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東京帝国女学院 四季の情話

秋は夕暮れ

作者: 真野真名
掲載日:2025/10/13



 秋は夕暮れがいちばんいけない。


 なぜかというと、人は夕暮れになると、やたらロマンチックな気分になってしまうからだ。

 とくに女学生という生きものは、あの茜色の空を見上げると、誰かに手紙を書きたくなってしまう。


 そして手紙を書き出すと、ろくなことが起きない。


 ──これは、そんなろくでもないことが起きてしまった話である。





 東京帝国女学院の二年、藤己澄子ふじき・すみこは、クラスでも評判の“文学少女”であった。

 もっとも、彼女の文学のほとんどは「手紙文学」と言ってよかった。毎日、誰かに手紙を書いては投函する。

 相手は友人、教師、時には近所の魚屋の次男坊まで。とにかく書きたいのだ。


 そんな澄子がある日、学校の掲示板に貼られた「慰問文募集」に目をとめた。

【戦地の兵隊さんにお手紙を。心を励ますお言葉を】


 書けば届く。届けば読まれる。読まれれば返事が来るかもしれない。

 想像しただけで、彼女の胸は春風のようにふくらんだ。秋にもかかわらずである。


 「お父さま、わたくし、慰問文をしたためることにいたしましたわ」


 夕飯の食卓で宣言すると、陸軍省勤務の父・藤己重信は「おお、それは殊勝なことだ」と微笑んだ。


 「だがな、あまり変なことは書くんじゃないぞ。兵隊さんも困る」

 「わかっておりますわ、父さま。心の清らかな励ましを──」


 澄子は、ちゃぶ台の上の秋刀魚を見ながら、既に構想を練っていた。


 “秋は夕暮れ。戦場の空にも茜はさすのでしょうか”──そんな書き出しが浮かんでいた。



 その頃、満洲の北のほう。

 大村勇太郎一等兵は、通信兵として退屈な日々を送っていた。


 「大村ぁ、また東京から手紙だぞ」

 班長の加瀬伍長が鼻をほじりながら投げてよこす。


 「誰だ、また妹か?」

 「違います。えっと……“東京帝国女学院二年藤己澄子”……知らん」


 「女学生!?」

 伍長が目をむいた。「そいつぁ恋文じゃねえのか?」


 勇太郎は苦笑して封を切った。中からは、見事な丸文字があふれ出した。


 


 秋は夕暮れ。戦場の空にも茜はさすのでしょうか。

 私は東京の空を見上げております。あなた様も、同じ空の下におられるのですね。




 「同じ空の下」──そう書かれてしまうと、どうにも胸がむず痒い。

 だが彼は、ほとんど本能的に筆をとった。




東京女学館二年藤己澄子様


 大村勇太郎、ただの一等兵であります。

 満洲の空にも夕焼けはあります。ですが、馬の尻がじゃまをして、あまりよく見えません。

 戦地にて秋刀魚が恋しい次第です。




 それは、彼にしては上出来の冗談だった。

 が、結果的に、それがことの始まりだった。



 大村の返事を受け取った澄子は、飛び上がって喜んだ。

 「まあ!お返事をくださったのよ!軍人さんが!」


 寄宿舎の友人・千代と愛子が覗きこむ。

 「ねえ、なんて書いてあるの?」


 「“馬の尻がじゃまで夕焼けが見えません”ですって」


 「まぁ、ユーモアのある方ねぇ」

 「きっと素敵なお方だわ」

 「馬の尻を見てる軍人が素敵?」

 「見方の問題よ、愛子」


 澄子は、その晩、二通目の手紙を書いた。




 大村勇太郎様


 馬の尻ごしの夕焼けも、きっと美しいことでしょう。

 私も毎日、校庭の銀杏並木を見ながら、あなた様のご無事を祈っております。

 東京はすっかり秋。落ち葉が便箋に舞い込みましたので、ひとひら同封いたします。




 翌週、勇太郎のもとにその手紙が届いた。中から一枚の銀杏の葉がこぼれ出てきた。


 加瀬伍長がそれをひょいと拾い上げ、「こりゃあ恋の葉書だな」と愉快そうに茶化した。


 「冗談はおやめください。ただの手紙ですよ」

 だが勇太郎の頬が、明らかに紅くなっていた。


 秋は夕暮れ。戦場にも、茜はさすのだ。



 しばらくして、澄子と大村の手紙のやり取りは、月に三往復に達した。


 手紙の内容は、最初こそ敬語だらけのかしこまった文だったが、回を重ねるごとにくだけていった。




 澄子殿

 馬の尻は毎日同じ尻であります。が、時々新入りが混ざるのが慰めです。

 こちらでは芋ばかり食べております。東京の菓子パンが恋しい。




 勇太郎さま

 東京の菓子パンは、いまも高くてなかなか買えません。

 でも、戦場で芋ばかりではおかわいそう。

 今度、母の焼いた栗まんじゅうをお送りします。




 軍の検閲係田川軍曹が封を開けて「まんじゅう!?」と叫んだのは言うまでもない。


 「大村、これ、どーすんだ。差し入れは禁止だぞ」

 「軍曹、味見だけでも」

 「……うむ。味見だけな」


 栗まんじゅうは、その場で跡形もなく消えた。



 秋が深まり、戦況も少しずつ変わり始めた。

 勇太郎の部隊が移動するとの知らせを受け、澄子は少し不安になった。


 「もしや、お怪我など……」

 便箋を握る指が震えた。だが、彼女はそれを笑いに変えるよう努めた。




 勇太郎さま

 秋は夕暮れ。銀杏の葉も、すっかり色づきました。

 あなた様の馬の尻も、少しは黄葉しているでしょうか。




 勇太郎はその一文で思わず吹き出した。

 「伍長!見てください、“馬の尻も黄葉”ですよ!」


 「女学生ってのは恐ろしい生きものだな……」



 冬が来た。

 戦況は厳しく、手紙の行き来も途絶えがちになった。

 届いた手紙も、黒く塗りつぶされている個所が増えていた。


 それでも澄子は、毎晩灯火管制の隙をぬって手紙を書いた。


 ──届かなくてもいい。ただ、書くことで繋がっている気がした。



 春になった頃、彼女のもとに一通の分厚い封筒が届いた。

 封には「帰還報告」とだけ書かれていた。


 中から出てきたのは、野村勇太郎の手紙。




 澄子殿

 われ帰還せり。

 銀杏の葉の色は、こちらでも見えました。

 馬の尻も相変わらず。だが、今は汽車の窓から夕焼けが見えます。

 東京に戻ったら、お礼を言いたい。

 まんじゅうの栗、うまかった。次は澄子殿に会って食べたい。




 澄子は頬を染めた。

 そして鏡を見つめながら、小声でつぶやいた。


 「秋は夕暮れ、ですわね」



 その年の秋。


 上野公園の噴水のそばで、澄子は一人の軍服姿の青年と出会った。


 「藤己澄子さん?」

 「はい……大村勇太郎さん、でいらっしゃいますか?」


 勇太郎ははにかんで笑った。「ええ。馬の尻の観察者です」

 「まあ、あなた様が……」


 二人は、まるで旧友のように笑い合った。

 ベンチに腰かけ、しばらく夕暮れの空を見ていた。


 澄子がぽつりと言った。


 「ほんとうに、同じ空の下にいたのですね」


 「ええ、そして今も。夕焼けは、戦地でも東京でも、だいたい同じ色です」


 秋は夕暮れ。

 空は茜に染まり、噴水のしぶきが金色に光った。


 その日、澄子は帰り道の電車の中で、ふと気づいた。


 ──そういえば、もう手紙を書く相手がいない。

 でも、それは寂しいことではなかった。


 なぜなら、手紙の言葉は、もう心の中に生きていたからだ。



 のちに二人は、笑いながらよくこう言ったという。


 「出会いのきっかけは、馬の尻と銀杏の葉だったね」

 「ええ、“秋は夕暮れ”が、すべての始まりでしたわ」










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