9-さいく・がーでん
王子とみくろと共に、待ち合わせの古木に到着した有世は、そこで待つはずの影が足りないことに首を傾げながらも、久方ぶりに感じる友人の横顔に声をかけた。
「ぽお助。お待たせ
『ぽっ』
ぽお助は片鰭を軽く上げ、彼らしく淡々と再会を済ませると、幹を半周程回り込む。
『ぽおぉい』
『がちょん』
「あ、竹楽。そこに居たんだ」
『ちょんが』
竹楽は丁度、有世から見て幹の真後ろに居たようだ。綺麗に陰になって見えなかった。それでも後二人足りない。有世は何かの準備に向かった竹楽の背をぼんやり追ってから近くを見回す。
「ねえ。まくろときゅるんぱは? 先に来たはずだけど」
古木までの道は荒れていて、綺麗な一本道だったとは言い難い。どこかで道を間違えたのか。しかしそれは、すかさず王子に否定された。
「二人とも、ついさっきまで暇つぶしに遊んでたのだけど……どこ行っちゃったのかな」
きょろきょろとする有世と王子の背を、ぽお助が左右の鰭で叩いて呼ぶ。揃って振り返ると、
『ぽおぉぉ~ぅう』
ぽお助が法螺貝のように鳴いて、ここから風下、少し離れた場所で舞い踊るように動いていたまくろときゅるんぱに合図を送った。
「! おっと」
二人は待っている間、舞い散る木の葉を掴む遊びをしていたらしい。音に呼ばれて、手を伸ばしたままつま先立ちで半回転したまくろは、有世とみくろの到着に気づくと、ひょっときゅるんぱを掬い上げ慌てて戻って来た。
「みんな無事に揃ってたんだ。待たせちゃったね。ちょっと夢中になりすぎてたみたい」
『きゅー』
まくろが無邪気にえへへと笑うと、王子は困った我が子を見るように眉尻を下げ嘆息した。
「もお。少し目を離した隙に、どこ行っちゃったのかと思ったよ」
「風向きが変わって。葉っぱが全部、あっち行っちゃったから」
「『行っちゃったから』じゃないよぉ。今はいつ変動が起こるか分からないのに、あんまり離れたら危ないでしょう?」
がくり、と肩を落とす王子に、まくろは今度は素直に反省し、きゅるんぱもしゅんと耳を垂らした。
「そうだね、ごめん。いつもと違うの忘れてた。……でも、王子」
「?」
「キャラ崩れてる」
「! き、気のせいだとも!」
「ふふっ」
心配し、諭し、最後は明るいやり取り。何だか、迷子になって再会した時の仲睦まじい親子に見える。……いや、親子にしては王子は若すぎる、もしくはまくろが大きすぎるのだが。
しかし、楽しそうなまくろときゅるんぱを見て何故だか、さらに若い有世まで親の心地になっていた。有世はごく自然に、演じたことすらない年上の態度で二人に微笑みかけた。
「二人とも楽しそうな事してたね。葉っぱ、いっぱい掴めた?」
「いーや、ダメダメだったよ。だから面白いんだけど。ね」
『きゅんきゅん』
きゅるんぱの同意を受け、まくろは最後に掴んだらしい葉をぱっと手放し、風に乗せて見送った。その行方を有世もぼんやりと追う。確かに、宙を舞う小さな葉の動きは不規則で、なかなかに読めない。
「本当に面白そうだ。今度、おれもやってみたいな」
「うん。帰ったら是非。大切な人と、ね」
「……そうだね」
言外に、もう有世がここで遊ぶ時間はないと示される。近づく別れは寂しく名残惜しいが、それでも有世は、ここが自分の居場所ではないことも感じ始めていた。
有世が来た道を振り返ると、ここまで登ったおかげで、広く景色を見渡すことができた。本来は平地か、せいぜいが緩やかな傾斜の土地であったであろう一帯は、思った以上にでこぼこ荒れており、根の強い木々は斜めに踏み止まっているものの、突き上げられた建物は成す術なく崩れてしまっている。
「そういや、全然考えてなかったけど……他にも巻き込まれた人とか動物が居るんじゃ……!」
村を出て以降はとても静かで、誰かとすれ違うこともなく、行動を共にするメンバー以外の存在に意識が回らなかった。急に心配になった有世はわたわたと不安を告げたが、それは杞憂だった。
「平気だよ。今、この一帯に居るのは僕らだけだし、騒ぎが収まれば全部直り始めるだろうから」
気持ちが凪ぐ穏やかな声色でみくろが伝え、周りの皆も頷き同意する。
「……そーいうもんなの?」
「そーいうもんだね。だから心配ご無用。アリセは帰ることだけ考えてれば大丈夫」
やや呆けた有世の言葉を真似て、まくろがにこりと笑った。
「そ、そっか。良かったぁ」
一先ず安心だ。有世はほぅと息を吐いた。
それにしても。直り始める、とは、まるで各々が自ら元の姿に戻るような言い回しである。それとも、ここにもモグ姐さんのような職人が来るという意味だろうか。気にはなるが、揚げ足取りのようで尋ねづらい。まあ良いかと有世が思考を断ち切ると、待ち飽きたぽお助が、仲間の視線を引くように大きく尾鰭を振った。
『ぽっぽ』
ぽお助の呼ぶ声に、まくろがぱっと有世の手を取る。
「ああうん。行く行く。行こうアリセ。しばらく優雅な筏旅だってさ」
「へえ……?」
筏で優雅は少し釣り合わない表現に聞こえるが、乗ったことのない筏は楽しみではある。有世たちは、声をかけるやすぐに先へ向かったぽお助の後に続き、銀細工のごとく淡く輝く色とりどりの花びらが水面に浮かぶ川の岸に立った。
「花の流れる川を筏で行く。これぞホントの『花筏』なんて」
立ち止まり、美しい光景を眺めながらまくろが愉快そうに言うが、誰一人、何を返す訳でもなく、ぽお助に至っては適当な相槌一つで済ませ止まらない。まくろもさして気にしていない様子だ。言った段階ですでに満足だったらしい。
有世は何となく、浮かぶ花の中から青を探しながら少し上流に目を向ける。そこにあった桟橋では、川に降ろした筏を留めるロープが解けない竹楽が、業を煮やして両手でロープを引きちぎろうとしている所だった。
『ちょ……ちょぉんがあぁぁァアーッ!』
『…………ぽ』
顔を赤くする友人の暴挙に、ぽお助が呆れて首を振る。有世から見ても、あの太いロープをちょん切るのは厳しいと思う。……鹿の握力は良く分からないのだが。
代わりに自分が解ほどこうか。有世が踏み出しかけると、それより先にぽお助がすいっと空を泳ぎ、竹楽の隣に並んだ。
『ぽふう』
ぽお助が結び目に息を吹きかけると、いとも簡単にするり緩んでロープが解けた。まるで魔法だ。
『がちょん!』
結び目が急になくなったことで、力んでいた竹楽はバランスを崩し悲鳴を上げる。が、彼は綺麗な側転で力をいなし、華麗に立ち上がった。
『が、がり、ちょんがりが……』
『のぽん』
やる前に一言欲しかったものの、苦戦していた結び目を解いてくれたことには素直に感謝している竹楽は、文句なのか礼なのか分からない態度でぽお助に向き合う。ぽお助は「当然だ」といった様子で、あくまでもいつも通りだった。
係留から放たれた筏は、少しずつ下流へと流され始める。
「え、あ、あれ良いの? 誰かロープ掴んでないと……」
目の前を通過するときにロープを拾おうと有世がしゃがんで手を伸ばすと、隣にしゃがんだ王子がそれを制して微笑んだ。
「ぽお助が居るから平気さ。見ていてくれたまえ」
その言葉の通り、ぽお助が音もなく川に入った途端、川に新たな流れが生まれた。下流に向かっていた花びらたちは渦のようにカーブを描く。
『ぽっぽーぉおう』
ぽお助が高らかに鳴き上げると、筏は生きているかの如く川を遡り、桟橋にピタリと付いた。そこで川の流れは通常通りに戻ったが、筏はそのまま留まり、ただ僅かに上下に揺れるばかりだ。
筏にぶつかり、花びらが左右に分かれて流れ行く。どこか奇妙だが華やかな光景に見惚れていた有世は、隣の王子が先に立ち上がったことで、慌てて今を思い出す。
有世が身体の向きを変えると、二歩程進んでいた王子の足元を、きゅるんぱが一周、くるりと転がっていた。
『……ぎゅぅぅ』
「おっとっと。大丈夫だよきゅるんぱ。真ん中に乗せてもらおう」
最後は王子の右足にガシとしがみついたきゅるんぱの頭を、王子が腰を屈め優しく撫でる。
「あ、きゅるんぱは筏苦手?」
「以前、揺れた拍子に、川に転がり落ちてしまったことがあってね」
「ああ。そりゃズブ濡れだもんな」
筏自体ではなく水の方かと、有世も納得する。王子の腕に飛び乗り、そのまま抱えてもらったきゅるんぱは、一先ず安心そうにそこに納まった。
安定した筏の先頭には、寝かせた竹馬を左手で押さえた竹楽がすでに乗り込んでいる。そこにみくろが静かに渡り、続いてまくろが軽やかに跳ね乗る。
「まくろ。あまり揺らしたら、きゅるんぱが怖がってしまうよ」
「ありゃー、ごめん。でもすぐ落ち着くよね……次、アリセかな」
ニコイチが揃って、有世に片手ずつ差し出す。二人の手を取って有世が筏に乗り終わるころには揺れも静まり、最後に乗り込んだ王子が、斜め後ろにきゅるんぱをそっと降ろした。
『……きゅきゅー』
右には有世、左には手すりにもなりそうな竹馬、後ろにはニコイチ。これなら万が一転がってもどこかで止まるだろう。きゅるんぱがほっと息を抜いたのが分かった。
『ぽ?』
「ああ。全員ちゃんと乗っている。よろしく頼むよ、ぽお助」
『ぽお。ぷう、のぽぽん』
着くまでゆっくりしていろと言い残し、ぽお助が滑らかに、ゆったりと上流へ向かって泳ぎ出す。すると牽引する道具もないのに、筏も後を追って進み始めた。
筏はぽお助と付かず離れず、一定の距離を保ったまま静かに川を行く。優雅な筏旅。あながち間違った表現ではなかったかもしれない。流れる景色を見ながら、有世はそう思った。続く庭園の世界は、緑豊かな中に小振りな建物が点在し、一部大地の変動で生まれてしまった瓦礫すら、崩壊した遺跡のように味わい深く溶け込んでいる。
しかし美しい景色なら、ここに来るまでに十分味わった。いくら見ても見飽きるものではないが、時間が限られているのなら、今はもっと知りたいことがある。
有世は少し腰を浮かせ、斜め後ろを向いて座り直した。
「あのさ、まくろ……みくろも」
「うん?」
「なあに?」
「まだちょっとは話せる……よね? 帰るまでに、もう少しここの事知りたいんだけど、さっきの続き、良い?」
有世のお願いにニコイチはにこやかに頷く。しかし話し出すその前に、慌てて振り返った王子が会話の輪に飛び込んだ。
「ちょっ、待った! こ、ここの事……って?」
上体を捻った四つん這いで王子が問う。今筏が揺れたら王子の腕のトンネルを、うっかりきゅるんぱが転がり抜けてしまいそうだ。何よりその姿勢のままでは苦しいだろう。
「ええと、王子。とりあえずまず座らない?」
「あ……ああ、そうだね」
有世が少し後方に詰めて、空いたスペースをぽんぽん叩いて勧めると、少し気まずそうにしながらも王子も併せて下がり、体制を整えた。
「……それで?」
「さっきみくろに、ここはおれの『魂の中の世界』だって教えてもらって」
「!」
想像通りの内容だったらしい。王子は、今更覆らない負けの試合結果を知っていて聞いたように、驚きというよりショックの表情を見せた。
「……それ、話して良い事だったの?」
王子が冷や汗を流してみくろに確認する。聞いては何か不味かったのか。有世も王子につられてドキリとしたが、当のまくろは陽だまりで和むような、どこまでも落ち着いた様子だ。
「許容範囲だと思うよ。もう、一番神経を使う部屋は過ぎただろうし」
「そ、そうなのか。それなら良かった……」
『きゅ……きゅうん』
座っていた位置から自然ときゅるんぱも話に加わり、王子と共に胸を撫で下ろした。
「はあぁ。……遮ってすまなかった、少年。……それから」
「何? 王子」
有世の気軽な返事に、王子は少し躊躇ってから、困り顔で言った。
「わたしもこのまま、きみたちの話を聞いていても良いだろうか。その、わたしはみくろとまくろのように上手く伝えられないから、お荷物というか……邪魔なだけかもしれないが」
王子が済まなそうに肩をすぼめる。が、有世としては、何故王子が自身を役立たずのように言うのか、さっぱり分からない。有世はけろりと答えた。
「良いよ、全然。むしろ聞いててほしい」
「本当……? ありがとう有世」
「うん。だってさ――」
この広いとは言えない筏で、BGMも静かなせせらぎのみ。そもそも聞かれたくなければ、有世はここで話したりはしない。何より。
「今居てくれるみんなもそうだけど、でも。王子が居てくれるとね、何だか尚更気持ちが軽やかなんだ。ちょっとくやしくて言いたくないことも……全部は言えないけど、いつもよりは言葉になるっていうか……んー、何て言えばいいのかな」
心を打ち明けて、それを肯定してくれなくても良い。ただ否定せず聞いてくれることが、こんな自分も在って良いのだと、そう思わせてくれる。そんな相手と出逢えることは、どれ程幸せな事だろうか。
「だから、そう。ちょっと格好良くないことも言うかもしれないけど……見守っててくれたら、それだけで嬉しい。面倒かもしれないけどさ」
照れくさそうにそう言ってから、「あ、いや。『見守る』じゃなくて『聞き守る』か……?」と頭を捻る有世の姿に、王子は小さく噴き出すように笑うと、今度は遠慮なく距離を詰め、有世の隣に並んだ。
「面倒だなんて。いくらでも『聞き守る』よ。任せてくれ」
「うん、王子。ヨロシク」
有世は無理やり口角を上げ、照れ笑いを満面の笑みに変えた。そこでふと思いつき、すとんと顔の力が抜ける。
「……そうだ」
話し始める前に、筏を先導するぽお助は無理だろうが、竹楽にも声をかけようか。そう思い有世がチラと確認すると、竹楽は――
『がりひゅぅぅぅ……がっ……がりひゅぅぅぅぅぅ~』
先頭で座ったまま、静かに奇妙な寝息を漏らしていた。それでも倒れない上半身は、竹馬で鍛えたバランスの賜物だろうか。
「………………」
固まる有世に続いて、皆の視線が竹楽の背に集まる。
暫し川の音と竹楽の寝息だけに包まれた後、まくろが、ぱちと小さく手を叩いた。
「ま、良いね竹楽は。煩くても寝られるタイプだし。このメンバーで行こ」
竹楽と会ったばかりの有世には、起こすのとそっとしておくのと、どちらが良いのか分からないが、付き合いの長そうな仲間たちが各々賛同したため、まくろの案通り、竹楽のことは夢の世界に留めておくことにした。
皆が改めて、楽な姿勢でかつ話のしやすい位置に納まると、みくろが有世を見て「あっ」と小さく声を漏らした。
「そうそう、さっきアリセと話をしていて、浮かばない言葉があったのだけど。何だったかな、アリセみたいな人の事を言うの。隠れ、なんちゃら……みたいな」
みくろが、何となく下げていたストラップを失くしたような、少しだけ残念そうな顔で尋ねる。それに一番早く反応したのはまくろだった。彼女は少し首を傾げ、みくろの待っていた音を告げた。
「神カクシ?」
「そうだ。『神隠し』」
靄を払えてスッキリしたらしい。みくろが珍しく、まくろに似たカラリとした晴天の笑みを浮かべた。が、有世は反対に表情を曇らせる。
「……『神隠し』って。人が突然居なくなって、そのままずっと帰って来ないっていう、あれ?」
「時にはそんなこともあるらしいね」
みくろは少数派のように言うが、有世にはどちらかというと、帰って来ない確率の方が相当高い印象の言葉に聞こえる。有世は急速に組み立てられた自分の不吉な妄想に身震いし、それを振り払うように仲間たちの顔を見た。
「おれは『帰れる方』……だよね」
口にして、自分を奮い立たせる有世を、皆がそれぞれの笑顔で頷き肯定する。
「君がそれを望む限りは」
「うん。一人だったら迷って帰れなくなる危険もあるだろうけど……案内役がこんなに居て気をつけてれば、ま、ダイジョウブでしょ」
きっと、大丈夫。ニコイチの励ましに、有世もぎこちなく笑う。そんな彼の手を、王子が優しく握った。
「言っただろう? 有世。『必ず送り届ける』と」
約束の言霊が、有世の心に染み渡る。優しさが力になる。
「……ありがとう」
有世は王子の手を一度キュウと強く握り返し、互いに解く。すると空いた有世の胡坐に、きゅるんぱがぽふりと乗っかった。
『きゅっきゅーぅ』
ふかふか温かく、心地良い。きゅるんぱなりの励ましらしい。有世は感謝の気持ちも込めて、間違えてもきゅるんぱを川に落とさないように両腕を回した。
「それにしても、王子は……他の皆もか。ここまで何に気を使ってたの? 危険な場所なんてなかった気がするけど」
敵は存在しない。大地の変動は、気を使って防げるようなものではないだろう。時々名乗って驚かれたのは、魂の外に居るはずの自分が内に現れたためだろうが、内緒話の理由はやはり、有世にはピンとこない。
有世はまず王子ときゅるんぱに向けて問うてみたが、二人はチラと視線を合わせ固まる。そしてすぐ小さく唸った王子が、するりと視線でニコイチにパスを回した。
そういえば王子は「上手く伝えられない」と先に断っていたなと、有世は少し済まない気持ちで、目で王子に謝る。王子も同じような顔でそれに返した。そこから有世がニコイチの顔を見ると、まず楽し気に微笑んだみくろが口を開いた。
「ここに来る前、図書室みたいな場所を通って来なかった?」
「うん。びっくりするくらい広かった」
有世がつい感想までつけて答えると、まくろも同意するように頷いた。
「でしょう? でもね、図書室みたいな場所は、アリセが通った一つだけではないんだ」
「! あんなにたくさん本が並んでる部屋が、他にも?」
「いっぱいあるよ。本当に、回るだけでもどれだけかかるやら」
本、読み放題! 入った瞬間そう思ったあの部屋がいくつもあるのなら、天国としか言いようがない。そんな場所が自分の『内』に在るのは、嬉しいような、勿体ないような。有世はそんなことを考え、しかし、本を手に取ろうとした時のことも思い出した。
「けどさ。読めない本ばっかりじゃ、回っても面白くないよ」
有世が出会ったのは、中身が不完全な本と触れない本。それから、時々待ち時間に拾って戻そうとしたが、ちっとも動かなかった床に落ちた本。読めないのならば、本であって本ではない。有世にはそう思える。
残念やらつまらないやらで、有世が無意識に口を尖らせると、予想通りと言った風にみくろが頷いた。
「ああ、やっぱり。君はそうだろうね」
「?」
「まだ知るには早い事ばかりだろうし、忘れたことも『忘れた』ことが大事だったりするから、読めるのはほんのちょびっとのはずだもんね。当たりを引くのは難しそう」
まくろも状況を理解している様子だが、有世にはやはりさっぱりだ。そんな有世が催促する前に、まくろが穏やかな口調で続けた。
「全ての図書室にはね。今までの君、今の君、これからの君の全てが記録されているの。自分では気づいていなかったり、忘れたと思っている些細なことまで、何もかも」
経験は全て脳に刻まれる。その中にはもちろん、思い出せないこともある。そういう話なら有世にも頷ける。しかしまくろは、記録されて『いく』ではなく『いる』と言った。……『これから』のことまでも。
「……おれの人生って。もう全部、決まっちゃってんの?」
眠れない時、天井を見ながら考えることがある。自分は今、本当に『生きて』いるのだろうかと。有世は作られた何かの一部でしかなく、宇宙の外で暮らす誰かが描いたシナリオ通りに動き、決められた日々を進んでいるだけなのではないか。
自分が頑張っても頑張らなくても変わらない。いや、そのどちらを選ぶのかすら決められているとするならば、それは『生きている』と言えるのだろうか。
ありえない妄想だと思っても、時たま、自分が在るという感覚は、不意に空気に解けそうになる。世界が膨張し、ぼんやりふんわりした奇妙な感覚に包まれ、しかし妙に頭は冴えわたるあの瞬間は、何と言い表せば良いのだろうか。
何度かそんな経験をしている有世だから、もしも自分の道が決まったものであったと言われても、まあそうなのかと思うだろう。……納得がいくかは別の話だが。
だが有世の問いに、みくろは目を閉じ、静かに首を横に振った。
「いつだって、決めるのは君だよ。君が選んで生きた全てが、ここに刻まれているんだ。さっきも話した通り、ここには過去も未来もないからね。……でも、そうだな」
みくろは話しながら、自身の言葉に引っ掛かりを覚えたらしく、口元に手を当て一度目を伏せ考える。そしてもう一度、有世の目を見て、少し困ったように眉尻を下げた笑みを見せた。
「……うん、本当は逆ということもあるのかも。どちらが先かは、きっと誰にも分からないことだ」
「卵と鶏みたい」
「ホント、そうだねえ。けど、決まっていようがいまいが、その内容を知らないで進むのなら、同じ事だと思わない?」
まくろに問われ、有世は考える。既に広く知られている歴史ある物語の最終場面も、何も知らずに初めて読むのなら、自分にとってはこれから知る未知だ。『有世の人生』という脚本をすでに持って生まれていたとしても、読めないのならばそれもまた未知である。
「確かに……そうかもしれない、けど」
自分の行く先を知っていれば、先を思い描く不安はなくなるだろう。しかしその先に大きな苦難が待ち受けているとなれば、きっと有世はそれ以上、一歩たりとも進めなくなる。この先どちら転ぶか分からない『今』は案外、大きな推進力を生む大事な存在なのかもしれない。
ぐるぐる考え、どっちも一長一短だなぁと、有世が結局何も言えないままでいると、その思考が落ち着くのを見計らったタイミングで、みくろ、そしてまくろと続けた。
「全てを知ってしまえば、出会うことも、新たに生み出すこともできない。魂が進むために、学ぶために、一度全てを忘れて生きる。それが『一生』だよ」
「だからね。刻まれた全ては、君が得た君だけのモノだけれど、今はまだ知ってはいけないの。だけど君が来てしまったから、図書室も慌てて、頑張って本に色々細工をしたんじゃあないかな。魂の外からちょびっと触れるのはアリだけど、全部を読んじゃったら、忘れた意味がなくなっちゃうからね」
何だか難しい。時系列がめちゃくちゃだ。『これから』がすでにここにあって、しかしそれは『この先』に学んだ結果であるというのだから。
有世は熱くなった額の熱を放出しようと、ひとまず分かりやすく気になる疑問をぶつけた。
「ええと。……図書室『が』細工したの?」
「他にできるモノはいないからねえ」
ここではそれも自然な事のようだ。あっさりとしたまくろの回答に、有世は曖昧に「はあ……」と頷いた。
さて、次に自分は何を聞けば良いのやら。きっと知りたいことだらけなのに、分からなすぎて質問すら浮かばない。ざばざば流れ、またそれがかき分けられる川の水音が、まるで自分の脳のモーター音のようだ。
そんなことを思っていた有世だったが、急に意識が内に収束し、全ての音が一瞬、聞こえなくなる。そしてポン、と現れた問い。
「そういやここって、何ていう場所なの?」
「ここの、名前?」
「アリセの魂……以外の呼び方?」
「うん」
これまで、問えば必ず答えを返してくれたニコイチが、初めてきょとんと互いの顔を見る。王子はどうかと有世が視線をそちらへ流すと、彼女も首を傾げ、ニコイチの代わりに応えた。
「そう言われると……――特にない…………かな」
何の気なしにした質問だったため、有世はそのまま話題の区切りに向かおうとしたが、「あ」というまくろの声に引き留められる。音につられてそちらを見れば、みくろと共にまくろは前方の岸を向いていた。
「名前、在るみたい」
「何だって?」
驚き聞き返す王子に、並んだニコイチが声を揃えた。
「さいく・がーでん」
聞きなれない、後半の単語からおそらく英語であろう響きに混乱した有世の脳が、聞き覚えのある言葉を組み合わせ、中途半端な翻訳を行った。
「……サイの庭?」
そんな有世のとんちんかんな返しにニコイチは笑うこともなく、まくろは静かに首を振ると、
「さいく、がーでん。だよ」
「サイク、ガーデン」
聞こえたままに有世は繰り返す。ゆっくりと区切って届けられた音は、しかし意味まではやはり有世には分からない。
「君が来たから、名前が分かったの。……きっとこの魂の中でも、今のアリセ一角だけの名前だけど」
「でも君にとっては、ここの全ての名前かもしれない。どうせ他には入れないのだから」
「名前はずっと、存在してはいたんだと思う。でも、私たちには名前は必要なかったから、今まで気づけなかったんだね」
「……ほあぁあ。本当だ」
「? 王子?」
王子の気の抜ける声に有世が頭を動かすと、彼女は「あれあれ」と、芸術作品のごとく絡まり合い、一本の背の低い太木のようになっている木々を示した。その上方には木彫りの枠の、大きな黒板の看板が飾られている。多色のチョークで淡く美しく描かれた装飾の中に、地の色でくっきり抜かれた文字は『さいく・がーでん』。
「…………平仮名ぁ?」
有世は思わず、先程の王子に負けず劣らずぼんにゃりした声を出した。まさか平仮名だったなんて。何だか風景や装飾に不釣り合いだ。もっと洒落たアルファベットで綴られているイメージだったのに。それとも、そもそも英語ではなく、造語の類なのだろうか。
筏が進み、看板が後方へと過ぎ去って行く。看板の裏側しか見えなくなると、王子は前を向き直し溜め息を吐いた。
「あの看板、わたしも今の今まで気が付かなかった……あんなに目立つのに。一人で世界を正しく認識するのは……本当に難しいのだね」
ニコイチと出会った時もそんな話を聞いたが、今思えば有世にも経験がある。通学路に建つ、自分が生まれる前から立っていた一軒家なのに、クラスメイトの家だと知るまで一切その存在を認識していなかったことが。「こんな家、在ったっけ?」と言った時の、隣でガックシ肩を落とした卯月の顔は今でもよく覚えている。
(ド忘れも忘れ物も、あいつの方が全然多いのに……くぅッ!)
何だか悔しかった記憶まで蘇ってきてしまった。
有世は鋭く息を吹いてモヤモヤを追い出し、さらに余計な事を考える前まで思考を戻して、過去を納まるべき箱に帰した。
「けど、『ガーデン』って『庭』だろ。そうじゃなくてさ、おれが歩いて来た全部の名前が知りたいなって」
今居る場所は確かに庭園の趣おもむきだ。あの看板に書かれた名でもまあ構わないだろう。しかしこれまで通ってきた場所は、無機質な白黒世界は置いておいても、庭園以外にも色々だ。
だが、やはり名前はそれで正しかったようだ。まくろがにこにこ断言する。
「ちゃんと、ここ全ての名前だよ。アリセにとってはそんな名前なんだね。『さいく・がーでん』。私は好きだな」
「僕も好き。王子は?」
「素敵な響きだと感じるよ。ね」
『きゅん!』
それぞれの真っ直ぐな好意が、きらきら輝いて見える。
「そう言ってくれるのは嬉しいけど。でも『おれにとって』ってのは変だよ。サイク、なんて外国語、知らないもん。何て意味なの?」
好きだと言うからには、ニコイチは言葉の意味を理解しているのだろう。有世は当然そうだと思い訊ねたが、
「それはアリセにしか分からないよね」
「うん。色んな意味が含まれているんじゃないかな」
「そ、そうなの……?」
分からずじまいだった。王子ときゅるんぱもお手上げのジェスチャーだ。とりあえず帰ったら、片っ端から『さいく』、念のため『がーでん』も調べておこう。そこまで考え、有世は気づく。
「……ああ。調べて学んで、『未来のおれ』がつけた名前……ってことか」
未来がここにある。何となく腑に落ちた。有世が「そうでしょ?」と得意げに笑うと、みくろは残念そうに、肯定でも否定でもなく告げた。
「ごめんね。それぞれ言えることは限られているんだ。この話題はここまで、かな」
「どうして?」
「僕らには、知っていても言えないことがある。うっかり話せば、君を帰せなくなってしまうから」
うっかり聞けば、神隠しの『帰れない方』になるということか。……うっかりで。たまったもんじゃない。……それはさておき。
「帰れなかったら、ずっとここで暮らすことになるのかぁ……」
「いや、ここ自体がなくなってしまうから」
「……は?」
彼らしい穏やかさのまま、さらりと不穏なことを言ったみくろは、何てことないように説明を続ける。
「本来この世界は君の中にあるもの。逆に君が世界の中に居るのは、とても不自然な状況だ。君が居ることで、この世界は急激に大きく揺れ動く」
「普段は置かれたコップの中に水が入った状態だれど、今はその水の中にコップが入っちゃってる感じかな。こう、無重力の時の水の玉の中にコップがあるみたいな」
「うん。何となくイメージできる」
まくろが補足するように、両手を動かし球を描いて説明するのを見て有世は頷く。するとみくろは、まくろの説明を引用してその先へと話を進めた。
「けれど、その無重力も長くは持たない。波が大きくなり、いずれ水は完全に零れて、落ちたコップも壊れてしまう。時間切れまではまだありそうだけど、崩壊の足音は……聞こえ始めているかな」
みくろが空の向こう、はるか遠くを見据えて声音を深く沈める。先程、大揺れを経験した時と同じだ。真剣な空気に、いやでも理解させられる。有世は何も言わず膝の上のきゅるんぱを王子に託すと、両手を強く握り真っ直ぐに問うた。
「……あのさ」
「何かな」
「さっきみくろは、おれが居るから世界が揺れ動くって言った。……もしかしなくても、村でタイルが割れたのも、道が急にせり上がったり凹んだりしたのも……ここで起きてる困りごと全部、おれがここに来たせいなんだな?」
みくろは言葉を選びきれないまま、切なそうに有世を見返す。それで有世には十分な答えだった。もう全部分かっている。自分が諸悪の根源なのだ。川岸でからりと崩れた瓦礫の小石の音が、今更妙に生々しく響く。
来たくてここに来た訳じゃない。それでも優しい皆を思えば、何故来てしまったのかと、有世は悔しくて泣きそうになった。
「やっぱり。おれのせいであんなことが……? ねえ、おれ。どうしたらいいの? あんなに支えてもらったのに、世界を壊して、みんなをいっぱい困らせてる……ッ!」
「有世。落ち着いて」
『きゅんっ!』
自責の悲しみに顔を歪め、最後は俯いて表情を隠した有世に、王子ときゅるんぱがすかさず寄り添い、彼を励ました。
「大丈夫さ。まだここは壊れ切っていないよ。直す術はある……はず、だよね?」
力強く笑った王子だったが、言葉の速度を落とし、苦笑いでニコイチに確認する。ニコイチは揃って頷き、まくろがふわりと笑って解決法を述べた。
「アリセが無事に帰ることは、すなわち、水がコップの中に戻るということ。そうすればそれにつられて、ここの全ても完全に修復されるよ。時間はちょこっとかかるだろうけど」
先程みくろが言った『元に戻り始める』というのは、この事だったのだろう。壊すも直すも有世の存在ということか。
「でもじゃあ、だから、おれが……もし時間切れまでに帰れなかったら……」
「その時は魂自体が崩壊する。君の中に宿る僕らやモノたちも、今魂の中に居る君も、全てが大きな宇宙に還ることになる」
「……おれもみんなも、死んじゃうってこと?」
比喩ではない明確な答えが欲しくて有世が聞き返すと、少し首を傾げてから、みくろが応じた。
「私たちには死という概念は存在しないよ。けど、そう思ってくれて構わないかな」
「嫌だよ!」
「ありっ…………少年」
有世が思わず立ち上がると、その叫びにぽお助はちらりと後ろを見たがそれだけで、筏は大きく揺れることもなく静かに進み続ける。
王子ときゅるんぱは少し驚いた様子で腰を上げかけたが、ニコイチは遥かな時を過ごした巨大樹のごとく、清涼な気を纏ったまま微笑み続けている。状況と心構えが合わないちぐはぐさが恐ろしくも思え、有世は耐えられず、不安定な空気を払うように語気を強めた。
「二人とも、どうしてそんなに落ち着いてるんだよ! おれが早く帰らないと、みんな……きっ、消えちゃうのに……」
言葉にするだけでも悲しくてたまらない。自分が消えるだけなら分かるが、何故ここで暮らす者たちまで巻き込まれなければならないのだろうか。『内にあるから』。そう理解していても動揺は抑えられない。そしてもちろん。有世自身も、今はもうはっきりと『消えたくない』。
有世が閊つかえながらも音を絞り出し、それに力を使い果たしたようにへたり込むと、それでもまくろはあっけらかんと答えた。
「じたばたしたって、どうしようもないことだから。君が帰れるかどうかは君次第。私たちはただ、君の選択と共にあるモノだから。……でもね」
ニコイチの瞳に、真っ直ぐ強い『生』の光が宿る。
「僕たちは消えない」
「私たちも見届ける」
「みんなで最後まで、アリセと一緒に行くよ」
潤んだ瞳で、頼りない顔のまま、それでも有世は顔を上げる。そんな有世の心を掬いとって、王子がそれを外からの言葉として伝えた。
「帰りたい場所が在るんだろう? ならば、進むしかないね」
「……うんっ」
そう。悲しかろうが、不安だろうが、今は進むしかない。じっとしていても、待っているのは終わりだけなのだから。
有世は腕で涙をぬぐい、腹を括った。
「みんな。おれが来て、『さいく・がーでん』を不安定にして……巻き込んでごめんなさい。だけど――」
今、有世がここに居る事実は変わらない。ならばやることは決まっている
「おれ、必ずちゃんと帰るから! 絶対にみんなのこと守る! でも、おれ一人じゃ何もできないだろうから……だから最後まで、よろしくお願いします!」
思えば、最初にきゅるんぱには道案内こそ頼んだが、その後は出会った仲間たちの方から進んで有世に関わってくれた。だがこれは有世の問題だ。与えられる力の存在を、当たり前だと思ってはいけない。
ここに居るみんなは、必ず有世を助けてくれる。それはこれまでのやり取りで明白だ。だからこそ、有世も本気で彼らに向き合わなければならない。
そんな有世の『宣言』を、仲間たちは誇らしげな笑顔で受け取ったのだった。