4-進む
転がるウサギに導かれ、有世は帰り道だという水辺に向かい歩を進めていた。森の坂を越えれば、道は多少荒れているものの平坦で歩きやすく、さらに徐々に木が減り見通しが良くなっていった。
「あ、湖見えた。あれだよな」
『きゅん』
高い崖の下に大きな湖が見える。大回りに坂を下って降り切ったら、きっとウサギとはそこでお別れだ。有世は名残惜しさに、思うままにウサギに話しかけた。
「そういやさ、空飛びたいのは分かったけど、泳げるようになりたいとは思わなかったんだ?」
『きゅぎゅう、ぎゅえー。きゅう、きゅけけ?』
「おれ? 一応お化けは克服したいと思ってるよ。……あ、でも、顔に札張られてるアレは……無理っぽい。うん、無理」
つまり有世が怖いのはキョンシーの事なのだが、名前を口にすることすら怖いため、有世はぼかしてウサギに話した。ウサギは察してくれたようで、きゅむきゅむと頷きの声が聞こえる。
「そうだよな、克服するのも嫌なくらい駄目なモノ、誰だってあって良いよな!」
『きゅーおん!』
話しているうちに怖いアレの行進が頭に浮かんだ有世は、ゾクゾクを振り払おうと拳を強く握り、同意を求めればウサギの頼もしい返事。学校にも仲の良い友人は居るが、ウサギと同じくらい阿吽の呼吸で話せる相手となると……――
(何か今の、卯月と居る時の感じに近いかも)
悔しいことに、いつだって真っ先に浮かぶ親しい相手は、今も昔も卯月一人。しかし昔と違うのは、多岐にわたり卯月がぐんぐん成長している点だ。きっとこのままでは、いつか卯月は有世の助けを、有世自身を必要としなくなる。
変化は止まらない。この先も強く凄い自分で居るためには、卯月の頼れる相手で居続けるためにはどうすればいいのか。この世界に来てからは忘れられていた長い悩みの嵐が帰って来る音がする。
「あーあ……」
『きゅ?』
有世がつい漏らした溜め息にウサギが反応してしまった。もう直別れてしまうウサギには心配なんてかけず、何も知られないまま別れたい。有世は笑顔を作ると、
「何でもないよっ。やっぱお別れ寂しいなーって思っただけ」
『……きゅ』
完全な嘘ではない嘘で誤魔化した。
そんな風に話しているうちに坂の終わりが近づく。有世はウサギとの限られた時間に暗いものを持ち込んだことを悔やみながら、それでも帰るために止まらずに進み続ける。
道の角度が変わる。視界が右へ向く。目に飛び込むのは反射した輝き。
「……もう着いちゃったな」
出所不明の光源に照らされた湖は、美しく穏やかな青の光を宿している。どこかで見たこの青は、思い返せば先程有世がくぐった大扉と同じ青だ。
「この湖を渡るのか。でもこれなら、周りの岸をぐるーっと歩いても向こうまで行けるよな」
『きゅえ。きゅうきゅるる』
「え、潜る? んー……できるかな」
泳ぐのと潜るのでは技術が大きく異なるが、とにかくやってみるしかない。有世は潜る前に、感謝をこめウサギを優しく抱きしめた。
「本当に助かったよ。ここまでありがとな」
『きゅ、きゅいきゅえ……』
最後まで見送りたかったと項垂れるウサギをそっと地面に下ろし笑顔を返すと、有世は深呼吸し息を整える。
「行って来ます」
帰るはずが、何故か出がけの言葉を口にしてしまった。ここは「バイバイ」とか「またな」とかの方が適切なはずなのに、不思議とそれが自然だという感覚に満たされる。
湖の浅瀬を一歩一歩進んで行く。優しい波が時折足の甲まで被さるが、潜れるだけの深さにはまだまだ程遠い。
「あれ……? なぁ、本当にここって潜れるの? 歩いても歩いても浅いんだけど」
『きゅえ!? きゅうきゅむ!』
「は?」
ウサギに言われ、有世は慌てて足元を見る。澄んだ水の中には、色とりどりの水晶に似た鉱石が並び、それに負けず劣らず美しい小魚たちが泳ぎ回っている。どうして気づかなかったのだろう。有世が立っているのは浅瀬ではなく……水面だ。
「え、何で? 水ん中に入れないよ!」
しゃがんで両掌で水面を叩く有世だが、波紋は起これどそれだけだ。
『きゅ――んっ!』
ウサギが手近な小石を掴み、湖に投げ入れる。小石はポチャリ、と音を残し、当たり前のように水中へと沈んでいった。それを見るとウサギは、
『きゅ、きゅるん……!』
一瞬固くなった後ブルルッと大きく震えると、ぽてぽて助走をつけ転がり、そのまま苦手なはずの水の中へ飛び込んでしまった。
「わぁ! ウサギ!?」
ウサギは一度大きくジャボン! と完全に沈み、一瞬の間の後、ゆっくりプカリ……と浮き上がって来た。
「何やってるんだよ! 大丈夫か?」
『ぎゅ……きゅん』
有世は大慌てで駆け寄ると、ウサギを持ち上げ水から出した。引き上げられたウサギは何とも言えない顰め面をしていたが、どうやら無事らしい。滴る水が入るのを避けるためか、ウサギが目を薄く開ける。
『きゅるるぎゅえ、きゅう』
「潜れないのはおれだけってことか」
ウサギが水に入ったのは、有世のための確認作業だったということだ。自分のためにウサギが苦手に立ち向かってくれたのだと思うと、それだけで視界が晴れたような感覚になる。
「……ありがと。水ん中怖かったよな」
『ぎゅえ、きゅんきゅきゅきー』
「あ、怖いじゃなくて嫌いだったのか。でも、やっぱりありがとう」
有世は一先ず日当たりの良い陸にウサギを下ろし、ウサギが先程以上に体を震わせブルルルっと水切りするのを見届けてから、もう一度湖の上を駆け回ってみた。だがやはりどこからも潜れそうにない。
有世は諦めて日干し中のウサギの傍へ戻ると、湖面で体育座りをする。見上げた本物の空なのかどうか分からない空は淡く煌めき、この美しさを一人で見るのはもったいないと感じた。
「水の上自由に動けるってのも、すっげー楽しいファンタジーなのにな。もし帰れなかったら……どうなるんだろ」
何時でも好きな時に来て帰れるのなら、こんなにも心躍る場所はないだろう。放課後に友人たちを誘って、毎日でも通いたいくらいだ。しかし迷い込んだだけの有世にとっては、やはり不安を拭えない場所でもある。このまま戻ることができなかったら、そう思うと――
(悲しい、けど……もし戻れなかったら、もう色々悩まなくても良くなるのかも)
戻れず、一生ここに留まり続けることになれば、いつか日常はここでの日々に置き換わり、今までの現実は夢となって消えるのだろうか。そうなれば、今の有世の悩みなど無意味なものとなるはずだ。
(……バカみたいだ。そんな都合の良いこと考えるなんて)
長く吐く息と共に背中を丸め有世が目を閉じていると、腰のあたりをぽすぽすと、軽いがしっかりとしたタッチで叩かれた。このまま思考を真っ黒に塗りつぶして逃げてしまいたかったが、そうもいかないかと有世は徐に頭を上げる。左を向くと、蓮の葉を船にしたウサギが隣に居て、有世と目が合うなりウサギは櫂代わりの枝を掲げ胸を張った。
『きゅるんぱ、きゅるるん、きゅおん!』
「『きゅるんぱの仲間たち』……って、え、他にも何か居るの? それに『きゅるんぱ』って、それウサギの名前?」
『きゅるーん!』
「……はは、おれ、お前の名前も知らずに帰るところだったんだ」
悩みが過った頭と心はまだ固い。それでも今の有世にはやるべきことがあり、今だけだとしても隣には信頼できる味方が居る。
未練がないなら「帰らない」の一択であるはずだ。有世が悩むのは帰りたいからだ。悩みの種で、離れたくて、だけどどうしても切り捨てられない相手が居る。ここに留まればきっと、後悔しか残らない。
そんな風に組み立てられた自分の思考すら本物なのか、ぐちゃぐちゃで、訳が分からない。それでも、止まれない。有世は力強く水面を蹴り、陸に飛び乗った。
『きゅきゅっ、きゅう、きゅん!』
「ああ、さよならはまだ先だな。行こう、きゅるんぱ!」
『きゅおあーん!』
湿気た毛並みも何のその。可愛くも頼もしいウサギ改めきゅるんぱの案を信じ、有世は謎の『仲間たち』に会いに行くことに決めた。