第3話
ミロイがレイジに駆け寄ろうとした――その足が、不意に止まった。
何かが、自分の影の上に、重なる。
――次の瞬間、林の奥から吹き抜けた風が、腐臭と鉄の匂いを運んできた。
それは、まぎれもなく“死”の匂いだった。
ミロイは、おそるおそる振り返る。
「う、うそ……」
木立を押しのけて現れたのは、体高三メートルを超える異形の魔物。
全身を漆黒の甲殻に覆われ、丸太のような両腕の先には、三本の鉤爪が鋭く湾曲していた。
ゾドム――伝承では、村一つを喰らい尽くしたというAランク最強の魔物だった。
「下がってろ」
レイジが、飲み終えたポーションの小瓶を足元に投げ捨てながら、ふらつく体で立ち上がる。
「兄やん、大丈夫!?」
ミロイが心配そうに駆け寄る。
「おう、楽勝だ」
レイジは無理に笑顔を作りながらも、その足元には無数の空ポーション瓶が転がっている。明らかに限界だ。それでも、彼の目はまだ、敵を見据えている。
「よせ!」
ミロイが詠唱しかけた回復魔法を、レイジが手で制した。
「タゲが移る。それより、ポーションを持ってるなら寄越せ」
ミロイは、持っていた回復ポーション三本を一気に差し出した。
「ちょこっと倒してくるから、岩陰にでも隠れてろ」
そう言い残すと、レイジは広場の方へと走り出した。ゾドムがそれを見て、地響きを立てながら追いかける。
ゾドムは鈍重だが、一撃一撃が致命的な破壊力を持っている。
「兄やん!」
ミロイが叫ぶ。
走りながらレイジは振り返り、笑いながら言った。
「任せろ」
ミロイの目に映るのは、地面に散らばる無数の空ポーション瓶。それは、レイジが一時間以上、ゾドムと一人で戦い続けた証だった。
――少し削っては逃げ、ポーションで回復し、また削る。
格上モンスターに対するレイジの常套戦術だ。
一見、無茶で愚かに思えるが、レイジは本気で命を削っていた。
ゾドムが、鋭い鉤爪が振り下ろす。
レイジは、呼吸を整え、構えた。
「遅いかっ!?」
――ズシャァァン!!
大地が裂け、砂塵が爆風のように舞い上がる。レイジの姿はその土煙の中に飲まれ、岩へと吹き飛ばされる。
「ゲボっ!」
血の泡を吹きながら、岩に叩きつけられるレイジ。
ゾドムが止めを刺そうと、短く太い足で踏みつける。
――ズッドーン!!
地面が揺れ、巨大な衝撃と砂煙が舞う中、レイジはぎりぎりで身体をひねり、回避する。立ち上がると、少し離れてポーションを一気に飲み干し、息を整える。そして再び、ゾドムへ向かって走る。
「兄……やん」
ミロイの目から、涙がこぼれた。
レイジはゾドムの攻撃をかわし、大剣で応戦していた。鉤爪の一撃を受けるたびに体が怯み、後ろへよろける。それでも、ゾドムの足元を狙い、斬りつけ、じわじわと体力を削っていく。
そして、ついにその瞬間が来た。
ゾドムが怒りに任せ、前屈みで右腕を大きく振り上げる。
「きたぁ!!」
――グキィーン!!
ゾドムの鉤爪が弾かれる。レイジの大剣が、まるでパリィのような絶妙なタイミングだった。
ゾドムの体勢が崩れ、左足が浮き、バランスを失う。
その瞬間――
「うおおおおおっ!!」
レイジが突進!
ゾドムの右足に渾身のタックルを決める!
巨大な身体が揺らぎ、前のめりに崩れ落ちる。レイジはその足元からよじ登り、背中の上へと登る。
「これで終わりだあぁぁあぁっ!!」
振り下ろされた大剣が、ゾドムの首筋へ深々と突き刺さる!
「グオオオオォォォォォォッ!!」
ゾドムが弓なりにのけ反り、レイジの身体を大きく跳ね飛ばす。
レイジは地面に叩きつけられ、土煙の中に転がる。
ゾドムは最後のあがきのように仰け反り、舌をだらりと出し、地面へ崩れ落ちた。
そして――完全に、動かなくなった。
――勝った?
「ま、マジで……」
ミロイが呆然と呟く。
Cランクの兄やんが、Aランク最強の魔物を倒した。
ゆっくりと立ち上がるレイジ。泥まみれの顔に、笑みが浮かんだ。
「な……楽勝だったろ」
冗談のように言いながら、鼻から血を垂らして笑った。
ミロイは震える手で回復魔法を浴びせながら、涙を浮かべて何度も首を横に振った。
その後、ジェムルにゾドムを吸収したミロイが、大剣を拾ってレイジに差し出す。
「兄やん……無茶しないでくださいよ。ぼくの心臓に悪いです」
ミロイは生まれつき胸に持病を抱えていた。
「心配するな」
レイジはその小さな頭に手を置き、優しく髪を撫でた。
「兄やん……」
「アハハハハッ!」
レイジが大声で笑った。その笑顔には、かつての“いつものレイジ”が戻っていた。
「そうだ、兄やん。クランが……セシリアさんが……」
「分かってる。もう大丈夫だ」
レイジは強く頷いた。
バニラの死を“受け入れた”わけではない。だが――前に進むことに、決めた。
レイジの目には、かつての熱と意志が、再び宿っていた。
「さあ、帰るぞ」
「はいっ!」
ミロイの声にも、希望が宿っていた。
◇◇◇
――二時間後。
二人がアジトへ戻ると、奇妙な静けさに包まれていた。
アジトの裏口から中庭へ回ると、門扉前にパルの姿があった。
「どうした?」
レイジが声をかける。
「……あれ」
パルは、門の外を指差した。




