第7話
ライザが、ハルトと別れた十字路まで戻ってきた。
そこから港の方へ、注意深くさらに進むと──道の上に争った形跡があった。さらに、何かが引きずられたような足跡も残っている。
至る所に血痕が飛び散っていた。それがハルトのものなのか、襲撃者のものなのかは定かでない。死体も、装備も、遺失物も見当たらなかった。
血の筋と引きずられた跡は、シェヴェリーン城の方向へと伸び、途中で消えていた。
ライザは立ち止まり、考える。
(……ハルトが敵を倒して、港へ向かった可能性もある)
顔を上げると、ライザは港へ向かって駆け出した。
◇
──三十分後。
ギラン港に到着したライザは、まばらな乗船客の中に見知った影を見つける。
船着き場の裏手に、母と子の姿。ハルトの妻・メリサと、その息子リクトだった。
ライザは、ネオフリーダム時代にアジトへ遊びに来ていたメリサと面識があった。
彼女が近づくと、メリサはすぐに気づき、ぺこりと頭を下げた。
「夫が……」
そこまで言ったところで、メリサは声を詰まらせ、泣き出した。傍らで、リクトが母のワンピースの裾を、小さな手でぎゅっと握る。
「ハルトは……来てないのか?」
「……はい」メリサはか細い声で答える。
「何かあったんですか? 昨日は何も言わずに帰ってきて……夫はずっと泣いてました……」
ライザは大きく息を吸い込み、言葉を選ぶように口を開いた。
「詳しいことは、あとで話す。今は……ハルトから言われていた場所へ、予定通り向かってくれ」
「……夫は?」
メリサが問いかける。
ライザは、覚悟を込めて告げた。
「おそらく、どこかの盗賊団に拉致された。……その背後には、ニュルンベルグの軍師・雀明という男がいる」
その言葉に、メリサは崩れ落ちるように座り込み、リクトが不安からか、声を上げて泣き出した。
「大丈夫。ハルトは必ず助ける。わたしが、必ず連れ戻す」
ライザはそう言って、メリサの肩にそっと手を添えた。
しばらくして、ライザの手を借りて、メリサが立ち上がる。
「これは、ハルトから預かった金貨だ」
ライザが金貨袋を差し出すと、彼女は震える手でそれを受け取った。
「そのお金で、次の船に乗って。行き先は、ハルトから聞いているか」
「はい……」メリサが小さく頷いた。
ライザはしゃがみ込んで、リクトと目線を合わせる。赤い仮面を外し、穏やかに微笑んだ。
「父さんは、必ず連れて帰るから」
――その笑顔は、彼女が今まで誰にも見せたことのない、心からの優しさだった。
「時間がない。……ハルトのためにも、すぐに船に乗って」
仮面を再びかぶり、二人に背を向ける。
彼女には、向かうべき場所があった。ハルトを拉致した盗賊団を突き止めるために。
「ありがとうございます……本当に……ありがとうございます……!」
何度も、何度も、メリサはライザの背に向かって頭を下げていた。
◇◇◇
――二日後。
ネオフリーダムのアジトには、言葉にできないほど重く、湿った空気が立ち込めていた。誰も声を上げない。誰も笑わない。ただ、表情のない時間だけが流れていた。
仲間であるバニラが命を落とし、ハルトが消息を絶ち、ルピタは昏睡状態のまま。
不在のデュランを除いた九名の団員たちは、それぞれの場所で、沈黙と葛藤の只中にあった。
レイジは、ひときわ深い闇の中にいた。
二日酔いで頭が痛む。だが、それ以上に胸が痛かった。あの日から、誰とも目を合わせず、まともな食事も取らず、ただ黙り込んでいた。彼自身が、自分を許せなかった。
丘の上。アジトの裏手にある小高い丘に腰を下ろし、ギラン港を無言で見つめていた。その瞳に映る景色は、何も語らなかった。
セシリアは、必死だった。副盟主として、空いたレイジの穴を埋めようと、孤軍奮闘していた。だが、頑張れば頑張るほど、それは空回りとなって返ってくる。前へ進もうとすればするほど、足元が崩れていくようだった。
「一人で背負わなくていいよ」
パルが静かに声をかけてくれた。だが、団員の多くが副盟主であるセシリアより、パルの意見に耳を傾けているように思えた。それが、彼女の心をさらに締め付けた。
エルナとブルーベルは、怒りを露わにしていた。
バニラがグルーディオ城前で絡まれたとき――
その話を現場にいたシエンから聞いた二人は、ニュルンベルグが背後にいると確信していた。
「今すぐ仇を討ちに行く」と、剣を手にシェヴェリーン城へ向かおうとするのを、パブロとパルが体を張って止めに入る。だがその抑止も限界に近づいていた。激しい言い争いが日を追うごとに増えていく。
パブロ自身も混乱していた。
事件当日、ハルトが淹れてくれたお茶を飲んだあと、眠りに落ちて何も知らない――そう語った。その言葉に嘘はなかったが、罪悪感が表情に滲んでいた。
そして、チルル。
怯えながらも、彼女ははっきりと証言した。バニラを殺した男の剣は、細身で反り返った形状をしており、白い柄の先端には「大蛇の頭部」が彫られていた、と。
その言葉が指し示していたのは、ただの下劣なならず者などではなかった。
そして何よりも、バニラが最後まで自分を守ろうとしてくれていたことを、チルルは誰よりも理解していた。
シエンは、サザーランドの仲間と共に動いていた。ライザとハルトの行方を追い、街の情報屋や武具屋を回りながら、「大蛇の紋様を刻んだ細身の彎刀」を持つ男を探し続けていた。確かな手がかりは、まだ掴めていない。
ビクライは、沈黙を貫いていた。騒ぐことも、騒がれることもなく、黙って事態を見守っていた。
隣では、ミロイが目に見えて混乱していた。親友のルピタが昏睡状態のまま。彼は、自分の立ち位置を見失ったかのように、ただ、うつむいていた。
◇
誰かに言われたわけでもない。誰かが作ったわけでもない。
気づけば、他人を思いやり、押しつけがましくない、さりげない優しさが――ネオフリーダムには、いつも溢れていた。
だが今、それが失われつつある。
仲間たちは、それぞれの感情に身を任せ、バラバラに動き出していた。誰もが、自分の傷口を抱えて、静かに立ち去っていく。
――こんなことは、これまで一度もなかった。
ネオフリーダムが。 いま静かに、音を立てて、崩れはじめていた。




