2-世界の境界
一体何が起こったのだろうか。
有世は真っ白な筒のような空間を落下していた。
視界には一切の影もなく、見渡す限り白しか存在しない。それなのに空間には壁を感じ、ここが閉ざされた場であると思わされる。
(やっぱり落ちてる……けど、何か変だ)
果ての見えない空間を落ち続ける有世だが、日頃跳ねたり、ちょっとした段差を飛び降りたりする時よりも落下のスピードが遅いように感じられる。それに底がないのなら地面に叩きつけられる心配もない。現実離れした状況のおかげか、却って冷静さは保っていられるようだ。
「かといって、このままって訳には」
改めて辺りを見回してみたが、やはり変わらず白が続くだけだ。不可思議なこの現状を脱するためには、どうすればいいのだろう。
有世がこのような状況に陥ったきっかけは「タイルを踏んだ」こと。もし本当にあそこから落ちたのならば、上へ行けば外へ出られる可能性があるだろうか。そのためには。
(おれが、飛べれば良い……?)
有世は図書室や自宅で卯月と共に読んだ様々な物語を思い浮かべた。
魔法で自ら飛ぶ者、鳥や龍に乗せてもらう者、力強く羽ばたく翼を持つ者、自然の力を借り宙を舞う者……。思いつく限り挙げるが、今の有世にはどの力もあるはずがない。
せめて風船でもあれば、いや、この状況で風船ひとつでは上へは行けまい。有世はつい浮かんだ役に立たない妄想を頭を振って追い払った。すると――
「えっ!?」
突然下から、大量の蒲公英の綿毛が舞い上がって来た。
「何だよこれ、デカい!」
初めは小さく見えたそれらは、いざ近くまで来ると、一つ一つが有世の身体と大差ない大きさをしていた。丁度、先程一瞬思い浮かべた大きな風船のようなサイズだ。
良い悪いはまだ分からないが、有世がこの空間に投げ出されてから初めて起こった変化である。この綿毛を摑まえてみたら、次の変化が起きはしないだろうか。
有世は小さな期待を胸に手を伸ばした。が、落下中の体は思った以上に自由が利かない。そんな有世の周りを気の利かない綿毛達は次々とすり抜け、上へと追い越していく。
「こんなにっ、あるのにっ! ……ぬぐぅ、えりゃあ!」
有世は全身でもがくように両腕を伸ばし、どうにか近くを登ってゆく綿毛の一つにしがみついた。
綿毛は有世を上昇させるほどの力は持たなかったが、ふわり、ふわりと、落下の速度を先程以上に落とす。
「ふぅ、何とかいけた――あれ?」
有世が綿毛を捕まえた途端、あれほど大量に湧き続けていた綿毛はピタリと止まり、上を見ると有世を追い越したはずの無数の綿毛も跡形もなく消えてしまっていた。
まるで世界が、有世にはこれ以上の綿毛は不要だと言っているようだ。
(これで合ってるってことか?)
誰の指示がある訳でも、解決法を知っているわけでもない。それなのに有世の中で不思議な感覚がキラリと光る。
(何だろう、思ったことが正解……じゃないけど、道標、みたいな)
未知に在る不安はまだ消えない。それでも自身の行動とそれによる変化が、有世の心を少しだけ明るく前向きにしたようだ。
気持ちが解れたことで綿毛を握りしめる両手の力も弱まり、有世は自分が先程まで不必要なほど力んでいたことに気づいた。そして感じるきらめき。
「……もしかして、もっと力抜いても」
大丈夫そう? と自分に確認し、感じたままに握力を緩めていく。最終的には左手のみで、地上でヘリウム風船を持つ時くらいの力まで落としたが、綿毛は身体と一つになったように有世を支え続ける。
「ふわぁ、すげ」
こんなの、御伽噺ではないか。想像の中にしか存在しないと思っていた経験に、有世の頬は思わず熱くなった。自らが空中にあるということを忘れる程の安定感のお陰もあり、不安よりもわくわくが勝り始める。
(物語の冒険者って、こんな気持ちなのかなぁ)
楽しいだけではなく、むしろ多くの苦難や危険があるにも関わらず、自らの世界を広げる旅を続ける開拓者達。フィクションとして、あくまで世界の外の読者の視点では楽しんでいたが、彼らがそれを行う心理などは考えたこともなかった。
有世が帰らないことで家族や友人が心配し、彼らが悲しい気持ちになるのは嫌だ。だが有世は元々鍵っ子で、今日は特に両親の帰りが遅い。卯月もきっと「有世は先に帰っただけ」と思うだろうし、万が一彼女が訪ねて来ても、不機嫌で応対しなかった過去も何度かある。
(まだ六時くらいだったし、少しなら大丈夫だ。うん)
夢のようで現実としか思えない、この不思議な世界をもう少しだけ冒険してみたい。心の底を静かに揺らした波紋は少しずつ波を呼び、今この時だけ、有世を冒険者へとジョブチェンジさせた。
「へへっ、次は何が起こるのかな?」
好奇心から生まれた高揚が、自信と笑みを連れて来る。今なら何だってできそうだとすら思うのは、普段の有世では考えられない感覚だ。この不思議な世界が有世に力を与えているのだろうか。
「きっとここでなら、何が起こっても上手くやれるんだ! よぉ~し……何でも来ーい!」
根拠はないが人生最大と言っても過言ではない程の自信が湧き上がり、有世は右の拳を突き上げ大きな声を出す。
するとまたしても、やはり有世の行動が引き金になったのだろうか。反響した有世の声が収まると共に世界に新たな変化が起こった。
相変わらず落下先に底は存在していないが、まるでガラスの床でもあるかのように、何処からともなく宙を歩く二足歩行のワニが現れた。青いTシャツを着てスポーツキャップを被った黄色いあの姿には見覚えがある。あれは――
「卯月のワニ!」
つい先程卯月の背で揺れていた、忘れたくても忘れられないあのワニと瓜二つである。しかしサイズは比べ物にならない程大きい。不確かな遠近感で正確には測れないが、全長五メートルはあるのではないだろうか。
疑問だらけで視線を逸らせずにいる有世にワニが気付く。ワニはニパッと幸せそうな笑顔を見せると、大きなしっぽを引きずりながら、有世の落下地点へ向かってぽてぽて歩き出した。
(何の笑顔? 何で嬉しそうなんだ? あ、ワニって人、食べるんだっけ……?)
先程までの高揚はどこへやら。思い当たった可能性に急激に背筋が寒くなる。少しでもワニと距離を取りたい有世だが、頼みの綿毛は何をしようが落下以外のコントロールが効かない。
「……や、何でも来いって、言ったけど……」
これまでとは格段に危機感が違う。有世が冷や汗を流し身体を固くすると、有世の真下に到着し立ち止まったワニは徐に上を向き、クワァとその大きな口を開いた。
「わぁ、バカ! ダメダメっ。おれ美味しくないから!」
有世は綿毛に縋りつき半泣きで叫ぶが、ワニはふがふがと不自然に鼻先を揺らすだけだ。
「口閉じろ~!」
落下は止まらない。暗く深い大穴が近づく。
食われる、と思ったその時。
――ゥワックシュン!
「ぶへぇあっ!」
ワニが起こした強烈なくしゃみを至近距離でくらい、すさまじい風圧に有世はたまらず目を閉じる。ゴウ……と台風の日のような風音に呑まれた次の瞬間、有世はどこかへと放り出され、強かに背中を打ちつけた。
「痛てて……おれ、どうなった?」
頭は無事。両手両足支障なし。近くにワニの気配なし。ゆっくり目を開け身体を起こして気付く。痛いのはぶつかる対象があるからだ。
「……床だ」
状況はまだ呑み込めないが、ワニのくしゃみに飛ばされたおかげで、果ての見えない落下を終えることはできたらしい。有世は久方振りとも感じられる床に感動を覚えながら、そっと立ち上がり辺りを見回した。
「立てるのは嬉しいけど、次はまた黒かよ」
飛ばされた先、今有世が立っているのは、長方形の箱の中のような真っ黒な空間だ。しかし、黒ではあるが闇ではない。光源が見当たらないにもかかわらず、有世は自身や周りの様子をはっきりと見ることができるのだから。場面は変わったものの、不思議な世界はまだ続いている。
少し歩き回りながら前後左右を確認するも、有世が飛び込んできたはずの穴などは何処にも見当たらない。おそるおそる不思議な境目にも触れてみたが、ただ壁があるだけだ。一体、ここと先程の白い空間はどう繋がっているのだろうか。
(けどそれって、繋がってなく見えても、どこかに行けるかもしれないってことだよな)
この空間から別のどこかへ行く方法も必ずあるのだろうと思えば、立ち止まらずに済む。ワニの恐怖で冒険者ハイのような熱はすっかり冷めてしまったが、家に帰るためにはどちらにせよ、この世界を攻略しなければならない。
「攻略……。御伽噺ってより、ゲームっぽいのかな」
無意識な思考が、有世に新たな考え方をもたらす。一つのイベントをこなすと、また次の新しいイベントが発生し、物語は先へと進んでいく。今の有世はそんなゲームの主人公のようだとも言えるだろう。
「じゃあ、進むには、イベントのきっかけは……?」
考えるが、有世の手元にあるのはリュック一つ。その中身はティッシュ、ハンカチ、捨て忘れた本屋のレシート……他諸々、どれもイベントを起こせそうなアイテムではないし、唯一この世界で手に入れた綿毛は、飛ばされたときに失くしてしまった。
アイテムがないのなら、次に思いつくイベントを起こす方法はマップ移動だが――
「その移動手段がないんだよなぁ……」
白い空間から飛ばされた時も、自分に何が起こったのかは理解できていない。四方八方を壁に囲まれた場所から出る方法に辿り着くため、一度腰を下ろし胡坐をかき、有世は考える。
「んー……やっぱり壁を掘る、ってか壊す? しかないのかな。でも外どうなってるか分かんないし恐いし大変だしっ! ああもう、ドアくらい付けといてくれよぉ!」
方法は思いつけても、すぐさま実行に移せる訳でもない。壁を壊してここが崩れる、壊した隙間からワニの群れ、嫌な可能性を思いつくだけ行動は鈍る。
有世は頭を抱え「うぁー」と一頻り唸ると、焦燥を誤魔化そうと立ち上がった。じっとしているのも気持ちが悪く、訳もなくその場でくるりと一回転する。
その時、視界に一瞬、黒ではない何かが映った。
「……マジで?」
一呼吸おいて、恐る恐る振り返ると、先程まで何もなかったはずの黒い空間の最奥に、青白く光る一枚の扉が生まれていた。
(おれを……呼んでる……?)
扉と向き合った途端、有世は音にはならない音を扉から感じた。懐かしいような、もの悲しいような、温かいのにどこか切ない気持ちになる、そんな音だ。
何が待っているかは分からない。しかし、ここに居続けたい訳でもない。
「行くしかない、よな?」
不安を潰すように声に出すと、有世は汗ばむ手をグッと握り、扉に向かって駆け出した。