第2話
ギャザバーン軍の中央――総大将ガイヤールは、静かに戦況を見つめていた。
「左翼はどうしました?」
その声は柔らかく、穏やかだった。しかし、その場の空気は一瞬で凍りつく。
「左翼は……総崩れです。ドン様は……」
報告に来た兵が、かすれた声で首を横に振った。それだけで十分だった。
「……ふふふ。それは困りましたねぇ」
ガイヤールは細い目で戦場を掃いた。そして見つける――巨大な斧を肩に担ぎ、悠然と歩いてくる影を。
(……想定より、龍神鬼軍の展開が早すぎましたね……もう少しドンがもつと……)
本来なら、あの橋が落とされた時点で、龍神鬼軍は退路を失い、士気を崩すはずだった。そこへ伏兵が突けば終わり。だが……やはり、“想定外”の男だったか。
「ほほう……ついにご登場ですか。龍神鬼さん」
ガイヤールはふわりと手を挙げ、最前列の兵を一人呼び出す。
「そこのあなた、お名前は」
「ミュ、ミュートです!」
「ミュートさん……いい名前ですねぇ。では、ちょっとしたお仕事を」
ガイヤールはまるで昼下がりの散歩に誘うような口調で言った。
「前方の大男の方へ……十三歩、進んでください」
「え、じゅ、十三歩……」
「ええ。ちょうど目印になります。その場で手を挙げて、こちらに合図を。動かないでくださいね」
ミュートは顔面蒼白のまま、一歩、また一歩と足を運ぶ。十三歩目で止まり、震える手を挙げた。
「そのまま動かないでください。動くと……どうなるか、わかりますよね」
ミュートは泣きそうな顔で必死に頷く。
「さぁ、皆さん、道を開けましょう。龍神鬼さんのお通りです」
ガイヤールが両手を広げると、兵たちは左右に散り、中央にはミュートだけがぽつんと残った。
――そして。
龍神鬼はゆっくりと進んでくる。左右に割れた敵兵の列、その中心に、突っ立った一人の兵士。その前で足を止めると、龍神鬼は首をかしげた。
その目は、ミュートではなく、その先のガイヤールを見ていた。
次の瞬間。
「邪魔だ」
低くつぶやくと、平手でミュートを叩き伏せる。ミュートはつんのめるように倒れ、足元に転がり、気絶した。
龍神鬼は、鎧の胸当てを片手でつかんで引きずると、ミュートごと尻の下に敷き、どっかりと腰を下ろした。
鉄甲が軋む音が、妙に生々しく響いた。
やがて、龍神鬼は正面のガイヤールを見据え、薄く笑って言った。
「ここが……おまえの距離か」
それは、戦場に慣れた者ならすぐにわかる、勝者の声だった。
細い目をさらに細め、ガイヤールが口元に狂気を滲ませて笑う。
「ふふ……やはり、只者ではありませんね。さすがに、ほんの少しだけ――驚きましたよ、龍神鬼さん。ですが――」
わざとらしく、そこで言葉を切る。一拍の間を置いた後、彼はゆっくりと顎を持ち上げる。視線は挑発的な光を帯びていた。
「力だけで全てをねじ伏せる時代は、もう終わったのです。あなたのような方には、少々耳の痛い話かもしれませんが……♪」
彼は余裕の笑みを浮かべるが、目は決して笑っていない。
「悲しいですね、龍神鬼さん。そこから、一歩でも近づいたら、私は全力で、最大火力の攻撃魔法をお見舞いしますよ」
ガイヤールの言葉を、龍神鬼は黙って聞いていた。
「あなたの魔法防御バフは切れていますよね? この距離なら、私の攻撃がクリティカルで入れば即死ですし、生き残ったとしてもスタンと鈍足が付与されます。そうなれば、あなたがこちらに到達する前に、私はもう一発、詠唱できます――その程度のMPくらい、さすがに私でもまだ残っていますので……」
「あっははは……」
龍神鬼が突然、大声で笑い出した。兵たちが困惑し、首を傾げる。
「俺は話が長いと覚えてらんねぇんだ。もういいか」
そして、ゆっくりと立ち上がると、無防備なまま歩き出した。
「非常に……残念ですよ。龍神鬼さん」
それを見て、ガイヤールは詠唱を始めた。最上位魔法。詠唱はやや長い。それでも十三歩は遠い。
右手に杖、左手の指先は龍神鬼を捉える。兵たちが固唾を呑んで見守る中――
――ガッッツーン!
轟音。地面が揺れた。誰もが何が起きたのか理解できなかった。
だが、はっきりしていたのは――ミュートの立っていた場所から数歩先に、無傷の龍神鬼が立っていて、遥か後方に、ガイヤールが吹き飛ばされていたことだ。
額は真っ二つに裂け、脳漿が魔導杖の先にまで飛び散っていた。鮮血が、地面に咲く紅蓮の花となる。――誰も詠唱の結末を聞くことはなかった。
ギャザバーンの二枚看板。総大将、ガイヤール。――秒殺。
――ガイヤールの顔面が吹き飛んだとき、戦場の誰もが悟った。
(……やべえ奴、来ちゃったな)と。
◇◇◇
城内の盟主・ジル・ド・レオは、報せを受けた瞬間、沈黙した。
そして――わずか十秒後に、白旗を命じた。
龍神鬼とやり合える将など、もはやこの城には存在しなかった。
◇
こうして――
『ブリザック城の戦い』は、開始からわずか二時間で幕を下ろした。
そして次なる戦場は、いよいよアデン領にあるグルーディオ城。
そこには、“弱いくせに破天荒な”男がいる。
自由を掲げ、鎖に縛られることを拒む者たちの血盟――
<<< |NEO FREEDOM >>>
そして、その盟主の名は、レイジ・アギャルド。