第1話
レイジは、ギラン港を一望できる丘に腰を下ろしていた。
潮風が肌を撫で、夏草がかすかに揺れる。
目は虚ろで、どこにも焦点を結んでいない。
ぼんやりと目を閉じると、静かに、あの日の光景が蘇ってきた――
二年前、ライザがクランを去った日のこと。
(あのとき、おまえが退団を口にした瞬間……みんな、心配して駆け寄った。なのに、おまえは――)
『おまえらみたいにチンタラしてたくないんだよ。こんなへたれクラン、こっちからおさらばするだけさ!』
(……分かってた。あれが強がりだって。誰もが、おまえの優しさに気づいてた)
(だからこそ、誰も止められなかった。“止める言葉”を、口にできなかった)
遠くで、潮の音が微かに響く。
(おまえ……今どこにいるんだ。……何か困ってるのか)
レイジはゆっくりと目を開け、空を仰いだ。
あの日と変わらぬ、雲一つない青空。
時間だけが、残酷に過ぎ去っていく。
――そのとき、背後から声がした。
「すいませぬ。そこのお方」
林の中から、白い髪の青年が姿を現した。軽装の剣士。人の気配に、少しだけ遠慮が滲んでいた。
「……?」
「わたしは、風華夢と申します。この辺りに来れば、ネオフリーダムの方に会えると聞きまして」
「誰に?」
レイジは振り返らず、首だけをよじって問い返した。声には、覇気も興味もなかった。
「もしかして……あなたは、ネオフリーダムの方でしょうか?」
「ああ。……で、誰に聞いたって?」
「バニラ殿です。先日こちらをご案内いただきまして。とても親切にしていただきました。そのお礼に、裏山で採れた果実を……」
風華夢は後ろの山を指しながら、手にした果物籠を掲げてみせた。
「……バニラに」
「はい」
風華夢は静かにうなずいた。
その足元で、連れていた子猫がレイジのところまで歩み寄り、そっと足に鼻先をすり寄せてきた。まるで「元気を出して」とでも言うように。
レイジは、無言で猫を見つめた。
そして、ぽつりと口を開いた。
「無理だな。あいつは、もう……食べることはできない」
「……え?」
「死んだよ」
「し、死んだ……と、申されますと……?」
レイジは、ゆっくりと猫の頭を撫でながら言った。
「うちのアジトを襲ってきた連中に、殺された」
風華夢の顔から、すっと色が引いていく。
手にした籠が傾き、赤いリンゴが一つ、地面に転がった。
しばし、重い沈黙がふたりを包んだ。
「もしや、……あなた様がレイジ殿か」
風華夢は、背を向けたままの男に問いかける。
護衛もなく、無防備に座っている姿に、少しの驚きもあった。
「ああ」
レイジの答えはそれだけだった。
風華夢は目の前の男に“強さ”は感じなかった。視覚から得た情報だけでは、彼に勝てると判断できた。
腰の細剣に手をかける。殺すのは容易い。
しかし、直感が囁いた。――やめておけ。
幼き頃より、生き残るために叩き込まれた二つの判断。そのどちらも、今まで一度も食い違ったことはなかった。
「……ふふふ」
剣の柄から手を離し、彼は小さく笑った。
「不思議なものですね」
――あなたを前にすると、戦意がどこかへ消えていく。
その言葉は、心の内に留めたまま。
代わりに、風華夢は転がったリンゴを籠に戻し、そっとレイジの横に置いた。
「かたじけのうございますが……この果実、バニラ殿の墓前にお供えいただけますか」
静かに頭を下げると、彼は背を向けて歩き出した。
子猫がその後ろを、しっぽを立てて追いかけていく。
途中で一度だけ振り返り、レイジを見つめると、また風華夢の足元へと走って行った。
◇
――風華夢は、ネオフリーダムにより“虐殺された”とされる村――ザカリアへ向かうことにした。
丘の上には、静寂だけが残った。
レイジは、足元の果物籠を見下ろした。
(……バニラ)
その名前を、胸の奥でそっと呼ぶ。
――『レイジさん、だめですよ。ちゃんと無茶して、ちゃんと笑ってくれなきゃ』
幻のような声が、耳元をかすめた。
彼はまだ、一度も墓参りに行っていなかった。
自分を許せず――顔を合わせる資格すらないと思っていた。
だが、胸の奥で何かが、静かに目を覚ました。
『救えなかったのは事実だ。でも、だからって、これから先も何もしてやれないなんて――ただの言い訳だろ?』
心の底で、譲れないものが、再び暴れ始めていた。
「……アイタタタ」
身体を起こすとき、内臓がきしむような痛みに顔をしかめる。
それでも彼は立ち上がった。
見上げた空は、変わらずどこまでも広く、青かった。
右手でそっと果物籠を持ち上げる。
「……行くか。墓参りに」
来たときよりも、ほんの少しだけ強くなった足取りで――
レイジは、静かに歩き出した。
◇◇◇
―――同時刻。ニュルンベルグの居城・シェヴェリーン城。
「リオナ、軍師はどこだ?」
ニュルンベルグ四天王の沙羅夜が、知雀明の一番弟子・リオナに声をかけた。
リオナは知雀明の弟子でありながら、師の“人の命を平然と駒のように扱う”やり方に、何度も衝突してきた。
「先ほど、ライザ殿という方がお見えになりまして。軍師は仙空惨将軍を伴い、東の塔へ向かわれました」
「……ライザが? で、何の用だ」
沙羅夜は眉をひそめる。
元ネオフリーダムのライザが、傭兵依頼を断ったことは聞いていた。
「ご挨拶したところ、気が変わったので軍師に会いたいと……」
「気が変わった? まさか……!」
嫌な予感が、背筋を這い上がってくる。
沙羅夜はリオナの言葉を最後まで聞かずに、塔の方へ駆け出した。




