第4話
――――遡ること、八時間前。
シェヴェリーン城・東の塔。
塔の出入口付近に、沙羅夜が腕を組んで立ち、奥まった場所には知雀明とその護衛兵たちが控えていた。
中ほどの床には、肩で荒い息をしながら左肩を押さえるライザの姿があった。
全身から血が滴り、立っているのがやっとの状態。いつ倒れてもおかしくない。
「早く回復しなさい!」
沙羅夜の声に、知雀明は顔をしかめた。
その顔には、長年培ってきた計算が根底から覆されたことへの絶望と、目の前の女の理解不能な執念に対する純粋な恐怖が滲んでいた。
(回復させれば、この女が何をしでかすか分からん)
知雀明は、沙羅夜の背後――出入口付近の“安全地帯”まで移動してから回復を行うつもりだった。
沙羅夜は少し呆れたように首を振り、ライザに背を向けた。その瞬間――!
血に濡れた額から一点の狂気を宿した瞳が知雀明を捉え、その刹那、ライザは地面を蹴った。
風を切り裂くような唸りを上げて、知雀明が歩いて来るその左肩筋に向けて、斧が振り下ろされた。
「ギェェェェーッ!!」
知雀明の断末魔が、石造りの塔内に響き渡った。
「き、汚いぞ……ライザ……」
斬られた肩を押さえながら、知雀明はライザの体に縋るようにし、ズルズルと崩れ落ちた。
「ば、ばかな……回復前に……」
沙羅夜が振り返ったその刹那、知雀明の周囲にいた護衛兵たちが一斉に剣を抜き、ライザの背や腹に突き立てた。
「ぐっ……ふ!」
口から血を吐きながらも、ライザの瞳は笑っていた。
「汚いって?性格が悪いのは……私のせいじゃない」
斬られ、突き刺され、なおもその言葉を吐いたライザは、剣が刺さったまま仰向けに崩れ落ちた。
「レイジ……ハルトを……」
それが、彼女の最期の言葉だった。
――――それは、壮絶というほかない、ライザの死に様だった。
沙羅夜は腕を組んだまま壁に背を預け、静かに呟いた。
「……馬鹿な……」
その言葉が、ライザの行動に向けられたのか。
それとも、たった一人で我が軍の最高戦力を二人も屠った事実に対するものだったのかは、誰にも分からなかった。
「そこの二人。このライザの亡骸を、ネオフリーダムへ届けてきなさい」
それは敵でありながら、たった一人で敵城へ乗り込んだライザの勇気と覚悟に対する、沙羅夜の偽りなき敬意だった。
「その首二つも、忘れるでないぞ」
それは、ライザが“犬死”ではなかった証。
彼女が命を懸けて示した、最期の抵抗の証明だった。
――それは、壮絶というほかない、ライザの死に様だった。
……そして八時間後、その「遺志」は、ネオフリーダムの門を叩いた。
<<ネオフリーダム・アジト>>
パルが静かに指差した。
その先へ、レイジが視線を向ける。
そこには――二頭の馬に引かれた荷車が一台。
荷台には大きな布がかけられ、白旗が風に揺れている。
荷車の上には、鎧を纏った二人の若い兵士が無言で立っていた。
「ブルーベルが、皆を呼びに行ってる」
と、パルが、傷だらけのレイジの顔をまっすぐに見つめていた。
レイジは、ほんのわずかに笑った。
その表情には、朝までの虚ろさはもうない。
パルが目を細めて言う。
「……やっと、戻ったか」
「まあな」
「レイジ」
「ん?」
「ヒゲ、逸れよ」
その言葉は、どん底で自分を顧みなかった頃の自分を、パルが真っ直ぐに受け止めてくれた証のようだった。レイジは少し間を置いてから、ふっと笑った。
レイジは門扉の外へ出て、兵士たちに声をかけた。
「何の用だ」
「お届け物があります」
痩せた背の高い方の兵士が答える。
「我々は戦うつもりはありません」
もう一人が続ける。どちらの声も緊張でわずかに震えていた。
「そうか。じゃあまず、兜を取って顔を見せてくれ」
レイジの言葉に、二人の兵は兜を取った。年若く、二十に届くかどうかといった面差しだった。
「……分かった。入ってくれ」
レイジが門を開くと、白旗を掲げた荷車がゆっくりと中庭へと進入していく。
パルが振り返ると、ブルーベルに引かれるようにして、団員たちが次々と姿を現した。
囲まれた二人の若い兵は、明らかに怯えていた。唇は紫に染まり、目は泳ぎ、腰は引けていた。
彼らは荷車から降り、後ろの荷台へと回る。
「我々は、ニュルンベルグ・シェヴェリーン城より参りました」
背の高い兵が名乗った。
「これは、我が将・沙羅夜様からの届け物です」
もう一人が布をめくった瞬間――
「うっ……ライザ!」
誰もが息を呑んだ。
「まさか……っ」
シエンが駆け寄る。滅多に見せない取り乱した様子だった。
荷台には、静かな顔のライザが横たわっていた。
胸と腹から流れ出た血は黒く乾き、戦いの壮絶さを物語っていた。
シエンが、ライザの身体を抱き寄せるようにして、顔を胸に抱きしめる。
「貴様……っ!」
ブルーベルが剣を抜きかけたが、パルが制した。
「レイジ、あれを」
パルが指差したのは、荷台に乗せられていた二つの包。
「開けてみろ」
レイジの一声で、震える手で兵たちは包みを解いた。
「うあぁっ!」
叫んだのはミロイだった。
包の中から現れたのは――
「ニュルンベルグ四天王・仙空惨、そして……大軍師・知雀明!?」
ブルーベルが目を見開きながら呟く。
街の似顔絵描きから情報を得ていたブルーベルには、すぐに顔の一致が確認できた。
「これが……知雀明……」
レイジが、しずかに呟いた。
「なぜ敵将の首まで?」
エルナが不思議そうに問いかける。
「この方が倒したのだと……」
若い兵の一人が、ライザの遺体を指差した。
(なぜ……ニュルンベルグは、バニラやルピタを殺しておいて……ライザが犬死にではなかったと知らせてきた?)
レイジは理解できずに眉をひそめた。
「よくもノコノコと……!」
突然、シエンが声を荒げて兵たちに近づいた。
足元の地面が震え、周囲の空気が重く澱み始める。
彼女の手のひらから紫の光が漏れ始める。
かつての想いが、抑えていた悲しみが、臨界を越えたのだ。
「シエン!」
レイジが制止の声を上げた。
だが、その気持ちは痛いほど理解できた。
攻撃魔法最強のシエンが、今にも魔力を高め始めようとしていた。
二人の若い兵は膝を震わせ、腰を抜かしそうになっている。
「やめなよ。この二人が悪いわけじゃないよ!」
冷静なパルが声を掛ける。
「――やるわけないだろ!」
シエンが怒気に満ちた瞳で、パルを睨みつけた。
レイジが二人の間に割って入り、両者の肩に手を置く。
その手を、シエンは乱暴に振り払うと、再びライザの元へ向かった。
パブロたちが、兵たちと共にライザの遺体を荷台から降ろした。
その時、パブロがライザの大斧を見つけて尋ねる。
「この斧は?」
「はい。こちらの方の遺品です」
背の高い兵士が答える。
パブロが大斧を手に取り、レイジのもとへ歩き出した。
二人の兵が、空になった荷車を牽いて帰ろうとした、そのとき――
バッボァァァァァァ――!
轟音と閃光が一閃した!
雷鳴のような爆音とともに、荷車と兵士を飲み込む爆裂魔法が炸裂。
祝福(強化薬)付きの高位魔法。
馬は宙を舞い、兵士の頭部は一瞬で蒸発していた。
「シエン、何をする!」
レイジの怒声が響く。
「わたしじゃないよ!」
シエンがすぐに否定し、魔法の攻撃元へ視線を向ける。
それにつられて、レイジが振り返る――
そこには、無言で魔力の残滓を纏いながら立つ、セシリアの姿があった。




