見たいものを映す鏡
朝の風はまだ柔らかく、相談所の中庭には白い花が咲いていた。
春の始まりを告げるその花は、「キボウ」と呼ばれていた。
珍しい種類であったために、第一発見者であるリリが名付けたのであった。
少しでも、転移者たちの希望になればと。
かすかに揺れるその花を見つめていたリリの瞳にも、ほんの少しの光が宿っていた。
「今日も、いい天気になりそうね」
受付に立ちながらリリがそう言うと、隣の窓口で書類を整理していたウルが短く頷いた。
「そうだな。だが、穏やかな日ほど……変わった案件がくるんだよな……」
「もう、すぐそういうこと言うんだから……」
「……だって、事実だろ。前回だって天気のいい日に、異界獣が庁舎に迷い込んだんじゃなかったか?」
「そうね、そんなこともあったわね……」
そのようなやり取りをしていた、その時。
扉が静かに開き、ひとりの老婆が入ってきた。
深くか被ったフードの下から覗く顔は、皺の刻まれた穏やかな顔立ちでもあった。
しかし、抱えているものは奇妙なものであったのだ。
それは、古びた銀の縁取りがなされた大きな鏡であった。
腰ほどの高さがあるにもかかわらず、老婆はそれを軽々と持ち歩いているようでもあった。
「ごめんください……」
と、かすれた声が響く。
リリは立ち上がり、丁寧に出迎えた。
「おはようございます。本日は、いかがされましたか?」
老婆は鏡をそっと机の上に置き、両手で布を外してみせる。
「これね、ここに来たときになーんでかしらないけど持ってたのよ。神殿に入ったら、“見たいものを映す鏡”だって、神官さまは言ってたんだけど。私にはなーんにも見えんのよ。ほら、このとおり……」
その鏡を見つめて、ウルは眉をひそめる。
「神具にしては……随分と、古いような……」
「あの、触ってもいいですか?」
「どうぞどうぞ……」
リリが静かに、鏡に向けて手を伸ばす。
縁に刻まれた文様は、見たことのない古代文字のようでもあった。
薄く埃を被っているが、鏡面は驚くほど澄んでいた。
リリはそっと、その中を覗き込む。
最初は、自分の顔が映っていた。
しかし次の瞬間、鏡の奥が、かすかに波を打つ。
「……あれっ?」
ウルが顔を上げるより早く、リリの表情が凍りついた。
鏡の中に、見覚えのある姿が映っていたのだ。
あの柔らかな笑顔。あの、少し照れたように笑う癖。
恋人のハルトの姿が、そこには映っていたのであった。
だがその隣には、見知らぬ女性がいた。
女性はハルトの腕を取り、親し気に微笑んでいた。
さらに反対側の腕には、小さな少年がしがみついていた。少年は、ハルトによく似た瞳をしていた。
幸せそうに、三人はどこかへ歩いていく。
まるで、家族であるかのように。
「……っ……!」
リリは息を呑み、その目を大きく見開いていた。
胸の奥が、強い痛みで押し潰されそうに苦しくなる。
何かを言おうとしたが、声すらもまともに出せなかった。
ウルは事情を察し、そっと老婆に向き直る。
「この鏡を、他の場所に見せたりは?」
「いいえー、まずはなんでも相談所にって神官さんに言われたからねえ」
「そうでしたか……。しばらく、お預かりしても構いませんか?こちらでお調べしてみます」
「まあ、いいのかい?なーんにも映らない鏡だと思うけどねえ」
老婆の声は、穏やかなものであった。
しかしリリは、もうその声すらも耳に入っていなかった。
鏡を持つ手が、かすかに震えてしまう。
見てはいけないものを、見てしまった。そのような思いだけが、心の中に残っていた。
老婆が去ると同時に、ウルは”休憩中”の札をかけて窓口を閉めはじめる。
リリは机の端に手をつき、立っていることがやっとの状態でもあったのだ。
その指先は、白くなるほど強く握られていた。
「……リリ、見たんだな?」
「……ええ……」
「映っていたのは……彼、だったのか?」
リリは静かに、頷いた。
「でも、隣に女の人がいたの……。それに……男の子も……」
ひどく、声が震えていた。
瞳に溢れる涙を、リリは拭おうともしなかった。
「リリ、今日はもう帰れ。あとは俺が片付けておくから」
「……ごめんなさい、ウル」
「謝るな」
リリは鞄を手にし、ふらふらと立ち去った。
ウルはただ、その背を見送ることしかできないでいた。
***
外に出ると、空は鈍い灰色に染まり始めていた。
まるで、リリの心を映すような空でもあった。
彼女の歩幅は小さく、途中で何度も立ち止まりそうになっていた。
ウルは、急いでその後を追っていた。
「リリ!」
呼び止める声に、リリは振り返る。
「送る」
「……いいわ」
「いいから。こういう時は、一人で歩くな!」
リリは、抵抗しなかった。
二人は並んで、静かにゆっくりと歩き出す。
石畳を踏む靴音が、やけに大きく響いていた。
沈黙が、長く続いた。
しかし、ウルは口を開く。
「本当に、彼だったんだな?」
「……ええ。間違いないわ。顔も、笑いかたも、ぜんぶ……」
「鏡の中の光景が、現実だと?」
「たぶん、そう……。あれは、“別の世界”なんだと思うの」
リリは、呟くように言った。
「彼はあの時、……別の世界へ行ったのよ。きっと。私を置いて……。その先で、あの人は幸せに生きている……」
その言葉は、風に溶けるほど静かなものであった。
ウルは、拳を強く握りしめた。
胸の奥が、焼けるように痛んでいた。
彼女が涙をこらえるたびに、その涙の理由が“別の男”にあることが、どうしようもなく苦しくあったのだ。
「……リリ」
「なに?」
「いや……。今日はもう、まっすぐ帰ろう」
「ウル、私……」
言いかけて、リリは唇を強く噛む。
涙が溢れそうになり、視界がぼんやりと滲んでいた。
「……今は、誰にも会いたくないの」
「いい。俺は“誰か”じゃないだろう?」
その一言に、リリは目を見開く。
ウルはそのまま、彼女の肩を抱いていた。
驚きながらも、リリは拒むようなことはしなかった。
二人は、ただ無言で歩き続けた。
その距離は少しずつ縮まり、それでも互いの心の間には、まだ見えない壁がある。
***
リリの家に着く頃には、太陽は高く昇っていた。
ドアを開けたその途端、リリはその場に崩れ落ちてしまう。
「リリ……!」
ウルがその身を支えると、リリは堪えていた涙を一気に流しはじめていた。
「どうして……、どうしてなの?ずっと探していたのに……私の知らないところで、あの人は……幸せそうにしてた……!」
嗚咽が、止まらなかった。
ウルはただ、リリの身を強く抱きしめることしかできないでいた。
何も言わず、ただ静かに頭を撫でることしか。
部屋の中には、恋人との思い出の品と思われるものがいくつもあった。
飾られた写真、手紙。そして、古びたペンダント。
そのひとつひとつが、リリの“十年”でもあったのだ。
ウルはそっと、目を閉じた。
この世界に来てから、彼女はずっと彼を探していた。それが、彼女の生きる意味でもあったのだ。
しかしいま、その意味は崩れ落ちてしまった。
リリは、泣きながら叫んだ。
「ウル……。わたし、……もうどうしたらいいの?」
「泣けばいい。……今は、それでいい」
「泣いても、何も変わらないじゃない……」
「それでも、泣くんだ。……お前が泣かないと、代わりに俺が泣きたくなる」
ウルのその声は、震えていた。
リリはウルの胸元に顔を埋め、子供のように泣いていた。
時間が止まったかのような、真昼であった。
やがて、その嗚咽は小さくなり、リリの肩が静かに上下する。
呼吸が落ち着く頃、ウルは彼女の髪を撫でながら、小さな声で呟いた。
「……俺は、お前がいるだけでいいんだ」
その言葉を、リリは夢の中で聞いていた。
返事をすることはなかった。
しかしその日、ウルの腕の中で、リリはようやく深い眠りにつくことができたのだ。
ウルは深く息を吐き、リリの身を抱え上げた。
寝室を探し、ベッドの上にその身を横たえた。
リリの涙を指で拭い、どうするべきかと考える。
このままここを去ってもいいが、次にリリが目覚めた時ウルは一番はじめにその視界の中にいたかった。
太陽は静かに傾き、やがて夜が訪れる。
ウルはどうすることもできないまま、リビングへと向かった。
リリが目覚めた時に何か口にすることができるようにと、勝手を承知で冷蔵庫を開く。
そこには、作り置かれた食事が小分けにされていた。
真面目なリリらしいと思いながら、ウルはかすかな笑みを浮かべて扉を閉めた。
やがて椅子に座っているうちに、ウルもまたうとうとと寝息を立ててしまう。




