異世界なんでも相談所
とある国のある役場前には、今日も長い行列ができていた。
列の先頭には、光を帯びた衣装や、奇妙な形の杖を持つ者たち。その次には獣の耳を生やした者や、鱗の肌を持つ者など。
どの顔にも、期待と不安、そして現実への戸惑いが浮かんでいた。
ここは、”異世界転移者受付課”。
別の世界からやってきた、いわゆる異世界転移をした人々が、生活の基盤を整えるために最初に訪れる場所でもあったのだ。
そして、その一角に併設された小さな建物がある。
”異世界なんでも相談所”
ここでは、転移者の生活、仕事、恋愛、心の悩みまでも受け止めていたのであった。
その窓口に、いつも穏やかな声を響かせる女性がいた。
名前を、リリという。十年前、日本から転移してきた相談員だ。
***
朝の光が、磨かれた窓ガラスを透かしてあたたかく差し込んでいた。
書類の山と、インクの香り。
リリは手元のペンを動かしながら、目の前の青年に向けて柔らかく微笑んでみせた。
「生活費の申請は、まずこちらの用紙に記入してくださいね。お名前は?」
「えっと……、ササモト・ケンです」
「ササモトさん、ようこそ異世界へ。ここでの生活は、最初は戸惑うかと思いますが大丈夫ですよ。少しずつ、慣れていきましょうね」
そう言って、彼女はペンを置いた。
その声色には、深い優しさと静かな強さがあったのだ。
背後の窓口からは、低く響く声が聞こえる。
「次の方、どうぞ」
同じく相談員である狼獣人の青年、ウルだ。
ウルもまた、獣人国から転移してきた転移者であった。
灰色の耳がぴんと立ち、金の瞳が真っすぐに相手を見据えていた。
しかし、怖い印象はない。
むしろその誠実な表情に、安心して涙ぐむ相談者も多くあったのだ。
ウルは書類を確認しながら、時折隣のリリの様子を見つめていた。
彼女が微笑むたびに、胸の奥が温かく、そして苦しくなるような気がしていた。
***
ウルがリリと出会ったのは、配属初日の朝であった。
慣れない制服姿で廊下を歩くリリが、手に抱えた書類を床に落としてしまう。
「す、すみません!」
しゃがみこんで拾い集めるその姿を見て、ウルがそっと助けていたのだ。
「大丈夫ですか?」
「ありがとうございます。助かりました」
その時、彼女が見上げた瞳。
少し驚いたように見開かれた茶色の瞳が、やがて柔らかく細められた。
その一瞬に、ウルの心は掴まれてしまったのだ。
その日から、偶然にもウルはリリと同じ部署で働くようになる。
初めは、ただの同僚として。
しかし日々を重ねるうちに、彼の中に芽生えた想いは次第に形を変えていくのである。
***
ある日の夕方。
相談所の閉庁後、書類整理をしていたリリが深くため息をついていた。
机の端には、積み重なった転移者たちの申請書類。
どれも、異世界から来た人々の“人生の始まり”を記す紙でもあった。
「お疲れ、今日も長かったな」
ウルが声をかけると、リリは小さく笑って頷いた。
「ええ。……でも、あの子が泣き止んでくれてよかった」
「ああ、帰る時には笑ってたな」
彼らが思い出していたのは、昼間に訪ねてきた転移者の少女のことである。
まだ十五歳と若く。
突然この世界に落ち、家族も帰る方法もわからないと泣いていた。
リリは優しく少女に寄り添い、手を握りながらこう言った。
「ここでは、泣いてもいいの。なにか怖いことがあった時は、泣いて、話して……。そして、一緒に考えましょう?」
その言葉に、少女は涙を拭って笑っていた。
そのように、リリは人々の心に希望の光を灯していた。
その姿を間近で何度も目にしてきていたウルは、ますます彼女から目を離せなくなっていたのだ。
しかしリリの過去を知る者は、ほんの数人だけであった。
夜になり。
職員宿舎の裏庭で、残業を終えた二人は並んで歩いていた。
星々が輝く空に向けて、リリは小さく呟いた。
「……ウルは、もし転移の仕組みが解明されたら……帰りたいと思う?」
「俺に帰る場所は、もうない」
「そう……」
わずかな沈黙が落ちる。
ウルは、小さく息をついて話を続けた。
「リリは、帰りたいと思うのか?」
「……ううん、もうわからない。ただ……」
リリは立ち止まり、空を仰ぐ。
「……彼を、見つけたいだけなの」
その“彼”という言葉の重みを、ウルは知っていた。
彼女がこの世界に転移した時、一緒にいた恋人の青年だ。
だが彼は、数日後に突然消えた。
まるで別の世界に吸い込まれたかのように、何の痕跡も残さず。
その出来事が、リリの今を生きる理由となり、それと同時に彼女を過去に縛りつけている原因にもなっていたのだ。
ウルは、静かに拳を握りしめた。
リリの願いが叶うことを祈る一方で、心のどこかで、“見つからなければいい”と願ってしまう自分がいるのだ。
「リリ、」
「なあに?」
「……無理はするなよ?」
「……ありがとう。ウルって、優しいね」
その微笑みが、ウルの心をひどく締めつけた。
帰り際、リリがふと思い出したように言った。
「ねぇ、ウル。明日、お昼でも一緒にどう?」
「ああ、もちろん」
その答えに、リリは嬉しそうに頷いた。
彼女は、ウルが自らに好意を抱いていることを知っていた。
しかし、それを受け止める余裕はまだない。
それでもウルと過ごす時間は、確かに心を温めていた。
ウルもまた、彼女の中に消えない影があることを知りながら、それでもただ隣にいることを選んでいた。
こうして、二人の穏やかな日常は続いていく。
転移者の笑顔と涙を見送り、また新しい朝がくる。
しかし運命の歯車は、静かに回り始めていたのであった。
ある日、一枚の鏡が、彼等の運命を変えてしまう。
それは、“見たいものを映す鏡”と呼ばれていた。
そしてその鏡の中で、リリは決して見るはずのなかった現実を見てしまうこととなるのであった。




