第2話
東の塔へ駆け込んだ沙羅夜は、一瞬、目を疑った。
そこに広がっていたのは、常軌を逸した光景だった。
四天王の一人である仙空惨が、首を刎ねられて床にうつ伏せに倒れていた。
その体から流れ出た血は滝のように広がり、部屋の石床を真紅に染め上げている。
その奥では、知雀明が四人の護衛兵を盾にして、ずるずると後退していた。
蒼白な顔、見開かれた目、震える口元――あの冷血な軍師にしては珍しく、露骨な「恐怖」が彼の表情に浮かんでいる。
そして――その恐怖を追い詰める者がいた。
ライザだった。
傷だらけの身体中から鮮血が流れ、左肩は完全に力を失って垂れ下がっている。
それでも、彼女は右手だけで大斧を握りしめ、泥まみれの戦靴で床を踏み鳴らしながら、まるで血に飢えた亡霊のように知雀明へと迫っていた。
「……知雀明。ハルトを、どこへやったッ!!」
怒声が塔の空間を揺るがす。
その声はもはや「問い」ではなかった。叫びであり、呪いであり、裁きそのものだった。
ライザは、あの日――ハルトの妻メリサと別れたあの日から、狂ったように盗賊団の痕跡を追い続けていた。
野盗の隠れ家、密売組織、反社の集会、地下闘技場。あらゆる地を渡り歩き、情報を掘り起こそうとしたが、何ひとつとして手がかりは得られなかった。
それでも、ハルトの幼い息子とした「あの約束」が、彼女を立ち止まらせなかった。
しかし、時が経つほどに希望はすり減っていった。やがてライザは決断する。
――知雀明から聞き出すしかない。
あの冷血な軍師が、簡単に口を割るはずがないことは分かっていた。
だが、もう他に道は残されていなかった。これが、唯一にして最後の手段だったのだ。
「ハルトなど、知らん……お主は何か、勘違いをしておる」
知雀明は動揺を隠しながらも、首を振って否定する。
「報酬を受け取りに来た時……おまえは言ったよな、『聞いている』と」
ライザは、ふらつきながらも知雀明へ向かう。知雀明は、護衛兵の肩越しから、ライザを睨んでいる。
「あの場には三人しかいなかった。私でもハルトでもなければ、おまえは誰に聞いたんだ。奴しかいないだろうがッ!!」
ライザが怒鳴り、右手で斧を振り上げる――。
「待て!」沙羅夜の声が響いた。
その一言に反応し、ライザは振り返った。
沙羅夜の姿を確認するやいなや、彼女は躊躇なく、一直線に斬りかかった。
(ヒーラーである知雀明など、いつでも殺れる)
沙羅夜は冷静にライザの一撃を回避し、肘を突き出した。
「ッ……!」
ライザの横腹に肘が突き刺さり、ライザはバランスを崩して止まれない。そのまま、頭から突っ込む形で壁に激突した。
「ガツンッ!」
鈍い音。額がざっくりと割れ、血が滴り落ちる。
「その怒り、無為にするでない」
沙羅夜の静かな声が、空気を制した。
だが、ライザは止まらない。
左腕はすでに垂れ下がり、まともに動かせない。
それでも、右手だけで斧を振り上げ、血に塗れた姿のまま突進する。彼女の目の奥には、激怒と執念の火が灯っていた。
――斬る。それしかない。
しかし――沙羅夜はその執念さえ、風のように受け流した。
ふわり、と舞うような軽やかさ。沙羅夜の身体が空を撓り、斧の軌道を正確に読み切って反転する。
舞う花のように宙を滑り、斧の届かぬ死角へと滑り込んだ。
次の瞬間――
「……っ!?」
走り込んでいるライザの背後に、その華奢な背中がふいに触れる。沙羅夜が、自らの背を押し当ててきたのだ。息つく間もなく、後ろ向きに走り出す。
細身の背を背負わされる形で、ライザの体が前へ押される。止まれない。勢いのまま、制御を失い、奥へとつんのめっていく。
「……ん……っ!」
――視線の先に、振り上げられた刃。沙羅夜は、背中越しに顎を上げて四人を捉える。
知雀明の護衛兵たちが、四方に構えていた。その刃のすべてが、ライザの首が到達する地点で、交錯しようとしていた。
沙羅夜が右手を伸ばした。ギリギリの間合い。沙羅夜の手が、ライザの左肩を強く引き寄せる。
瞬間、刃は空を斬り、護衛たちの振り下ろした剣が虚しく交差した。
「ぐ……うああぁっ……!」
千切れかけた肩にかかる衝撃に、ライザは悲鳴を上げた。強引に勢いを止められ、崩れ落ちるように膝をつく。肩を押さえ、呼吸を荒げる。
「……おまえたちは、手出しするでない!」
沙羅夜の一睨みに、場の空気が凍りつく。剣を構えていた兵たちが、まるで叱責された子供のように動きを止めた。
「分かった、分かったから。そんなに敵将の首が欲しいのなら……少し、待ちなされ」
沙羅夜はふっと笑みを浮かべながら、外套に指をかけた。
紅の外套が、肩から滑り落ち、舞いながら宙を舞う。それはまるで、戦場に咲いた一輪の血の蝶のようだった。
「知雀明――ライザにヒールとバフをしてあげなさい」
「な、何を言う! こやつは仙空惨を殺したのだぞ!? いまのうちに斬り捨て――!」
「斬って、貴様は何を得る?」
沙羅夜の声音は、静かにして、断絶の刃のようだった。
「嫌ならば……自ら斬れ、知雀明。己の手でな」
言葉に震えたのは、知雀明だった。
沙羅夜はちらとライザに目を向け、にこりと笑った。
「死を覚悟したネズミは、時に猫を噛む。仙空惨は、それに噛まれた。……それだけのことよのぉ」
ライザの喉が、ごくりと鳴った。
――この女は、仙空惨など比べ物にならない。
(違う……強さの「質」が、まるで違う……)
先ほど、自分の背にこの女を乗せて走った時――否、走らされてしまった時に、本能が叫んでいた。
(この女の背中には、圧倒的な「死」がある……)
震える。初めて、自分の命が冷たく細く感じられる。
――これが「生存本能」が叫ぶ、真の恐怖。
沙羅夜の強さは、戦闘の技量ではない。殺意と美、狂気と理性のすべてが絶妙に釣り合った“本物の強者”だった。
そして、その気配を前にしたとき――
ライザは生まれて初めて、誰かに対して「心の底からの恐れ」を感じていた――。
◇ ◇ ◇
同刻――。
ネオフリーダムの山中――
ミロイは、ほとんど転がるようにして走っていた。
(このままじゃ……ネオフリーダムが、本当に壊れちゃう……!)
仲間たちは散り散りになり、空気は沈黙と猜疑に満ちていた。バニラの死。ハルトの失踪。ルピタの昏睡。そして、盟主レイジの沈黙。
――今、動けるのは自分しかいない。
ミロイは必死だった。ひたすらにレイジを探していた。
(兄やんが……兄やんさえ戻ってくれれば……!)
その時だった。
「ぐあっ!!」
突如、頭上で何かが弾け飛ぶような声が響いた。
反射的に見上げる。
「――兄やん!?」
ミロイの目に映ったのは、空中を無様に回転しながら吹き飛ぶレイジの姿だった。
全身が傷だらけ。右腕はぶらりと垂れ、顔面には赤黒い痣。戦うというより、打ち捨てられたようなその姿。
次の瞬間――
「ドゴッ!!」
巨木の幹へと叩きつけられたレイジの背に、肉と骨の砕けるような音が響いた。
赤い泡が口元から飛び、体がずるりと地面に崩れ落ちる。
「兄やんっ!!」
ミロイの叫びが、山の静寂を破った。




