表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
In the round  作者: 宇川幸来
8/13

8-みくろとまくろ

「えーっと? こっちはどうかな?」

『ぎゅえ……』

「あ、じゃあ上のあれだ」

『がちょん……』

「……だよね。うん。本命は――あれでしょっ!」

『…………のぽん』

「違うの⁉ あーもうっ!」

 まるで迷路のような図書室を、もうどれくらい彷徨(さまよ)っただろう。

 有世(ありせ)を帰り道へと導くため先導してくれている王子と動物たちだが、そんな仲間たちにも、どうやらこの先の道のりは未知の領域だったようだ。

 王子は次から次へと扉を示すが、どれも目的のものではないらしく頭を抱えている。三匹の仲間たちも首を振り疲れた様子だ。

 そんな姿を、有世が少し遠くからぼんやり眺めていると、はっと気づいた王子がキャラを整え駆け寄って来た。

「す、すまない少年。待たせてしまって」

「良いよ、全然。おれ一人だったら、きっともっと迷っちゃうもん。むしろごめんな。大変な思いさせちゃってるみたいで」

「それは良いんだ。案内を買って出たのはわたしだから。……ただ、その、実を言うとな……」

 相変わらず姫の印象が強い王子は、必死にきらびやかな格好良さを演じようと努めているが、その声がだんだん、自信なく霞んでいく。

 王子は一度、二度、顔ごと有世から目を逸らし、最後は、宿題をやらなかったことが親にばれた子どものように、居心地が悪そうに告白した。

「この部屋の中のことならともかく。普段使う出入口以外は、わたしには繋がる先が全く分からないのだよ」

『ぽう、ぽい、のぽん』

『きゅいきゅえー、きゅうきゅん』

 ぽお助ときゅるんぱが、王子の言葉にさらに付け足す。

 王子はこの図書館内には詳しく、扉のある場所は全て知っているが、行きたい所へ行くために必要な扉がどれか判断できない。逆に動物たちは、扉を直接見れば行く先は判断できるが、その扉の在処が分からない。互いに欠けた情報を補って道を探っているのだという。

王子はしゅんと項垂れると、腰を落として有世の目を真っ直ぐに見た。

「きみにはつい格好良い所を見せたくなって。さっきは自信満々に振舞ってしまったのだけど……ごめん。見栄張った」

「そう……なんだ」

 有世は曖昧に頷く。王子が見栄を張ったこと自体は一向に構わないのだが、有世よりずっと年上の相手でも、そんな風に自分を良く見せようとするのかと、それが何だか衝撃だった。

 周りの大人はいつだって、有世の目には恐ろしく優秀に映る。自分や友人の親も、先生も、あちらこちらで働く人たちも、有世には難しいと感じることを、当たり前のように淡々とこなしていく。そして有世の困りごとなど大した事ではないという風に、あっという間に解決してしまう。大人はとても遠く、自分もあんな風になれるのかと、夜中、不意に布団の中で目覚める度不安になるくらいだ。

 なのに王子は、自分の見栄を正直に話した。至らぬ点があると、有世に打ち明けた。本当は大人だって、有世が思っている程完璧ではないのだろうか。

 そんな考え事をして目を伏せたせいか、有世ががっかりしたように見えたらしい。王子は慌てて有世を慰めるべく、もう一度胸を張り直し、それだけは確かである希望を、今度こそはと自信満々に伝えた。

「でも大丈夫! 前進できる扉があるのはこの部屋のどこか、それは本当だ。ローラー作戦で当たれば、必ずっ、百パーセントっ、扉に辿り着くから! だから安心してくれたまえ!」

「……うん」

 王子は有世を安心させるように、明るく、力強くそう言ってくれたが、有世はそこまで焦りを感じておらず、どうも王子の方が必死に見える。

(本当はおれももっと焦った方が良いのかな。おれだけ何も知らないから、あんまり焦らないのかも。……知らぬが仏?)

 時折きゅるんぱたちが有世にする、おそらく必要だから行う隠し事。呑気なのは有世だけで、それはみんなの配慮のおかげなのかもしれない。

 気にならないと言えば噓にはなるが、だからといって有世から尋ねる訳にいかないことも分かっている。今はただ流れのまま、導かれるままに進んで行くだけだ。

 王子が次に探るべき道を決めるため地図を思い浮かべる間、暇を持て余した有世は、近くの棚から黄緑色をした辞書の形の本を手に取り開いてみた。

(……白紙だ。全ページ)

 これから書き込むための本なのかなと、有世は本を隣の赤く薄い一冊と取り替える。次の本には文字は書かれてはいたが、文章の多くが不規則に欠落していて、内容を理解することは到底できそうにない。

(誰かが落とした衝撃で、文字が零れたのかな、なんて)

 もう一冊見てみようかと手を伸ばすと、手は白と灰の豪奢な本をすり抜け棚板に当たった。

(え、幽霊本?)

 三冊全滅。読める本は一冊もなかった。山吹の四冊目を諦めたのは、王子が嬉しそうにひらめきの声を上げたからだ。

「そうだ! 分かった分かった! やったよぉ竹楽! ……ふう、何で気づかなかったかなぁ」

 王子は愛らしい声と笑顔で跳ね、思わず竹楽とハグしたが、呟きの後に自分が演じるキャラを思い出したようだ。固い表情で竹楽から静かに離れると、気まずそうに「ははは……」と乾いた笑いで誤魔化した。

「王子、扉見つかりそうなの?」

 有世は、キャラのぶれなどさも気にしていませんよ、と言った風に、何事もなかった体で王子に話しかけてみた。すると有世なりの気遣いに、王子は助かったような照れくさいような、それでも嬉しそうに微笑む。そして咳払い一つを挟み、有世に希望の道を語った。

「ええとね。以前一度だけ興味を惹かれて、だけど何だか通る気になれなかった扉が存在するんだ。他とは違う力を感じるなと思ったのだが、それ以来は気にならず、すっかり忘れてしまっていた。きっと、いや絶対、あれが正解の扉だ」

 王子が華麗に右腕を伸ばし、掌で吹き抜けの上階に見える扉を示す。距離があるため明確にどの扉なのかは分からないが、あの辺りのどれかだろうと有世は頷く。

「ここまで散々歩かせてしまったが、扉探しはこれで最後だと約束する。もう一度だけ、信じて着いて来てくれるかい?」

 王子と、左右に並んだ三匹が真剣な眼差しで有世を見つめる。やや大仰に感じる言葉と視線だが、そこに込められた真摯な思いを受け取った有世は、彼らへの感謝と信頼を伝えるべく、深く息を吸い、吐くと共に大きく笑った。

「当ったり前だろ。案内、お願いします!」

 有世の答えに、王子は硬かった表情を緩める。そしてキャラは崩さず、それでもとても自然な、彼女本来の美しい笑顔で応じた。

「――ああ、今度こそ。必ずきみを送り届けるよ」


 カラフルで歪んだ縦縞が木目に見えてくる本棚が不規則に並んだ、森と呼びたくなる広場を抜け、無垢の大きな曲線の本棚に沿ってぐるりと回る。

 そこから先は、背が高く規則的に並ぶ本棚の間を、王子を先頭にどんどん進んで行く。視界が確保できず似た景色が続くが、王子は一切迷う様子がない。有世にはもう、自分が何度曲がったかも、自分たちがどちらから来たのかも全く分からないというのに。素晴らしい方向感覚だ。

 少しずつ本棚の背が低くなっていくと、目の前に二つの階段が現れた。王子は石造りの下りを選び、一度下がって、左から上がって、有世たちは目的の階に到着した。

 最後の一段を飛ばした王子はその勢いのまま一足先に駆け、立ち止まると、早く早く、と動物たちに手招きをする。

「――どうかなみんな、これなのだが……え、本当にこれなのだね? 合ってるんだね! はぁぁ……良かったぁ」

 自信はあったものの、実際に確認するまではやはり不安だったらしい。喜びうんうんと頷きを繰り返す仲間たちに安心した王子は、腰が抜けたかの脱力でしゃがみ込んで、そのまま遅れて到着した有世にグッと握った右拳を見せた。

 しかし――

「あの、扉って……どこ?」

『!』

 ぽお助が目を見開き、竹楽がバランスを崩す。きゅるんぱはやはり、ボフリと膨らんだ。

 有世としては当然の疑問を口にしただけだったのだが、どうも宜しくない反応だ。それでも王子が指差し、動物たちが集まっていた場所には、扉など存在していない。ただ左右に長く続くモノクロのボタニカル模様の壁があるだけだ。

 戸惑う有世だが、王子も同じく不可解な顔で驚き返す。

「どこって……きみの目の前にあるだろう?」

 当然とばかりに言い切る王子に、有世は一応、自分に見えている近場の扉を示し、尋ねてみた。

「目の前ってか、ちょっと右と左なら。四角い紫の縦縞? それとも薄緑の木彫りの方?」

「……え?」

 王子がすっくと立ち上がり、掌でぱしぱし壁を叩いた。

「ここ! 真っ赤に金細工、細かい装飾の石造りのやつ!」

「…………」

 ないものはない。見えないものがあると言われて、どうすれば良いのだろうか。有世は何も言えずに立ち尽くすしかなかった。

 有世も王子も続く言葉を失い困っていると、間を繋ぐように、竹楽が物は試しと王子に提案をした。

『ちょんちょん』

「そっか!」

 王子はさっそくパントマイムのように――有世に見えていないだけで、本当に行っているのだろうが――両手で取っ手を掴むと、数歩下がりながら、おそらく観音開きの重そうな扉を開いた。当然というべきか、何かしら発生するはずの音も、有世には何も聞こえない。

「……有世、手を」

 それまでは右手をメインに使っていたはずの王子が、わざわざ体の向きを変え、さりげなく左手を差し出す。利き手を空けたい有世は、人と繋ぐなら右手の方が良い。王子はそのことも知っていたのか。

 自然な気遣いを見せた王子は有世の右手を取ると、扉が閉まらないように押さえているらしいきゅるんぱとぽお助の間を進み、ゆっくりと壁の奥へ消えていく。丁度、先程幽霊本をすり抜けた手のように。

(すごい……きっと本当にあるんだ、扉)

消えていく王子、引かれ壁に近づく右手。しかし有世の身体が見えない扉を潜ることはなかった。

 有世の指先が壁に触れると、途端に引かれる力を感じられなくなる。有世は自分からも進めないかと壁を触ってみたが、やはりと言うべきか壁は壁でしかない。そのまま十程数え待っていると、肩を落とした王子が壁から帰って来た。

「王子?」

『ちょんが?』

 王子はするりと繋いでいた手を放し、どうしたのかと問う竹楽に力なく首を振った。

「駄目だったよ。彼の指が境界に来た途端、謎の力に邪魔されたみたいに、あれ以上は引っ張れなくなった」

『が……がちょん』

『ぽうぽ』

 失敗か、と残念そうに俯く竹楽の肩を、ぽお助が、出来ないことが分かっただけでも一歩前進だと、胸鰭で励ますように叩く。

 二匹のやり取りを見て、有世も王子を励ます何かをしたいと思ったが、何も浮かばないまま、ただ彼女の隣に立ち、顔を見上げる。すると王子の方が先に、優しいが悲しみを隠した表情で口を開いた。

「この扉、きみは通れないから見えもしないのだね。またきみを振り回す結果になってしまった――」

「大丈夫だよっ」

「え……」

 続く言葉に予想がついた有世は、王子にそれを言われる前にすかさず繋げた。

「おれはまだまだ平気。元気いっぱい。だからさ、謝らないでよ。みんながおれのために頑張ってくれてるんだって、ちゃんと分かってるから。謝られたら何か……おれがバカみたいじゃん」

 考えるより自然と出た言葉だったが、自分の思いがズバリ言語化されたようで、浮かび生まれたその台詞に有世自身も納得がいき、とても満足した心地だ。

 それは王子にも伝わったらしい。言いたいことが綺麗な形になったこともあり誇らしげに力強く立つ有世の姿に、王子は無意識に湧き上がっていた焦りを静めるように自分の胸に手を当てた。

「そうか……そうだよね。ありがとう有世……あ」

 ほっと肩の力を抜いたはずだった王子は何故か慌てて口を押さえると、今度は有世がそれについて聞き返す間も作らぬまま、次の言葉を放った。

「うん、凹んでいる暇はないね。今はとにかく次の作戦を考えないと。――けど、ちょっと流石に……困ったかな」

 ようやく見つけられた道は使えず、他の良い手も思い当たらない。八方塞がりとばかりに王子はしばし目を閉じ、静かな呼吸だけを繰り返す。そしてずれた呼吸でふっと息を吐くと、薄く目を開き、何かを思い出した様子で右手を口元に当て呟いた。

「――『(せい)は一方通行、魂は自由通行』……か。あの子たちが言っていたのは、こういうことだったのかな……」

 何だか難しそうな言葉が聞こえた。有世にはさっぱりだったが、それを聞いたきゅるんぱは、それだとばかりに何度も高く跳ね、王子にアピールした。

『きゅーれ、きゅんきゅきー』

「確かに! それを知ってるってことは、役割分担――あの子たちの方が今の状況に相応しいってことかも」

『ぽっぽー』

「うん、そうだねぽお助。早いとこ二人に会いに行こう。きっと、わたしたちよりずっと頼りになるだろうから、な!」

『きゅんきゅん』

『がりちょん!』

「そうなの? それはバッチリじゃあないか、竹楽」

『ちょん!』

 竹楽が示した扉に、王子が瞳を輝かせる。ついに光明が見えた王子は機嫌良くくるりと振り返り、有世にぱちりと綺麗なウインクを見せた。

「予定変更だ。遠回りにはなるだろうけど、通れないのでは仕方がないからね。立ち止まるよりはずっと良い。それに何故か丁度――」

 王子が、有世にも見える左の木彫りの扉を示す。

「行くべき扉はすぐ隣にあるみたいだし」

 扉は前後に開閉するドアに見えたが、待ち切れず先に向かったきゅるんぱが、低い位置へ動いたノブを掴み、引き戸の動きで扉を開いた。先の景色は白くぼやけた光で良く見えない。

 きゅるんぱに続き、動物たちが光に飛び込み図書室から出て行く。残された王子は有世と並んで歩き、芝居がかった調子で、進む前に有世に問うた。

「きっともう図書室には戻れなくなるが、心の準備は良いかな? 少年」

 正直に言うと、こんなに広い図書室なら一年くらい泊まり込んで、片っ端から本を読み漁ってみたい。だがここはそう言った場所ではないことも、有世にはもう分かっている。読めない本に囲まれていても仕方がない。

 有世は答えと共に、二人きりになった今の内にと、片付けておきたい蟠りも王子にぶつけてみることにした。

「準備は良いけど、一個、気になってることがあって」

「何かな」

 王子が立ち止まり、優しく有世の目を見つめる。

 その優しさに、尚更不思議が募る。

 有世も真っ直ぐ、輝く宇宙の瞳を見つめ返した。

「王子は、おれのこと知ってたんだよね? 左利きなのも分かってるくらいに。でも『少年』って呼ぶの、何で? それにさっき、有世って言ってから『しまった』って顔、してたろ?」

 有世としては、せっかくなら王子にも名前を呼んでもらいたい。ただ純粋にそれだけの思いで訊ねてみたのだが、王子は困るというより、有世の心と同じく、ただただ残念そうに表情を曇らせた。

「ああ、うん。まあ何と言うか、きみが無事に帰るためのおまじないのようなものだよ。……本当はわたしもっ、名前で呼びたいところなんだがっ」

 くっ、と苦虫を嚙み潰した顔で、とてもとても悔しげに、堪えるように王子が拳を握りしめた。

「そっか……おれのためなんだ。分かった。ありがとう王子」

 理由が聞けたのなら良い。有世は本心からそう思ったのだが、王子の方は足を止め浮かないままだ。有世は半身で窺うように、遠慮がちに声を出した。

「……訊かない方が良かった?」

 訊いてしまって今更だな、と思いながら、有世が気まずさに目を逸らしかけた時、王子はふっ、と息を吐き、一度ゆっくり首を振った。

「いや、大丈夫。けれど何だか寂しい思いをさせてしまっているようで――すまないね。きみとの旅路は、できる限り楽しく幸せな思い出にしてあげたいのだが……」

「――ううん。幸せだ」

「え…………」

 有世は王子の言葉に静かな驚きと感動を覚え、温かくなった胸を両手できゅっと押さえる。そしてしっかりと王子に向き直り、穏やかに笑った。

「ちょっと寂しいなって思ったの、気づいてくれた。おれ、そんなこと一言も言わなかったのに。名前の事聞いただけで。嬉しいよ。すごく安心する」

 王子が手を動かし、口を「あ」の形に開きかけ、はっと噤む。また思わず名を呼ぶところだったのだろう。有世は構わず続けた。

「王子だけじゃない。きゅるんぱも、竹楽も、ぽお助も。どこまでも寄り添って支えてくれて。会ったばかりでどうして? って思ったりもするけど、でも、やっぱり嬉しいんだ。居てくれるって、それだけですごいことだって思った」

「……うん」

 王子が噛みしめるように頷く。優しい世界に、有世の心が、言葉が、止まらなくなる。

「こんなの初めてでさ。……ちょっとやっぱり帰りたくない気も、なんて――」

『ぽい』

『ちょんが?』

「わっ!」

 遅い。どうした? と白の光からぽお助と竹楽がにゅっと顔を出す。後ろではきゅるんぱが跳ねている気配もする。つい話し込み過ぎたようだ。

「ご、ごめん待たせて。すぐ行くよ」

『ぽお』

 有世は王子に目で合図すると、ばたばたと二匹が引っ込んだ扉に駆け込んだ。

(――あっ……ぶなかったぁ…………)

 あまりに居心地の良い空気を浴びて、弱気と情けなさを溢しかけていた。全てうっかり王子にさらす前に二人が来てくれて良かったと、有世は恥じらいで染まった頬をぱんぱん叩いて誤魔化した。

「少年?」

「なっ、何でもない。気合っ、入れ直してただけ!」

 今なら顔を見られても大丈夫だと、有世は真剣な振りをして、ふんっ、と拳を構えるポーズをする。ばれなかったのか、見逃してくれたのか、王子は小さく笑って五歩分、弾むように駆けると、動物たちと手分けして何かを探し始めた。

 有世は気を整え直し、王子を追いながら改めて扉の先、素朴な雰囲気を持ちつつも繊細に手入れされた、お城の庭と呼べそうな場をくるりと見渡した。

 低木、高木、緑、花々、土、煉瓦……数々を照らす朝焼けに似た空の色が美しい。夕焼けではない。何故だか有世はそう思った。

 うっかり見失わないように王子に視線を戻すと、左に曲がった王子はきょろきょろと辺りを確認しながら歩いて行く。探し物に夢中で疎かになった足元がひび割れた地面の段差に引っ掛かり、じゃり、と靴底を擦る音が聞こえたが、転ぶ程の躓きにはならず、有世はほっとして、遅れて同じ段差をひょっと飛び越えた。

「ねえ王子。もしかして場所、違った?」

「いや、場所は合っているのだけど、普段は別の扉から来るから――あ」

 振り返る途中で王子が首を止める。目的の何かが目に入ったらしい。

「良かった! ――みくろ! まくろ!」

 王子の呼びかけに、一メートル程の高さに整った生け垣の向こうで、見慣れない淡藤色の花樹を見上げていた二つの影が揃って振り向いた。

 二人とも高校生くらいだろうか。佇まいから感じるに、一人は男子、もう一人は女子のようだ。共に青い髪色だが、色味はやや違って見える。男子の髪は空の青、女子の髪は海の青だと、有世にはそう感じられた。

 二人が生け垣を迂回しこちらへ駆け寄ると、きゅるんぱが嬉しそうに跳ね、女子の肩に飛び乗って頬擦りをした。

「やあきゅるんぱ。今日も可愛いね」

『きゅん!』

 隣では男子が穏やかな瞳と声で、竹楽とぽお助に「ここまで来るのは珍しいね」と語りかけている。近づいて分かったが、二人の瞳は、互いの髪色と逆の色を宿していた。

 動物たちとの挨拶を終えると、二人は王子の隣に並んで立ち、にこりと微笑んだ。

「君がアリセだね」

「こうして会えて嬉しいな」

 王子とはまた違う反応だが、彼らも有世の事を知っているようだ。人相手だと尚更、知らない知り合いが増えるのは奇妙な心地がする。有世はとりあえず、何も言わずに深めのお辞儀をしてみた。

「この子たちは『みくろ』と『まくろ』。見て分かる通りニコイチだ」

 王子がそれぞれを示し紹介する。男子の方ががみくろで、女子の方がまくろだ。

 背はみくろの方がまくろより少しだけ高いが、それでも二人とも王子よりやや低い。

 二人は色や細部は異なるものの、一目でお揃いだと分かるアシンメトリーの服に身を包んでいた。斜めにカットされたマントのような羽織、洒落たリボンやさりげない鉱石の装飾、そして小さなシルクハットに膝上までのブーツ。普段着というよりは舞台衣装といった印象だ。

 みくろは暖色ながら清涼さを感じる、夏蜜柑の橙色、まくろは心躍る夏のお宝、ラムネ瓶の浅葱色が服の基調で、それぞれ相手の色が服の差し色に使われている。

 それにしても、彼らについての紹介には気になる言葉があった。

「ニコイチって、双子ってこと?」

「ふふっ、その認識でも良いよ。合ってはいるから」

 有世の疑問に、まくろが小首を傾げ楽しそうに答える。「でも良い」ということは、有世の解釈は間違っているのだろうか。しかし「合ってはいる」とも言っていた。

悩む有世に、気づいた王子がさりげなく続きを語る。

「双子はそれぞれ別の命と意思で動いているだろう? あの子たちは双子のように個でありつつ、それ以上に互いが混ざり合っているんだ」

 しかしそう説明した後、王子は苦笑いで付け足した。

「……まあ、あの子たちが以前、そう説明してくれただけなんだが」

「二人だけど一人で、でもやっぱり二人ってこと……?」

「そんな感じ、なのかなぁ」

 少し難しい説明を有世なりに理解して伝えると、王子も曖昧な様子で頷く。二人のやり取りが一段落すると、静かに見守っていたみくろが一歩進み出て、有世に優しく語り掛けた。

「君は、自分のこと、世界のこと、なーんでも知っている?」

「……ううん。分からないことばっかりだ」

 有世が答えると、まくろがみくろの隣に並び、彼女もまた問いの答えを示した。

「私たちも同じだよ。特に自分のことは、とても頻繁によく分からなくなる。自分ってものには模範解答がないんだもの。そりゃあ難しいよね」

 まくろが同意を求めるように、最後はみくろの顔を見る。みくろはうん、と頷いてまくろの顔を見返した。

「一人の視点では、簡単に世界を見誤る。僕らはとても近くて、だけど誰より遠い存在だから」

「行くだけなら一人でもできるけれど、見えないものは行っても見えない」

「自分の見ている世界は自分だけのものだけど、自分が在る世界は自分だけじゃ成り立たない」

「誰かと一緒に居るから、世界が広がる。一人ではきっと見えない所まで。その一番重要な相手が偶々、私にとってはみくろで――」

「僕にとってはまくろだった、ということだね」

 二人は世界中の幸福を抱きしめたような安らかな笑顔で言い合うと、有世に視線を戻すことで、説明の区切りを告げた。

「それが……ニコイチ?」

「私たちにはね、その言葉がピッタリなの。他の人にも当てはまる表現かは分からないけれど。要は人それぞれ、世界を歩くための特別な相手が存在する、ってことかな」

「君にも、もう存在るよね。面白くて分からない世界を広げてくれる、大切な相手が」

「……うん」

 言葉の一つ一つを余さず理解できた訳ではないが、それでも全体を感覚で理解した有世は、今、誰よりも会いたい友人を思い浮かべ、力強く肯定した。

 そんな有世の両肩に、王子が後ろから手を乗せる。

「ねえ、みくろ、まくろ。彼を家に帰してあげたいのだけど、わたしたちはみんな、この先進むべき道が全く分からないんだ。きみたちなら、わたしたちの知らない部分を知っていると思って会いに来た。力を貸してくれないか?」

 王子が頼むと、待ってましたと言わんばかりにニコイチが嬉しそうに笑う。

「ふふ、頼まれなくても、僕らすっかりそのつもりだったよ」

「貴方に頼りにしてもらえるなんて、やる気出ちゃうよね」

「ありがとう。よろしく頼むよ」

 朗らかに請け負うニコイチに、王子も和やかに微笑み返す。片道ではない、互いに持ち合う信頼を感じさせる姿が眩しい。

「行こうかアリセ。僕たち二人とも、せっかくなら君と話してみたいなって思うんだけど、隣を歩いても良い?」

「うん。おれも話したい。それから、案内、よろしくお願いします」

「あはは、喜んでー!」

 まくろが明るい声を上げる。似た者どうしのニコイチかと思っていたが、楽しそうに笑った時に変わる印象は正反対だ。みくろは穏やかに微笑み、それによってさらに大人びた印象になるが、まくろのからりとした笑顔は、無邪気な子どもの元気さを感じる。会ったばかりでまだ分からないが、きっと内面も含め、それぞれ有世が思う以上に差があるのだろう。

 普段、同世代か大人とばかり接している有世は、初めて話す年代の相手に興味津々だ。日常ですれ違う制服姿の高校生たちはとても大人に見えるものだが、今話している二人の纏う空気は、大人のそれとも子どものそれとも違っているように感じられる。

「おれ、これくらいの歳の差の人と話すの初めてなんだけど――二人とも高校生くらいだよね? どんな感じで話せば良いのか……やっぱり敬語、いりますか?」

「いらないいらない。そもそも私たち、コウコウセイとかじゃないし」

「……大学生?」

「でもないねぇ」

 有世の反応に、まくろは軽やかに、楽しそうににこにこするばかりだ。

 流石に中学生には見えない気がする。そんな有世の考えは顔にはっきり出ていたらしい。それをさらりと読み取ったみくろがまくろの代わりに、はぐらかさずに応えた。

「僕らには歳という定義がないから」

 歳がない、とは一体どういうことなのか。有世はさらに詳細を聞きたかったのだが、不意の衝撃で、それは一旦お預けとなった。

「ふわっ⁉」

「おっとぉ」

 有世たちが立つ一帯の大地がガクッと沈み、一瞬浮いた有世の身体を、まくろがすかさず押さえて支えた。そうしている間にも、その分の土が送り出されたかのように、有世の後ろで大きな隆起が起こり、王子や動物たちと分断される。

 大地はそこからも変化を続け、生まれた複数の段差が階段状になり、高低差の激しくなったそれらをかろうじて坂が繋いだのを最後に、再び静かになった。

 まくろは一帯を見回し、足場ごと谷の向こうへ送られたものの、それぞれ無事な様子の仲間たちを確認すると、しゃがんでいた有世と共に立ち上がった。

「うーん、まただね。アリセ、びっくりした? 平気?」

「う……――わ」

 平気だと頷きかけた有世の目の前で、緑一色だった生け垣全体に、ぱっと赤と桃の小花が咲き乱れた。有世は言葉にならず驚いた形に口を開いたまま、ニコイチの顔を交互に見るばかりだ。

「……結局びっくりしちゃったね。でも、今のは私もびっくりしたなぁ。やっぱり不安定みたいだね」

「うん。それに規模もだんだん増している気がする」

 有世から世界へと意識の方向を変えると共に、笑顔だったまくろの顔がすうと引き締まる。みくろの声色も、暖かな朝の長閑さから凛とした夜の静寂へ移ったようだ。

 ぱり、と空間がひび割れた音が聞こえた気がして、ここまで似た経験を通ってきた有世にも不安が湧き上がる。

「あ、あのな。おれもここまで来る途中に、下り坂が上り坂になったり、急に道が凹んだりしたけど……それってやっぱり、ここでも珍しいことだったの?」

 不思議な世界の不思議な現象。出くわした時も仲間たちがさらりと乗り越えていたため、ここでは自然なことなのかと気にしないように努めていた有世だが、いよいよ自分の置かれている状況を直視せざるを得ない時が来たらしい。問われたみくろは少し困ったように笑った。

「これが日常だったら、流石に僕たちも落ち着いて過ごせないかな」

「う……」

 安心安全の、有世にとっては非日常の味わい深い世界を楽しみ、のんびり家に帰るだけ。やはりどうも、そういう訳にはいかなかったようだ。

 仲間たちの秘密話から薄々は察していたとはいえ、いざ危険が増している状況と言われれば、心持ちも変わるというものだ。

『きゅー』

「え、あ! きゅるんぱ!」

 声に振り返ると、自慢の脚力で軽々と谷を越えてきたきゅるんぱが、着地と共に丸まり、有世の足元に転がった。

『きゅえききゅー』

「分かった、あそこだね。――僕たちも行こう」

 伝言役きゅるんぱによると、他の皆は待ち合わせのため、上段から繋がる道の先、安定したままの整った大地を目指し進んでいるらしい。みくろに促され、有世たちも追って歩き出す。

 有世は一言断ってから抱き上げたきゅるんぱの毛並みに少し安心してから、出会った時のやり取りを思い返した。

「……きゅるんぱ。森で会った時、この世界は安全だって言ってなかったっけ?」

『ぎゅえ。きゅんきー、けけ、きゅえん』

 敵は居ないとしか言っていない、と訂正され、そういえばそうだったかと、有世は自身の危険の認識を改めた。

「そーだよなぁ……敵なんて居なくても、危険な事ってあるもんな」

 有世が独り言のように呟くと、みくろが細い坂道でさりげなく崖側を歩き、足元が安全な方へ有世を自然に誘導する。押し出される形になったまくろは器用に後ろ歩きで前を行き、有世とみくろとの会話を続けた。

「ここの全ては常に、とても静かに、緩やかに変化しているの。変わらないものは何より脆いから。だけどさっきから、こんな風に大地が大きく動いたり、突然、全く別の花が木に咲いたり……とにかく分かりやすい変化が多いんだ」

「風の噂じゃ、村では普段の数倍タイルが割れて、タイル職人さんも大忙しだったらしいね。それくらいで済めば良いのだけれど……」

 それなら有世にも覚えがある。とても穏やかで温かいあの村でも、秘かに危険が進行中だったとは。

 有世は心と頭を整理するべく、腕のきゅるんぱに語り掛けるように、控えめに声に出した。

「おれには不思議なことが多すぎて、何がいつも通りで何が普通じゃないのかも良く分からないから、ここまで楽しんじゃってたけど……そんな場合じゃなかったんだな」

『きゅ――……きゅうえん』

 きゅるんぱが何か言おうとしたものの、上手く言葉にならない様子で、ぱふりと耳を垂らす。有世は静かに一度、きゅるんぱの頭を撫でた。

 大変な時期に迷い込んだ自分を、皆は助けてくれている。本当に、本当に嬉しいのだが、同時に、全く悪いタイミングで来てしまったなと、有世は居心地の悪さも感じ、小さく俯いたまま前へと進む。

 そんな有世の心の奥まで察したのかは分からないが、まくろが空を眺め、微睡みの声音で言葉を放った。

「せっかくなら、アリセにも危険がない、いつも通りのここをゆっくり紹介したいんだけど……そうはいかないもんねぇ」

 すっかり柔らかな感情を取り戻した表情で、まくろがくるりと回って背後を確認する。そのまま広く平らな右の道へ曲がると、もう一度有世の隣を歩き始めた。

「さて、何か話の途中だったよね。どこまで話していたかな?」

「確か僕らの、歳の話をしていたよ。まくろ」

「そうだったね」

 まくろが思い出して納得すると、みくろが有世に、続きを話しても良いかといった風に目配せをする。有世は頷いて返した。

「僕らの存在するここには、ある一つの魂の『過去から未来』の全てが刻まれている。けれど同時に、この場所には『今』しか存在しない。ここは始まった時、全ての終わりを含んで生まれたんだ」

「…………………………ごめん。さっぱり分からない」

 今回は感覚でも掴み切れず有世が正直に言うと、みくろは、それが当然といった風に優しく受け取り、静かに微笑んだ。

「ふふ、そうだよね。じゃあもう少し、違う角度から話していこうか」

 小さな凹みを越えるべく、先に腕から跳び進んだきゅるんぱに続いて、有世も差し出してくれたみくろの手を取り跳ぶ。最後にまくろがふわりと着地すると、彼女はそのまま歌うように、みくろの言葉を継いだ。

「君の中にはね、いつだって、とてつもなく広い世界と愛が存在しているんだよ」

 軽やかに先頭へ躍り出たまくろが振り向き笑うと、それを受け、どこまでも優しく、温かく聞こえる不思議な音色で、再びみくろが言の葉を紡ぐ。

「君が一人で居ると思っている時でも、君の内側はいつの時も、実はとてもとても賑やかなんだ。生まれた時から――いや、生まれる前から、魂を持つものは皆、常に独りでは存在られない」

 まくろが一度右上を見る。すると今度はバトンを受け取ることなく、彼女はきゅるんぱと共に、曲がりくねったなだらかな坂を駆け上り始めた。

 何かを見つけたのかと有世も同じ方向を確認すると、周辺の大地の最上段で、先に待ち合わせ場所に辿り着いた王子たちが、白い幹の古木の陰で待っているのが見えた。

「ゆっくりでいいよ」

「!」

 自分も駆け出した方が良いのか、と思った有世に、一度止まったまくろが音を運ぶ。隣のみくろを窺えば、彼は変わらずまったり構えている。このまま話を聞きながら行けば良いということなのだろう。

 みくろは合図のように手を振ったまくろに静かな瞬きで返すと、有世の手を優しく握ったまま歩き、話を続けた。

「人は誰しも時折、そんな自分の魂の中にある世界とほんの少しだけ触れ合って、自分が知るはずのない事を知ることがある。予知夢とか、直観とか、そう呼ばれるモノとして現れるそうだね。アリセ、今日までに体験したことは?」

「ないよ、たぶん。……けどそれって本当なの? 物語の中でなら、そんな話があったけど」

 物語と現実を混同し信じられる程、有世はもう幼くはない。そうであれば面白いとは思いながらも懐疑的に見上げる有世に、みくろは、さも簡単な事のように答えた。

「それを体験した人にとっては、本当の事だよ」

 万人に対する回答ではない。肯定でも、否定でもなく、ただ事実がそこにある。そんなみくろの言葉は不思議と、有世の腹にすとんと落ちた。が、落ちそびれ、知らぬ間に引っ掛かっていた言葉も一つ。

「――予知夢……」

 今日までに体験したことはない。では、『今』は? 言葉に押され、有世は引き寄せられるように、世界の真実に触れようと、ついに手を伸ばした。

「…………ねえ、みくろ」

「うん?」

「もしかして……おれも今、夢を見ているだけ? 不可思議な世界に迷い込む――そんな、ありがちな夢を」

 もし本当にそうなら何だか照れくさくて、布団をかぶって、その上なお穴にでも入って隠れてしまいたい。現実逃避から夢に逃げ込むなど、いかにもな物語すぎて、有世としては自分の夢の創造力に物を申したくなる。何より、そんな逃げ方をする自分は悔しくてたまらない。

 そしてもう一つ。ここが夢の中ならば、有世は公園で遊んでいる途中、何かの拍子に突然意識を手放したことになる。今現在、急に倒れた自分の側で、卯月が困り、もしや泣いていたりするのだろうか。それはとても、とてもとても嫌だ。

 次々浮かぶ考えは、どれも人には知られず、内に留めておきたいものばかり。有世が口を開けなくなったまま顔をしかめていると、その全てを見透かし解すように、みくろは目を閉じ、静かに首を横に振った。

「いいや。ここは夢なんかじゃない。確かに存在する『現実』だよ」

「でも、現実じゃああり得ないことばっかり起こってる」

「そう? ……まあでも、そうか。君の日常とは、ちょっと異なる場所だものね」

 一度はきょとん、と首を傾げたみくろだったが、すぐに一人で納得した様子でいつもの笑みに戻る。そして彼は呪いのごとく、尚も難しい顔を続ける有世に、脳が醒める音を伝えた。

「君の知らないモノは存在しない? ……そんなことないよね。そう、ここは常に存在している。君は確かに、今も目覚めて、命を生きている」

 反語に強調され、ぐらついた有世の世界が存在を主張する。『ここ』は『在る』。『今』は『現実』だ。みくろの言葉に反論の余地ならいくらでもあると思っていても、この瞬間だけは感覚に理性が飲み込まれた方が正しいのだと、有世の中に、他の誰でもない自身の声が響き渡る。

「『内に広がる、見えない世界』――」

 聞いたそのものではなく、自分の言葉が纏まり解を成す。その呟きに応じたみくろの言葉が更に、それは間違いではなかったのだと、有世の認識を後押しした。

「その世界に触れるどころか、君みたいに反転して、身体が世界に取り込まれるなんてのは、本当に本当に稀なことだけれど。……まあ、世界が生まれる世界だから、そんなイレギュラーも起こって然るべきだね」

「反、転……?」

 白から黒へ。闇から光へ。そして有世の脳裏に現れたのは、有世が愛する本棚の上に和やかに座る、ぱっとフクロウの姿に変身する魔法使いのリバーシブルぬいぐるみ。

「それじゃあ、ここは」

 ファスナーという扉を開き、くるり裏返し閉じれば、現れるのは、内に隠れていたモノ。その代わりに秘められるのは――今、有世が歩くこの場所は。

「夢じゃなくて……おれの魂の中の世界……!」

 有世は自分の口から出た響きに息を呑み、みくろを見る。正解。そう言ってくれるかと思ったが、彼は物静かに、今までと変わりのない笑みで肯定するだけだった。

「……すごい…………っ、すごいよ!」

 夢のようで、夢ではなかった。人々の想像の中にしか存在しないはずのファンタジーは、現実だった。『すごい』。有世にはそれ以外の言葉は浮かばず、いつもなら知りうる限りの言葉を使いたくて仕方がないのに、まるで言葉にならない感情が込められた『すごい』の一言こそが、今はどんな表現よりも相応しいのだと納得させられる。

 ここはどこなのか。その『謎』という靄が晴れたことで、改めて完全なる未知に置かれた有世は、自身の感情が期待なのか恐怖なのか、はたまた狂喜なのか、それすらも分からず興奮で顔を赤く染めた。

「凄い……んだけど――」

 興奮は冷めやらない。が、一方で冷静な思考も頭の片隅に居座ってくれている。稀の稀と言われた今の状況について確認したい事も同時に生まれ、有世は無理やり気を静めてみくろに一つ一つ問うた。

「今のおれの状況は、良い事? 悪い事?」

「さあ。君次第かな」

「じゃあ、反転したおれの魂は、今どうなってるの?」

「うーん。君が願う場所にでも向かっている所じゃないかな。帰ってみてのお楽しみ、だね」

「もう一つ。反転したおれは、他人からはどう見えるの?」

「見えない、と思うよ。魂は見えるモノでも、触れられるモノでもないから。そこに取り込まれた全ては、不可視の幕で日常の世界から隔絶されるはずだ」

 みくろは凪いだ顔で、するすると有世の疑問を解いていく。きっと彼は、有世がいくら話しかけても面倒だと突き放すことをしないのだろう。隣を歩くみくろの気配は温かく懐かしく、人のそれより雄大な自然を思い出す。

「…………」

「アリセ、どうかした? まだ気になることがあったら、どうぞ」

「え、ああ。とりあえず……大丈夫。また訊きたくなったら訊いても良い?」

「もちろん」

 感じたことのない柔らかい優しさに涙が零れそうになる。彼の厚意に甘え、もう少し深く尋ねたい所だが、質問をするにも頭を整理する時間が欲しい。みくろはそれを受け取り頷くと、ふと思いついた様子で一瞬空を見上げる。

「そういえば、今のアリセの状況を示す言葉も存在したはずなんだけど……何だったっけ。すぽりと抜け落ちてしまったらしい。みんなに聞けば思い出せるかな」

 ね、とみくろが掌で示す。見ればもう道の終わりは近く、地面には待ち合わせの古木の根っこが所々に顔を出している。

 足元にも気を配りながら有世が視線を上げると、不意にこちらを見た王子と、パチリと視線が合った。すると王子は、待ち切れないとばかりに坂を下り始めた。

「有世っ!」

「王子……わぁッ!」

 ぱっと瞳に天の川のきらめきを宿し、心から嬉しそうに動き出した王子だったが、浮き上がった根に足を取られ顔から転びかける。有世は思わず悲鳴を上げ、みくろの手を離し駆け寄ったが、彼女はそのまま乱れた足取りで四歩進みながら、ぎりぎり体勢を整え持ち堪えた。

 そして、有世の目の前にすっくと立った王子は呆然としたまま、ぽつりと呟く。

「……びっくりしたぁ」

 全く、心臓に悪い。有世は「はあぁぁ……」と、長い溜め息と共に背を丸めた。

「こっちの台詞だよぉ……でも、すごかったね。転ばなかった」

 最後の立て直しは文句なく格好良かった。有世が素直に褒めると、王子は照れながらも、きらりと笑った。

「えへへ。平衡感覚は良い方だから」

 有世もつられて笑い、それでも言いたいことも言っておく。

「けど、ちょいちょい思ったけどさ。王子って何か……ヤンチャ? だよね。色々危なっかしいから、気をつけた方が良いよ。きっと」

 普段なら初対面の相手にビシッと言うことなどない有世だが、タメ口で王子と話していると、どうにもスルスル言葉が出て来る。

 注意を受けた王子は、響いているのかいないのか。困り笑いで首筋をさすった。

「ああうん、そうだね。でも……さっきは。きみが来たら、何だか嬉しくなってしまって。心を抑えるのは、どうにも難しい」

 ……そんなに幸せそうに言われたら、もう何も言えない。有世は黙って王子の手を取り、そのまま最後の坂を上り始める。手を引かれた王子は初めこそ驚いた様子だったが、嬉しそうに微笑み、有世の隣を歩いてくれる。

 思い出した有世が振り返って確認すると、みくろは楽し気に、右手で「そのままどうぞ」のジェスチャーをする。有世は照れを隠しながらも小さく頷いて彼に礼をすると、そのまま進み切り、ついに雄大な古木の影を踏んだ。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ