もう、起きたのか……」
「うん。昨日は、ごめんね。いいぱい、迷惑をかけて……」
「迷惑だなんて、思ってない」
ウルは軽く首を振って、立ち上がる。
そして椅子をリリにと譲り、カップに水を注いでいた。
ウルの動きはいつでも無駄がなく、静かであった。
長年の職務で鍛えられた慎重さが、指先の所作にまで滲んでいたのであった。
リリは差し出された受け取って、静かに喉を潤していく。
「……夢みたいな、一日だったわ」
「悪い夢か?」
「それは……わからない。とっても苦しかったけど、どこか……。現実を受け入れられたような気もするの」
その言葉に、ウルは黙って頷いた。
ウルの顔にもまた、深い理解の影があったのだ。
しかしぐうと鳴る腹の音に、二人は思わず顔を見合わせてしまう。
「ごめん。そういえば、昨日の朝から何も食べてなかった……。ウルは?」
「俺もだ」
「本当に、ごめんね!いま、なにか準備するから!」
リリは慌てて立ち上がり、冷蔵庫の扉を開いていた。
「何か手伝うことがあれば、言ってくれ」
しかしウルの申し出は、断られてしまう。
「ううん、ウルは座ってて?残り物ばっかで悪いけど、今あたためるから……」
リリは手際よく食事をあたためていき、ウルの前へと多く差し出した。
それは何人前かもわからぬほど、ありとあらゆる食事が並んでいく。
「リリ、それくらいで……」
「いいの、私も食べるから!ウル、腹が減っては戦はできぬというでしょう?」
「……そうなのか?」
リリとウルは、ありったけの食事をかきこんだ。
まるでこれまでの鬱憤を全て晴らすかのように、あっという間にその皿は空になっていく。
リリは満腹になるのを感じながら、どこかすがすがしい気持ちを抱いていた。
誰かとこうして食卓を囲むのは、何年ぶりであるのだろうかと。
そしてウルもまた、初めて味わうリリの手料理に目を輝かせていた。
「どれも、美味しいな」
「そう?ありがとう」
二人は微笑みながら、全ての食事を平らげた。
腹も満たされ、食器も全て洗い終えたあと。
リリは、部屋の隅にある棚へと歩いていた。
そこには、十年前の転移直後から集めてきた資料の束があったのだ。
転移理論の書籍、役場でのデータ、異界間通信の記録など……。
そして、ハルトとの思い出の品の数々も。
「これを全部、片付けようと思うの。ウル、手伝ってもらってもいい?」
リリは、静かに言った。
ウルの表情が、わずかに揺れる。
「……いいのか?」
「うん。彼が幸せに生きてるなら、それでいいの」
そう言いながら、リリはおもむろに手帳を開く。
中には、ハルトと過ごした日々のメモがびっしりと詰まっていた。
初めてこの世界の星空を見た夜のこと、二人で市場を歩いた日。
転移の原因を調べようと、夜通し話したあの時間。
それらの記録を、彼女は一枚ずつ破り、ゴミ箱に入れていく。
紙の裂ける音が、部屋の空気を強く震わせていた。
しかしその音は、どこか安らぎにも似たような音をしていたのだ。
ウルは黙って隣に立ち、破り終えた紙をまとめて入れるのを手伝った。
二人の間に、言葉はいらなかった。
ただ、リリの横顔が少しずつ強くなっていくのが見て取れた。
莫大な量のゴミを始末したあと、リリはにっこりと微笑んでみせた。
「ありがとう、ウル」
その笑みは、昨日の涙とは違い、晴れ渡る空のように穏やかなものでもあったのだ。
「いや、俺は何も……」
「……私ね、やっと自由になれたような気がするの」
「自由?」
「そう。過去に縛られないで生きるって……。怖いけど、ほんの少しだけ楽しみだわ」
ウルはその言葉を聞きながら、胸の奥で何かが溶けていくのを感じていた。
リリは本当に強い女性であると、素直にそう思った。
誰かを想い続け、そして手放す。
それは、どのような勇気よりも逞しいものであるかのように思えたのだ。




