11-ジャンジャカ
何の変哲もない、いわゆる普通の扉で良かった。
有世が三度折り返す階段を下り終えると、狭く短い廊下の突き当りに、体育館のステージ上へと続く秘密の入り口に似た、摺り硝子の窓付きドアが待っていた。
鍵が掛かっていることもなく、ノブを回せばすんなり開いたドアの先は暗い。有世はごくりと身構えてから、目を閉じたまま、全開にしたドアの内側に一気に飛び込んだ。
手を離した扉が軋み、自然と閉まるのを背中で感じる。これでもう振り返れない。振り返らずに済む。
「……あ」
ちゃ……とドアが嵌まる音がすると、それがスイッチといったように、室内がぼんやり橙色に明るくなった。
まず見えたのは年季が入った風合いの木の床と壁。その壁際に積まれた段ボール、三つ並ぶ白っぽい樽、外掃き用の箒、四人で囲むくらいの土鍋、金色ではなさそうなトロンボーン、笑顔のユニコーンらしき小さな石像、それから――
「船、かな」
何枚ものボロ布が掛けられ、露わになっているのは三分の一程だが、小型の漁船かモーターボートか、その辺りだろう。
絶妙に謎な顔ぶれの品々だ。どういった訳でここに集まったのか気になるが、有世は一先ず、進めそうな壁の切れ目の道を通り抜けた。
「ここ、倉庫なのかな……」
抜けた先は、天井まである棚が壁代わりに並ぶ正方形の空間だった。先程壁だと思ったものも、棚の裏側だったようだ。不規則な棚板にはそれぞれに見合ったサイズの雑多な品々が几帳面に納められている。
やはりまだ薄暗い中を目を凝らし見回すと、どうやら有世が通ったものと合わせ、四方に同じように棚の合間に道があるらしい。進むなら、残る三つのどれかだ。有世は空間を時計回りに一周しながら、順に道を確かめることにした。
まず一つ目。覗いた先は大きな板や工具などで雑然としており、暗い中非力な有世が通り抜けるのは難しいように思えた。二つ目の道には分かりやすく、鍵のかかった扉と『keep out』の黄色いテープ。最後の三つ目は道の真ん中に、紫っぽい三角コーンと『ただいま全力改革中』の看板。気にはなるが、同時にちょっと怖い。
どの道もピンと来ず、静けさにも落ち着かなくなり始めた有世は、自分の声で気を整え直した。
「部屋、間違えたのかなぁ。……でもぉ、他に扉なんてなか、っ……た、って」
気晴らしにもう一度ユニコーンの顔でも拝もうと、初めの道を向いた有世だったが、どうもさっきとは漏れる光の様子が違う。空間の切れ目へ急いだ有世は、そこから続く景色に息を呑んだ。
(――違う部屋になってる!)
冷たさは感じない、さらりとした灰白の石の床に切り替わった室内は、相変わらず多くの棚が見えるが、天窓から降り注ぐまろやかな光に照らされ、全ての色彩が優しく見える。悪い場所ではない。有世はそう感じ、全ての警戒を捨て部屋に入った。
かつん、でもとん、でもない。有世はころん、ころんと足音を響かせながら、部屋を真っ直ぐ進む。突き当りの壁まで行くと、有世は辺りを見回し、左後ろに見つけた螺旋階段で次を目指した。
そして、とったとったとリズムを取って下り終えた時、
「うん?」
有世の足音が届いたのだろう。誰かの探るような声が漏れ聞こえた。
有世が声の主を探ろうと壁に挟まれた狭い道を抜けると、二段だけの階段の先には広々とした部屋があった。
「あ……」
そこには三十路絡みの男が居た。さりげないストライプの入ったアイボリーのジャケットと、それに近い色の中折れ帽を合わせ、パウダーピンクの細身のパンツは長い足に良く似合う。淡い淡いブルーのシャツの上では、意表を突いたのか、目立つマゼンタのネクタイが存在を主張している。
一見すると有世の憧れる「格好良い大人」のスタイルのはずなのだが、どこかちぐはぐで、有世は何やら錯視の感覚に陥った。
そんな有世の存在に男は視界の端で気づくと振り返り、「やあ」と軽く右手を上げる。そして気さくな笑みと優雅な足取りでこちらへ歩き出した――のだが、彼は五歩目で足元の木箱に蹴躓き、左手に持っていたカップの紅茶を盛大に跳ね上げた。
「おぅわッ!」
まだ濃い湯気が立つ紅茶を額に浴び、怯んだ男の手からカップが放り出される。
「あ!」
反射的に有世は駆けだしたが、この距離では間に合うはずもない。
パリンッ
……憐れ。美しい細工の緑のティーカップは、床に落下し砕け散った。
「――嗚呼……またやってしまった」
棒立ちになった男は、灰青の前髪から紅茶を滴らせ、深い悲しみを宿した声で静かに呟く。瞳は潤んで今にも泣きだしそうなのは、見えないふりをした方が良いだろうか。そんなことを考え動けない有世に、男がしょんぼり尋ねる。
「……もしかしなくとも、きみ、今の一連を見ていたよね……」
「……………………うん」
とても気まずいが、嘘をついてやり過ごすような状況でもなく、悩んだ末に有世は、たっぷり間を取ってから素直に頷いた。
「うわぁ、そうだよねぇ。分かってるけど、うわあぁ……」
男は頭を抱え、ヨロヨロと割れたカップの手前まで行くと、しゃがみ込んでその破片を指で突いた。
「一切の隙なく、常に華麗でスマートな格好良い自分を目指してどれ程過ぎたか。何時まで経っても、はぁ……ぼくはなんて駄目な奴なんだぁ。その上、目撃者のきみ……もう駄目だ。折れた。ハートがバッキバキに折れた」
男は流れるように芝居がかった台詞を言い終えると、この世の終わりのような表情でクタリと倒れこんでしまった。
「あの、大丈夫……ですか?」
流木のように固まったまま動かない男に、有世が恐る恐る声をかけると、
「それが大丈夫なんだな」
彼は何事もなかったようにすくっと立ち上がった。が――
「ホントに大丈夫なの? お兄さん、泣いてるけど……」
今度は何故だか見過ごすことができず、有世がつい尋ねると、男は自分が泣いていたことに驚いたらしく、目元を触り一瞬固まる。
「…………まあ、全くノーダメージとはいかないけれど……グスッ、それでも一応、大丈夫ということで」
「はあ」
大丈夫と言いつつ、涙が治まるどころか鼻まで啜り始めた。
どうしたもんかと有世が見上げていると、男は右袖で両目を押さえながらも、左手で有世に椅子を示す。どうぞ座って、ということらしい。
話ができる状態ではなさそうかと、有世は勧められるまま一度、ベージュのキャンパス生地の座面に座った。
確か、ディレクターズチェアだったかな、などと有世が思っていると、落ち着いたらしい男は、色違いの椅子をもう一脚開き、有世の斜向かいに腰を下ろす。そして隣の台に乗った箱から引き抜いたティッシュで目、鼻と軽く抑えた後、まだ少し鼻声のまま喋りだした。
「実はね少年。ぼくのハートはこれまで何度も折れて、折れて、折れまくって、すでに折り目だらけでシワクチャなんだ。だからこの程度の事なら、折れたところで何の問題にもならないのさ」
「そう、なんだ」
青い生地の椅子に座る男は膝の埃を払い、零れてしまった最後の涙を拭うと、少し頼りないがどこか頼もしい矛盾した笑顔を、戸惑う有世に向けた。
「もっと言うと、折り目どころじゃないんだよ。今はもう砕けてバラバラになったモノを、この胸にハートとして詰めているような感じ、かな?」
男は説明しながらカップの元へ戻ると、どこからか取り出した小さな箒と塵取りで割れた破片を集め、その残骸を、楽しい夢を想起させる色合いのカラフルな巾着に仕舞った。
「そんなハートの中身は、時々多大なショックなんかでうっかり溢しては拾い直すから、拾いそびれたモノも、間違って拾ったモノもあるだろう。だから、溢して拾う度にぼくは変化していると言っても良いな、うん」
男が閉じた巾着をくるりと回す。何故か破片がぶつかるカチャカチャという音がしない。聞こえるのは僅かに布が擦れる音だけだ。
「……それって、つまりどういうこと?」
話の内容と巾着への疑問が混ざって思考が絡み、ようやくそれだけを聞いた有世に男は、
「砕けたハートは案外強い! ……ということさ」
と答え、先程の落ち込んだ姿を振り払うように、ふふんと誇らしげに笑った。
風変りであるが悪い人ではなさそうだ。そう感じて力が抜けた有世は、自分がここで何をすべきだったかを思い出した。周りを見渡しても他には誰も見当たらない。『独特』、『彼』という特徴も当てはまるだろう。
「あ、あの!」
「何かな?」
「おれ、王子に――じゃないや。ええと、『ミルキィ』? に言われて……帰り道が分からなくて、送ってもらう途中で、『ジャンジャカ』に案内してもらうように言われたんだけど……お兄さんがそう?」
これまで出会った誰とも異なる、話しやすいが鏡に独り言を言っているような感覚に戸惑いながらも尋ねた有世に、男はそこそこ慣れた手つきで程々に格好良く、人差し指で帽子のつばを上げてみせた。
「まさしくその通り! ぼくがジャンジャカだ。よろしくな、有世少年」
そしておまけにウインクを一つ。思いの外綺麗な片目閉じだった。
褒めれば良いのか突っ込めば良いのか。有世は面倒になって、何にも触れず話を次に進めた。
「やっぱりジャンジャカも、おれが『有世』って分かるんだ」
「あーいや、分かるというか……」
自然に話を流してみたが、ジャンジャカにとっても一々気にして欲しい動作ではなかったようだ。あれが素なら、ちょっと見ていて面白い。そんなことを考える有世に、ジャンジャカは照れ笑いで種明かしをした。
「『有世少年が来た!』と鳥たちが嬉し気に鳴いていたから、見かけないきみの事かと。封鎖されたここに入って来られた訳だしね」
「封鎖……もしかしてジャンジャカ、本当に閉じ込められてた?」
「え? ああ。少し前から、戸も窓も何もかも凍り付いたように開かなくなってしまって。きみが来たという噂がなければ、もういっそ、スコップで穴でも掘るしかないと思っていたくらいだよ」
「そ、そうなんだ……」
まくろの推測は当たっていたらしい。いざ困らせた本人を前にすると、有世は流石に少し気まずくなり、半端な咳払いで誤魔化した。
「んンッ……それで、鳥って? ここで飼ってるの? どんな鳥?」
「いやいや、飼ってなどいないさ。あっちの方にある窓から、時々彼らの声が聞こえるんだよ。ここまで来る途中で見なかったかな。畑を耕す鳥達を」
そんな特徴を示されれば、鳥違いということもないだろう。有世はもうすでに懐かしい景色を浮かべ頷いた。
「うん、居た。村の畑でみんなで仲良く、でっかい木みたいなブロッコリーを育ててた」
自然に顔をほころばせた有世に、ジャンジャカもつられて笑い、うんうん、その鳥、と相槌を打つ。
「彼らは本当は、色々なモノを育てるのが上手いんだ。放っておいたら大好物のブロッコリーしか育てないけれど、頼めばぼくらが必要なモノも育ててくれる、頼りになる鳥達だよ」
「へえぇ……」
感心する有世からジャンジャカは少し顔を逸らし、カップの破片をしまった巾着を目の前で軽く振ると、覚え書き代わりのように口にする。
「今はきみを送るのが優先だが、後で、割ってしまったカップも育て直してもらわなければね……」
「カップの育て直しって……今の話の流れだと、鳥に頼むんだよな?」
「ああ」
鳥に頼む必要なモノというのは、野菜果物、草花辺りと思っていたが、全く予想外だ。有世は妙な動悸と共にわくわく尋ねた。
「ど、どう育てるの?」
「きみ……本気で聞いているのか?」
ジャンジャカは有世の言葉に、驚きを通り越した真顔で向き合う。そんな反応で返されると思っていなかった有世もまた、ジャンジャカと鏡写しの顔で固まった。
「当然、この欠片を植えて水をやれば、いずれ木にカップが成るに決まっているだろう。……ああ、あまりのんびりもしていられないのか。そろそろ行くぞ、有世少年」
「え、あっ、待ってよジャンジャカっ!」
本気か冗談か分からずポカンとする有世を取り残し、壁に掛かった色紙の束が、上から一枚ぺろりと捲れ落ちるのを見たジャンジャカは、話を切り上げさっさと歩き出してしまう。長い脚でつかつか歩くジャンジャカの後を、出遅れた有世は小走りで追いかけた。
「ジャンジャカっ、速いよ!」
「っと。悪いな有世少年。ぼかぁどうにもせっかちなもんで」
言われて気づいたといった風に、ジャンジャカが歩幅を狭めて速度を落とす。
「あのな。別におれ、追うのが大変だとか、そんなことないから。ずっと小走りでも良いんだけどさ」
「ん? じゃあどうして『速い』なんて言った?」
「え……?」
確かにそうだ。あのくらいの速度なら走りっぱなしでも構わなかった。
「そ……れはぁ~」
問われたら、頭が勝手に理由を見つけてしまった。『身長差(というより実際は足の長さの差)に悔しくなったから』……なんて馬鹿らしい。言えるはずがない。けど、
「……おれだってなぁ。大人になったら、小走りにならなくても、ジャンジャカと並んで颯爽と歩けるんだよ。けどまだ子どもなんだから、速いもん速いって言って悪いかよ」
「ああ~! 成程なるほど! はははッ、分かったわかった」
「何か、馬鹿にしてる?」
「してないさ。そんな時期もあるよなー、って思っただけだよ」
「むぅ」
見透かされている、とは違う。読まれている、でもない。そう、ただ『知られている』。ジャンジャカに感じるのはそんな印象だ。
速すぎず、遅すぎず。程良いペースを見つけたジャンジャカと並んで有世も歩く。
何も言わず姿勢良く前を見つめるジャンジャカを見上げた有世は、ふと彼のジャケットに縫い跡を見つけた。さらに観察してみれば、ズボンや帽子も年季が入り所々擦り切れ破れ、そこを何とか閉じるように、絶妙なパッチワークの継ぎ接ぎが存在していた。お洒落なのか無頓着なのか、よく分からない人物だ。
食い入るように服を見る有世の視線に気づくと、ジャンジャカは焦らず呑気な声で尋ねる。
「あれ、もしかしてどこか破れてる?」
「いや、全部絶妙に塞がってるけど……でも、他の服もいっぱいあるじゃん」
着ているからには思い入れがあるのだろうと分かっていたのに、有世はつい、丁度近くにあった開け放しのクローゼットを指し示した。そこには多様な服が掛けられており、更にここに来る前に見た棚にも、何か所かに服が置かれていたはずだ。
その指摘に、ジャンジャカは気を悪くすることもなく、ただ幸せに微笑んだ。
「これはぼくにとって、大事なことを忘れないためのお守りだから。……ああ。さっきの紅茶のシミも、また勲章だな」
「……ジャンジャカの大事なことって?」
右袖についた紅茶の跡を見ていたジャンジャカは、一つ大きく呼吸を挟んで、有世の顔を見る。
「『今のぼくは、全ての過去の先にしか成り立たない』」
それだけ告げると、ジャンジャカは再び前を向いて口を閉ざす。しばらく無言のままだったが、扉まで辿り着くと、そんな無音の時間などなかったかのように、ジャンジャカは自然に有世に話しかけた。
「隣の部屋を抜けて行くよ」
ジャンジャカが、様々な鉱石を集め固めたような美しい閂を外し、それとは対照的に飾り気の全くない、白一色の大きな戸を押し開ける。
「ここは?」
「ぼくの趣味部屋さ」
戸を抜けても雰囲気は変わらないが、数段に分かれた、先程の部屋より遥かに広い室内には、大小様々な舞台セットのようなオブジェが点在していた。
「すげぇ……美術館みたい」
「な。どれもなかなか美しい『舞台』だろう?」
崩れかけた遺跡と夏の夜の舞台。秋を感じる校庭の片隅の舞台。南国の海に雪が降る絵が飾られた舞台。そしてひと際大きな、緑と木漏れ日が美しい山道の舞台――……
どれもこれも作りかけのようにも完成にも思える舞台たちは、ここから見えた以外にもまだまだありそうだ。
「ぼくはいつもここで『舞台』を組み立てながら、垣間見た世界たちに思いを馳せるんだ。『彼ら』はいつだって、ぼくに新しい気付きを届けてくれる」
ただどこまでも楽しそうに、そしてどこか誇らしそうに、ジャンジャカが舞台たちへの愛を語る。その喜びは、きっと有世はまだ経験したことのないものだ。それでも何故か彼の幸福が、共鳴するように有世にも届く。まるで、有世自身の幸福であるように。
「あ、倉庫のモノたちって、ここに飾るために……?」
「お、あそこ通って来たのか。ふふっ、良い顔ぶれだっただろ」
これだけ多様な舞台があるのならば、統一感のないあの倉庫のメンバーにも納得がいく。分かればさらに面白くなり、有世は改めて、ジャンジャカの愛する舞台たちを鑑賞した。すると、
「……影が変」
舞台上のいくつかのオブジェの影が、明らかに元の物体の形と異なっていた。思いついて確認すれば、ぼんやりとした有世とジャンジャカの影も、不自然に捻じ曲がって見える。
「ああ、この部屋の照明は、ちょっと特別なんだよ」
ジャンジャカが取調室の刑事のごとく、カッ! と近くの照明の角度を変え、自分たちを真っ直ぐ照らす。見た目の強烈さと異なり浴びても眩しくない光に包まれ濃くなった二人の影は、先程よりもさらにはっきりと歪んだ。
「心やその欠片なんかが照らされるとな、その中身が影として現れる。ぼくらのこれは……くぅッ! ……未熟者の証だッ!」
「あの舞台も誰かの心ってことかよ」
「いや、未熟なぼくが組み上げたもんだから、あんな影になってしまって……」
膝に手を突き、項垂れ首を振ったジャンジャカは、しかし笑って顔を上げた。
「けれどね、ぼくらの影が完全な形になることは、まずないと思った方が良い。人は、完璧になれないからこそ生きているという。その中で、少しでもマシな影を目指して進むんだ」
「完璧……目指さなくて良いの?」
驚き呼吸が浅くなり、かすれた声になった有世に、ジャンジャカはからりと返す。
「良いんだよ。でも、向上は忘れてはいけない。ぼくらと異なり、きみはせっかく、生きているのだから」
「……そっか、完璧にはなれなくても、改善ならできるもんな」
「そういうこと。きみの経験は全て、きみを良くするきっかけになる。だからこの先は一つ一つのイベントを目一杯、楽しむと良い」
「ふふ、イベントって、楽しくないのもあるけどね」
ゲームのような例え方だな、と軽く笑った有世だったが、ジャンジャカは本気で残念がった。
「はぁああ~……勿体ない事言うなよなぁ、有世少年。心は闇、魂は光。陰陽どちらも抱えていられるから、生きている間はあれこれ起こってそれが楽しい! ……らしいのに」
「らしい、って……」
力強さと内容の曖昧さのズレが可笑しいが、ジャンジャカは至って真剣だ。有世は突っ込みながらも、彼の話を聞くのが楽しくなってきた。ジャンジャカもそれを察したかのように一笑いしてから続ける。
「仕方がないだろう。ぼくらは生き物とは少し違うから、断定はできないのさ。きみが経験して、いつかそれが合っていたかどうか、ぼくに教えてくれよ」
「またここに来て?」
「いやいや。きみがいつ、どこに居ようが、目を閉じてぼくを想って考えてくれれば。それで十分届く。……ああ、楽しみだな」
ジャンジャカが機嫌よく、小気味良いリズムで狭い階段を下る。有世もそれに合うリズムを見つけ、彼の後に続いた。
「下は今ちょっと散らかっていて。悪いけど足元気をつけてくれ」
「うん」
――ゴトン、ゴン、ジャラバシャジャーッ……
「……あ」
振り返り有世に注意を促したばかりのジャンジャカは、前を向き直った途端、自らうっかり円柱型の物入れを蹴飛ばした。入っていた細かい品々が豪快に床に広がるのを、二人は棒立ちで黙って見つめる。
「…………うん。ずばりこんなことになるからね。くれぐれも、気をつけてくれたまえ……」
「……はぁい」
あからさまにテンションが下がっても、ジャンジャカはぶんぶん首を振ってそれを飛ばし、改めて前へと進み始める。彼に倣ってビーズや色砂、小さな歯車などを飛び越え進みながら、有世はジャンジャカの背中に投げかけた。
「…………ねえ。さっきの話だけど……ハートのこと」
「うん」
散らばった品々が、砕けたハートの中身を想起させる。有世はジャンジャカの隣に並び直して、彼の顔を見た。
「折れたハートが砕けた時って、やっぱり凄く苦しかった?」
折れる、砕ける。これは彼の傷に関わる話だろうと恐る恐る聞いた有世だったが、当のジャンジャカは、昨日の朝食を思い出すような気軽さで考え答えた。
「そうだなー……どちらかといえば、ヒビが入り始めた頃が一番苦しかったかな? まだ何も分からずに、死に物狂いで、傷一つ無い綺麗なハートを保とうとしていたから」
ジャンジャカがどこか遠くへ思いを馳せ、世界を慈しむように目を伏せる。
「そんなこと、無理に決まっていたのにね。けれどあの頃は。いつだって他人の視線が気になって、自分の少しの失敗も許せなくて」
分かる気がする。有世は彼の作った間に、小さく相槌を打つ。
「それから、自分の格好悪い面ばかりを見つけては勝手に傷ついて――あ、今もそこはまだ変われなくて、起き上がれなくなることもあるけど、でも」
ジャンジャカは不意に立ち止まり、一歩先で振り向いた有世と優しい目を合わせた。
「何度も粉々に砕けているうちに見えてきたんだよ。『確かに進んでいる自分』が」
決して力強い眼差しではない。それでも確かな希望が宿る瞳で、ジャンジャカは立ち続けている。有世は生まれて初めて、格好良いと感じる大人の姿を見たような気がした。
しかしすぐ、そんな有世の悟りなど気のせいだったと言わんばかりに、ジャンジャカが盛大に悔し気に表情を崩した。
「まあ、まだまだ目標には、程遠いのだけどッ。……ぐえぁあッ!」
思い出した何かを耐えるように、ジャンジャカは両拳を握って歯を食いしばり、目をこれでもかという程ぎゅっと瞑って唸る。格好良い大人というものは、一筋縄ではいかないらしい。何故か有世はそんな風に捉え、彼に幻滅することはなかった。
「ははっ、何でだろ。大人の苦しい話聞くのは嫌なのに、ジャンジャカの話なら聴いてても良いかなって気になる。身体に馴染むっていうか――」
声をかけられたジャンジャカは、途端にけろりと肩の力を抜く。
「そりゃあそうだろうさ。ここの存在の中で、ぼくがきみに一番近い」
「近い? ……けどジャンジャカ、父さんとは全然似てないけどなあ」
自身に近い男性と言われ、真っ先に思いつくのは父親だが、どうもジャンジャカがその欠片だとは思えない。他に男性は、祖父、教師、クラスメイト――どんどん離れていく。元が男とは限らないのだろうか。
すると悩みの袋小路にはまった有世の思考を払うかのように、ジャンジャカが雑に手で払う動作をした。
「そりゃあ似てないだろうさ。きみ、自分が父親と似ているなんて、思ったことないだろう?」
「ないけど、え、じゃあジャンジャカの元って、誰?」
まるで無関係な質問を挟まれ有世は混乱するが、一拍置けば無関係ではない気がしてくる。戸惑う有世の心臓を、ジャンジャカが指さした。
「きみの心を揺らすのは、何も外のモノだけではないだろ。誰よりも近くで、日々きみと共に在るモノ。ぼくはその欠片だよ」
「は…………」
無関係じゃなかった。関係大アリではないか!
「うあッ! ジャンジャカって、おれの心なのかあぁ……」
「何だ、露骨に嫌そうな顔しやがって」
「だってさぁ。もっとこう、何か……分かりやすく良い感じの方が良いじゃんかよ」
「曖昧だな……そんなだから、ぼくみたいなのを生んだんじゃないのか?」
「うううん、そう言われたら……おれのせい、なのか?」
言い返せなくなった有世は無駄なプライドで、何とか別の突けそうなネタを探し出した。
「で、でもっ。それにしてもさ。近いのにおれの事、鳥が言わなきゃ分からなかったんだな」
「近いからこそだよ。自分程分からないものはないだろう。心はいつだって闇に覆われていて、明確な意思を持って魂で照らさなければ手探りだ」
「あ、さっきのって、そういう意味だったんだ」
思いがけず気になっていた言葉の真意に触れたことで、有世は微妙な悔しさが生んだトンガリを引っ込めた。
「でも何で、人はわざわざ闇も持ってるんだろ。心も光なら良いのに」
闇は怖い。味方の印象がない。そんなものを一生抱えているというのは、できることならお断りしたい。そんな風に沈んだ有世に、ジャンジャカは呆れ半分、真面目半分に指摘した。
「きみなあ。心も光だったら。人の内面全て丸見えって事だぞ? きみは隠したいことも隠せず、相手の隠し事も筒抜けだ。そんな世界、気持ち悪いに決まってるだろう」
「……た、確かに」
給食のほうれん草を喉にひっかけて内心慌てたのを、誰にもバレずに飲み込んだこと。劇で、本当は一番人気のカワウソ役をやりたかったけれど、格好つけて譲ってワニの組に入ったこと……大したことでなくても、あまり人には知られたくない思い出は山と出てくる。それはきっと、周りの人間も同じだ。有世は生まれて初めて、闇に心から感謝した。
多大な衝撃を受けた顔で神妙に肯定した有世に、ジャンジャカも大仰に頷いて見せる。
「そう、きみにはもちろん、思い当る節が多くあるだろう。だから心は闇で良いんだよ。自分が見たい時にだけ、魂で照らして見られるように」
「うん。闇、すげえ大事だな」
「そしてきみは今。そんな心を上手く照らせずに、何か悩んでいるのだろう? じゃなきゃ、ここに来たりはしないもんな。ほれ、無事帰るためにも、このジャンジャカお兄さんにとっとと話してみなさい」
「えぇ~、良いよもう。さっきも散々みんなと色々話したから」
有世の雑な返しに、拍子抜けといった風に、ジャンジャカがやや色素の薄い黒目をぱちくりさせる。
「……そうなの? え、じゃあ……ぼくの役割って……何?」
ジャンジャカが言葉を失ったまま、それでもやるべきことはやろうと、階段前の転落防止策柵の鍵を開ける。下った先で、新しく目に飛び込む舞台たちを鑑賞しながら、有世はそっと、悩むジャンジャカに本心を告げた。
「……けどなんか、ジャンジャカと話して安心した」
「何が?」
有世が知りたかった事。それはジャンジャカが、身体を張って伝えてくれた。
「大人も案外、失敗だらけなのかもなって。人と違うって言っても、ジャンジャカだって大人ではあるんでしょ?」
その『失敗だらけの大人』の元が自分なのは口惜しいが、そんな自分でも大丈夫だという希望もそこに見た気がして、有世にはそれが嬉しかった。
褒められたような貶されたような。それでも自分も役に立てたのだと、ジャンジャカは首を掻きながら、ぎこちなく笑ってみせた。
「まあ、大人といっても、ぼくもまだまだ序の口なのだけどね。学びには、人生は百遍あっても足りない」
ぼやきながらも楽し気なジャンジャカの気配に、有世の心が照らされる。今なら声にできる。自分になら、聞かれても良いかもしれない。
「おれ、ずっと怖かったんだよ。自分は大人になって、ちゃんとやってけるのかなって」
「お、おう」
さらりと話し出した有世に、先程断られたばかりのジャンジャカは少し驚いた様子で、それでも茶々を入れることなく彼の話を聞く。
「たまたま上手くいって褒められることが多いけど、自分では何で上手くできたのか分からないし、おれ、ホントはそんな『できる子』なんかじゃないはずなのにそう思われるから。いっつも失敗しないようにって、びくびくしてるの隠してたんだ、きっと」
闇で覆い隠していた想い。認めたくなくて、自身にすら気づかれないように、有世は意図して照らさず逃げてきた。それでも想いは隠れているだけ。見えないモノは、存在しない訳ではないのだ。
「今年なんて。年を取って、学年が上がって、中学年って言われるようになって。でも、おれは去年と劇的に何かが変わった感覚なんてなくて。だって、おれはずっと『おれ』でしょ?」
「ああ、そうだな」
有世のリズムが崩れないように、ジャンジャカがぴたりと合の手を入れた。その気づく必要はない見事なアシストに、ちゃんと気づくことなく、有世は話し続ける。
「だけどきっと、少しずつ大人に近づいてるのも本当で。なのに自信はどんどん減っていって。親にも先生にも友達にも、ホントは『できない子』なんだってバレるのが怖くて、でも、出来ない子だって思ってもらえたら楽になるのかなー……って気もして。ただの『できる子』だったら良かったのに」
「……ほうほう?」
「おれはどんどん綱渡りしてるみたいな気持ちになってきて。でも、周りはいっつも自信満々に見えて、楽しそうで。苦手があったってへっちゃら! みたいな奴まで居るんだぜ? あれ、すげぇ羨ましい」
「うーん、それはそうだ」
「卯月にはね、もう全部打ち明けても良い気がしたんだ。おれがダメダメって事。その方がきっと、ずっと一緒に居られるから。でも、他の人の前でいきなり『おれ、できない子です』なんて言えるはずないじゃん。実際、今はまだできちゃってる訳だから、先生とか親とか、面倒なこといっぱい言ってくるに決まってる」
「はあぁー……な、成程?」
「駄目になって楽しようとかは思ってないよ? 成長はしたいもん。でも、何でもかんでも完璧ってのは幻想だって知れたから……さ。こう、ね?」
「…………う、んん」
「さっきは『もう良い』なんて言っちゃったけど、これが今のおれの悩み事。ねえジャンジャカ、どうすればいいと思う?」
ここまで気づいてしまったのだ。厚意に甘え、スッキリ解決してしまおう。それが無事の帰宅にも繋がるはずだ。そう信じ全てをさらした有世に、しかし返された反応は。
「あ~、うん。話せと言っといてあれだけどさ……きみ。まさか、その歳でそんな風に悩んでるとは……何だか難しいな。途中から聴いてて分からなくなった」
「は……」
ジャンジャカは目を閉じ静かに首を横に振り、終いにはお手上げのポーズまでしてみせる。有世は一拍出遅れてから叫んだ。
「嘘だろぉ! おれの欠片なら、このビミョーな感じ、分かってくれないと!」
確かに一気に話し過ぎたし、有世自身綺麗に話せたとは思ってもいない。それでもまさか自身の欠片に、欠片も伝わらないなんてっ! そんなショックで声量を上げた有世とは対照的に、ジャンジャカはそよ風の軽さでさらりと弁明する。
「ぼくもあくまで欠片だからな。きみの全てが理解できる訳じゃあないんだぞ。だから、『ね?』とか言われても……もうちょい分かりやすく要約してくれよ。こう、比喩とか使ってさ」
何だか余計ややこしくなりそうなお題まで出された。それでも有世は、コイツに分からせてやろうという意地で頭の中身を総動員させる。
「ああもう、うぅ~ん。何て言えば良いのかな。こう、ずっと『できる子』っていうでっかい丸太を抱えて、引き摺りながら歩いてる感じ? 手放せば楽になるって分かってるのに、怖くて手放せない」
有世が語彙をフル稼働して伝えると、それに対しジャンジャカは、有世が思ってもみなかった感想を告げた。
「お、良いねその言葉。『でっかい丸太』かぁ……ちょっとメモさせてくれ」
「メモ取る程?」
解決の手助けそっちのけに、ジャンジャカは内ポケットから紙の束を出し、そこに深い緑のインクのペンでさらさらと文字を綴る。有世も有世で、褒められた嬉しさでつい新しい流れに乗ってしまった。
「好みだと感じた言葉は書き残したくなるんだよ。紙に好きな色の手書きでまとめておくと見返しやすいし、見てると何だか落ち着くんだ」
「え、ジャンジャカも⁉」
「もちろん。同志だとも」
初めて出会った同じ趣味の相手――当然といえば当然なのだが――に、有世はすっかり上機嫌になる。あくまでもメモ、なのだろう。有世が回り込んで覗いたノートには、個性的な文字が跳ね躍っていた。有世は知っている。これは後程、お気に入りのノートに清書されるということを。
「君ももう、メモを溜め始めているのかな?」
「うん。喋ってる人の言葉はまだメモったことないけど。好きだなって思った文とか、台詞とか、あと歌詞」
「ああ、良いよね歌詞。惹かれる範囲は狭いのだけど」
「わは、やっぱり一緒だ」
楽しい。自分の好きを、誰かと共有できるこの感覚。その相手が自分の欠片とはいえ、自身が何に喜びを感じるのかを改めて知るためには、有世には申し分のないひと時だった。
「あ……」
たった一度の心からの笑顔が、拗れた悩みをあっさり紐解いてゆく。
怯えて、苦しんで、できるフリを続けても、有世は何も楽しくない。心地良い好きの話は、今はまだ、きっと卯月が聞いてくれるだけ。それでも一人は居る。そして、有世には長い長い『この先』がある。そこで待っている『誰か』に出会うまで、自分にはこの丸太は必要なのだろうか。
「やあ、急に顔がすっきりしたじゃないか。悩み、解決した?」
分からないと言いつつ、やっぱり分かっているのではないか。タイミングばっちりなジャンジャカに、有世は片眉を下げて返した。
「ジャンジャカ、もしかして。おれが自分で答えを出せるように……誘導してくれた?」
「……さて、それはどうかな?」
少しの間を挟んで、ジャンジャカが秘密めかして微笑む。本当にそうだったのか、偶々そうなったのを自分の手柄にしたのか、有世には分からない。それはきっとどっちでも良い事なのだろう。これも闇の美しさだと有世も笑う。
「ちゃんと分かった。丸太はもういらない。褒められても貶されても、おれはおれなんだし、できない事があるのも当たり前なんだから、いちいちしょんぼりがっかりしないで、楽しく成長して、ちょっとずつでも進んでく。今決めた」
いきなりは変われないだろう。それでも今道を定めれば、変化した自分に向かっては行ける。有世は胸を張って、ジャンジャカの言葉を待った。
「ふっふっふ……残念だったな、有世少年」
「?」
何故ここで不敵に笑う。お前はどこの悪役だ、と怪訝な顔で見つめる有世に、ジャンジャカは久々の芝居がかった動作で言い放った。
「きみの決意は素晴らしい。ブラボーだ。心から応援しよう! ……だが、きみは向上心逞しいが故、一生しょんぼりとがっかりから逃れられずに成長し続ける人間だ。証拠は……このぼく」
中途半端に否定された。しかも、そんなに悪い話でもない。
「……成長できるなら良いかな。多少、しょんぼりがっかりでも頑張れる」
「ははっ、そうか」
ジャンジャカが、知らぬ間にずれていた帽子をかぶり直す。毛先よりも根本の色が濃かった髪が揺れた。
「ま、精一杯のたうち回ることになっても、肩の力を抜いてやるんだな。根詰めて頑張っても、きみの場合は良い事ゼロだから」
「難しい事言うなよ……ってかおれ、頑張ってもゼロなの?」
「頑張った事に関してはゼロだな。そんな過去も未来に光をもたらすが……実は、頑張らない時に限って合図をくれるのが光なのさ。必死になりすぎてると見逃すぞー?」
「う、ん。分かった」
どこか冗談めかしたジャンジャカだったが、不自然に頷いた有世に、ふむ、と顎に手をやり考える。
「なぁ、きみ。『今決めた』とか格好良く言い切っておいて、本当はまだ丸太捨てるの怖いし、自信ないんだろ」
「せっ! そんなこと――」
「いやいや、バレバレだから」
焦って出だし一文字から噛んだ有世は、ジャンジャカにバッサリ切られて、ぐうと唸る。全部は分からないと言うくせに、ここぞという所は見逃してくれない。自身の欠片とは、半端に面倒な相手だ。
「仕方がない。これでもぼくはきみの先達な訳だから。きみがこの先進みやすくなるように、少しばかしは力になろうじゃあないか」
自信満々な態度でジャンジャカが機嫌よく宣言する。何だか胡散臭い話が始まりそうだと、やや小馬鹿にして待った有世だったが、それを裏切り、彼はとても真摯に話し始めた。
「言葉と本心が噛み合ったとき、それは現実になり幸福を引き寄せる。自分は何を望んで何を望んでいないのか。そこに刻まれた望みは、本当は誰のものなのか。他の誰でもないきみ自身が見極めなければ、何時まで経ってもまやかしの不幸に縛られ続ける」
「まやかし…………」
「ああ。きみが自身の心を、隅々まで照らし歩いて認めない限り、本当の出会いも切っ掛けも訪れないだろう。苦しくても知らなければね。誰よりも共に在り続ける、自分自身を」
そこまで話すとジャンジャカはふう、と一息つき、よっぽど彼らしい言葉で結んだ。
「まあ、ざっくり言うと……『人生には、もう決めたことについて悩むフリする暇はねェぞ!』……ってことだね。それこそ命の浪費だ」
「うッ……」
痛いところを突かれ、有世は腹を引く。
そんな有世を見て、ジャンジャカはさも愉快そうに笑った。
「ま、今はそんなモンさ。本当に本当の自分を知るには、とてもとても長い時間が必要になるから。『分かった』と『気がしただけだった』を何度も繰り返すことになるだろう。……でも、大丈夫。きみはやり遂げる」
「何を?」
「きみの願う、きみだけの何かを」
音であって、異なるモノ。ジャンジャカの言葉が、初めて感じる清涼な波となって有世に染み渡る。
「きみの心は、とっくに決まっているんだろう? 悩むフリをして、投げ捨てた丸太をわざわざ取りに戻って引き摺る暇があるのなら、さっさと当たって砕けてみると良い。砕けたらまた、拾い集めて詰め直せば良いのだから。それが、ハートさ」
美しい光だ。歪んだ影さえ彩りに思える。
有世はジャンジャカに、未来の自分の生き様を見た気がした。
「……え、あ! うわわわっ、わ、わぁあ!」
悟りの境地も刹那。突如床が激しく波打ち、重力を無視した動きで、床へ、壁へ、天井へとモノが飛び交う。有世は顔面に向かってきた段ボール製の花瓶をすれすれで躱すと、続いて足元に生まれた大きな亀裂を、傾いた姿勢で何とか跳ね越えた。
「ありえない……何だこの揺れ方! 質の悪いアトラクションかよ!」
焦った声を出しても冷静だったジャンジャカは、転びかけた有世の手をぱっと掴むと、思いついた避難場所へと一直線に走り出した。
「そこの棚に入れ! 戸も締めろッ!」
揺れた衝撃で開きはしたが、それでもどっしり床に立ち続ける濃紺の戸棚を指さし叫ぶと、ジャンジャカもまた、近くのカーテンの奥へと身を隠す。有世は指示通りに、見た目以上に奥行きのある戸棚に飛び込むと、何故か内側にもあった取っ手を掴み引いて戸を閉めた。
縦横無尽に舞う品々が、次々と棚にぶつかる音がする。有世は取っ手を握りしめたまま、音と揺れが治まるのを耐え待った。
木板が割れる。輝石が砕け散る。広がった布の上に本が崩れ落ちる――隔たれた外の光景が、有世には何故か鮮明に見える。そのビジョンは、弾んだゴムボールが静かに転がり止まったのを最後に、ブラックアウトしていった。
……音も消えた。もう出ても大丈夫だろうか。
丸まっていた有世が恐る恐る顔を上げると、コンコンとノックの後、外から戸が開かれる。
「おい、大事ないか。有世少年」
「うん。びっくりしたけど大丈夫」
ジャンジャカに引き出されるように有世が戸棚から出てみれば、先程見えた光景にたがわず、美しかった部屋は大きく様変わりしていた。
床が方々に傾き、あちこちに細い亀裂と段差ができて、心なしか室内全体が薄暗くなったように見える。
棚という棚は各々の居場所から大きく違えることはなく、しかしそこに置かれていたモノをことごとく吐き出し空になっている。舞台上ではオブジェが右に左に、めちゃくちゃに倒れて散らかっているが、それでもこちらの被害は少なそうだ。
「あー、酷いもんだぁ……こりゃあまた、大きく抉られたものだね。……切ないが、今だけの辛抱――って、んん?」
ジャンジャカが崩壊した部屋を確認している途中でぴたりと固まる。そして現実を把握した彼は頭を抱え、すっとんきょうな悲鳴に近い声で嘆いた。
「そんな、嘘だろ! せっかくあそこまで組み上げたのに!」
崩壊に巻き込まれたらしい。製作途中だった『桜の大木を中心に雪解けが進む小振りな舞台』は、半分程が抉られ深い崖の下に崩れ去っていた。
両手両膝をついて暗い崖の底を覗き込んでいたジャンジャカは、ふるふると悲哀に震えながら、ゆっくりと首を回し、後方に立つ有世を見上げた。
「き、きみ……頼むから無事に家に帰ってくれたまえよ。じゃないとぼくの舞台は地の底に沈んだままだ。それにこのままだと他の舞台までも――ああ、考えたくもない」
ジャンジャカに多大なショックを与えたことを申し訳なく思いつつ、頷くか謝るか迷って、有世は大きく出遅れる。
その間にひとしきり狼狽え終えたらしいジャンジャカは「そうだ、今こそハートを割るんだ……」と呟くと、心臓を取り出すように両手を左胸に当てる。そして、
「よし、割れ! 拾え! 青春球場の砂も、混ぜとけ!」
左手で目には見えないハートを床に強く投げつけると、すかさず何かを掻き集める動作に移り、掬った全てを両手で握って胸に押し当て還した。
「うん良し! 大したことないッ! ――もう大丈夫。行くぞ有世少年!」
「おお……っ」
すぐさま自力で立ち直る姿は格好良いと思いつつ、ジャンジャカの切り替え法には少し引きながら、有世は力ないガッツポーズで応えた。
そんな有世の反応などさっぱり気にならない様子で、ジャンジャカは真剣な顔で崩落の先を射抜くように見つめる。
「けど……まずいな。目的地はこの先だぞ」
どこからか不規則に吹く風が、装飾の雪と桜を舞い上げては散らす。幻想的な景色の奥には、ぽっかり開いた扉のない出口が見えている。
「どうしたら良いの? ジャンジャカ」
「すまないが、ぼくにもさっぱりだ。こりゃぼくらだけで解決するのは、きっと無理だね」
「ええっ、そんな簡単に諦めないでよ!」
あまりにもあっけなく白旗を上げられ、有世は思わず食って掛かったが、ジャンジャカはさも当然のことと言わんばかりに両手を腰に当てる。
「言っただろう。ぼくは誰よりきみに近いんだ。経験の知識の差ならともかく、きみが思いつかないことを、ぼくが思いつけるはずもないのさ」
「そんな自信満々に言われても……」
「まあまあ」
ジャンジャカは大人の余裕で有世の頭をポンポン、と軽く撫でると、出会った時のような優雅な足取りで壁まで歩く。そして先程彼が隠れたグレーのカーテンを引き、その奥に備え付けられた押し入れの扉を開いた。
「困った時は、頼れる誰かの力を借りるのが一番だ」
青海波の浮かぶ青みを帯びた銀箔が張られた木の引き戸が、音もなく滑る。有世が彼を追って押し入れを覗き込むと、そこにはぎっしりと、多種多様な窓が並び詰め込まれていた。
ジャンジャカは迷わず、そこから黄色い枠の摺り硝子の窓を選び取ると、向かいの壁に元々嵌まっていた窓を外し、代わりに嵌め込んだ。相変わらず、窓の向こうには小さな空き地の影が見えるだけだ。
何が始まるのだろうと有世が見守っていると、
「窓が変われば世界が変わる」
呪文のように唱え、ジャンジャカが二度ノックしてから窓を開いた。すると、そこに居たのは……
『おわ?』
「あ……っ!」
ガラリ、と開かれた窓の先、がらりと変わった風景。
先程までとは打って変わった明るい湿地のような場所で、あのワニがきょとんと振り返った。
「やあ、わおくん。助けてくれ!」
『わお!』
「サンキューだぜ!」
今日一番無邪気な笑顔で、ジャンジャカがわおくんとパンッ、と手を合わせる。わおくん――名前まで卯月のワニと同じだった――も、とても嬉しそうだ。
「……そんなあっさりした感じで良いの?」
「何が?」
「頼み事」
あんなに爽やかな頼み事など、有世は見たことがない。一人で出来ない悔しさや情けなさを抱え、恐る恐る行くのが、有世にとっての『頼み事』というものだ。他人の姿だってそう見える。楽し気に頼む姿など、想像すらしたことがなかった。
だがジャンジャカにとっては、有世の感覚の方がズレたものだったらしい。
「? 他にあるのか? 頼み方って」
心底分からないといった風に、ジャンジャカが腕を組み首を傾げたのを見ると、有世も何だかそんな気がしてくる。
「まあ、そう言われると?」
一間置いて考えてみれば、人間は完璧ではないのが当然だと先程知ったばかりだ。一人ではできない時誰かに頼むのは、恥じる事でも、格好悪い事でもない。むしろこれからは頼まれ事をした時、今のわおくんのように、もっと明るく引き受けようかとまで思えてくる。
有世が内に引かれて黙り込むと、わおくんが「それで、どうしたの?」とジャンジャカの袖を引く。
『んわ、んお?』
「ああ、見ての通りなのだよ。向こうへ行くにはどうしたら良い?」
ジャンジャカに示され、わおくんが上半身だけ室内へ乗り出し崖を目撃する。わおくんは惨状に『わ』と小さく驚くと、きょろりと有世を見て、手をポンと打った。
『わうぅお?』
「え、有世少年?」
『わおっ!』
「何だ。きみ、何か良いモノ持ってるそうじゃないか。見せてくれよ」
ジャンジャカが自身の背を人差し指で斜めに示しニヤリとする。有世のリュックの中、ということだ。
「え、っと」
有世が首からリュックを脱ぎ外し、もたもたとファスナーを開けると、ジャンジャカはそれを掻っ攫い、柔らかい布の上でバッサバッサと振って中身を落とし確認する。
「おおっ! 良い。良いじゃないかぁ! これなら渡れる。――じゃあまたなわおくん。このお礼は後程必ずっ!」
『わおわぁ~』
ジャンジャカは布の上から、畳まれた青いハートの葉と縮んだ竹馬を選び取ると、残り物を雑に詰め直してリュックを有世に投げ返す。そしてそのまま急いで準備に向かった彼の背にわおくんはのんびり手を振って、見送り終えると窓を閉め始めた。
「あ、待ってわおくん!」
『わっ』
また出会えた。きっと最後のチャンスだ。逃す訳にはいかない。有世は飛び込む勢いで窓枠を掴み、再び窓を全開にした。
「さっきは驚いて怖くてお礼もできなかったから。綿毛の時、助けてくれてありがとう!」
『んおわー。わお、おわお、わんおー!』
「うん。おれもわおくん大好き!」
『おわお、おんわわおー、おっ』
「思い出す……って何を――あ!」
わおくんがにっこり笑って、手を振り窓を閉める。
有世が慌ててもう一度窓を開いた時、そこには初めに見た空き地が広がっているだけだった。
(おれ……何を忘れてる?)
わおくんの言葉に、何かが有世の記憶の隅を走り抜ける。集中して考えれば思い出せそうな気がする、が、そんな場合ではないとはっきり分かる叫び声が聞こえてきた。
「ンわぁァアッ! ない、ない、ないぃぃッ! ああくそ、僕はあれをどこに置いた? あれも崖の下か? ストック取りに行った方が早いか? ……ぅ有ったァ!」
興奮気味のジャンジャカは部屋を右往左往した後、散らかったオブジェ制作の作業台から迷わず一本のボトルを引っ掴むと、有世が止める間もなく、中身を無造作に竹馬に浴びせかけた。
「ちょ……何かけてんだよ!」
「ぼく愛用の仮止め糊だよ。乗せただけじゃ、葉は風で吹き飛んでお終いだからな」
説明しながらもジャンジャカは手を止めず、竹馬を振りに振って、崩落の先まで届く長さにする。それを細い橋のように二本渡すと、その間に乗るように、ロール巻きにした葉の両端を張り付ける。
「これ、竹楽の大事な竹馬なんだけど……」
「分かっちゃいるが緊急事態だ。糊は時間が経てば剝がれるから、竹馬は後でぼくから竹楽に、必ず返しておくよ。もちろん綺麗に洗ってから」
状況が状況だ。竹楽もこれを見越して竹馬を預けてくれたのかもしれない。有世はジャンジャカの約束を受け入れた。
「頼むな、ほんとに」
「ぼくらの友情に懸けて」
ぼくら、というのが有世、ジャンジャカ、竹楽のどの組み合わせを指すのかは分からない。しかし、ジャンジャカは有世の欠片。有世が果たしたい約束なら、彼は必ず果たしてくれるだろう。そう思った時、有世はほわりとした温かさを感じた。
そんな間も作業を止めず、葉を転がすためにしゃがんだまま歩くジャンジャカの動きはとてつもなくスムーズで、普段からしゃがみ歩きに慣れているとしか思えない。彼と同じ動きと速度で葉を転がす技術を持っていない有世は、目の前の不自然かつ奇妙に見えてしまう動きに感謝して、ゆっくりとその後ろをついて歩いた。
いつの間にか四角く変形し、さらに巻いた以上に長く広がり続ける葉の左右には柵も手すりもないが、足場は一切たわむことなく、普段歩く歩道橋の方がよっぽど揺れるな、と、有世は安心を感じて進み続ける。
竹の真ん中辺りまで来た時、ジャンジャカが勢いをつけ残りの葉を押し出した。綺麗に真っ直ぐ転がり進んだ葉は、ぴたりの長さで向こう岸へ到達した。
「見たか有世少年! これでこっからは走り放題だぜ」
「あ、待ってジャンジャカ!」
言い終わる前に走り出したジャンジャカに続いて、有世も走り出す。流石、有世に近いというだけあって、ジャンジャカは楽しそうに軽やかに走る。それでも全力ではないのだろう。今回はちゃんと、有世が楽に追い付けるスピードだ。
たん、たんっ、と二人は橋から床へと飛び乗り、そのまま出口の先を目指す。合板の壁の間を右、左、左。そこでジャンジャカはブレーキをかけた。
「おっと、こっちもか」
知らぬ間に道の先でも崩壊が起こっていたらしい。崩れた道は完全に閉ざされている訳ではなく、狭い洞窟のように続いている。
「ぼくは到底無理だろうが……きみなら通れそうか?」
「うん……ギリギリ行けそう」
「光は見えている。この先行き止まりということはなさそうだ。ぼくも窓から追うから、きみはこのまま真っ直ぐに進んでくれ。また後で会おうじゃないか」
「ま、窓って? 他に道あったの?」
「さっき、わおくんと話したあの窓さ。きみが来るまではあそこも使えなかったが、もう解禁されたからな。ぼくだけなら、窓を変えて色んな場所に出入りできる」
それはとても便利そうだ。が、有世は窓枠を乗り越えるジャンジャカを想像してがっくりと肩を落とした。何となく浪漫がそがれる心地だ。
「窓……。何でドアじゃないんだよ」
「これでぼくも色々あって、捻くれてしまったから……?」
「いや、おれに聞かれても……」
有世の返しに納得がいかなかったらしい。ジャンジャカがふん、と鼻を鳴らす。
「ぼくだって分からないんだよ。気がついたら既に、ぼくはぼくだった訳だからね。そして、ぼくがぼくなのは全て、きみのせいだ」
「はぁ」
「ぼくだってね、一々窓を嵌め変えて、窓枠を乗り越えるの、結構大変なんだぞ? ドアの方が良いに決まっているさ。それなのに『ドアじゃないの?』なんて……何と言うか、びっくりだよ、きみ」
「……そりゃごめん」
良く分からないが、有世のせいなのは間違いなさそうだ。素直に謝った有世に、今度こそジャンジャカは満足したようだった。
「さて、あまりアホなやり取りしてる場合じゃなかったな」
「誰のせいだよ」
「きみのせいだって。ほら、もう行け行け。いつ崩れるか分からないんだから。ぼくももう戻るぜ」
そう言うとジャンジャカは、さっさと来た道を引き返し去って行く。
あれ程良く分からなくて、とても近くて、うっとうしい相手でも、居なくなると寂しいものだ。早く合流するとしよう。有世はそんな風に考えながら一人、出口の光へと向かって行った。