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In the round  作者: 宇川幸来
10/13

10-本心

『ぽーぱぷぅ』

 ぽお助の合図と共に筏が減速し、音もなく右に接岸する。

「……よ、っと」

 川岸の窪みを上手く利用してぽお助が停めた筏から、初めに有世(ありせ)が降りる。桟橋もないため、乗り込んだ時と違い登りの段差だ。何だか今ならできそうな気がして、有世は乗る時にニコイチがしてくれたように、王子に手を差し出してみた。

「……その、いらないかもしれないけど」

「そんなことない。嬉しいよ。ありがとう少年」

 はにかむ王子は差し出された手を取り、陸へと渡る。ただそれだけの動きなのに、有世の心は一つ穏やかになる。仲間たちの温かさとは異なる、湧き上がる力の源のような存在。王子は自分にとって、いったい何だというのだろうか。

 ただ、この感覚はどこかで知っているような。それは――今は思い出してはいけない気がする。有世が照れ顔で王子から目を逸らし、そんな風に思っていると、まくろが竹楽(たけらく)を起こす声が聞こえてきた。

「おおい、竹楽。起きてー。着いたよー」

『がっ…………ちょ……ちょがり?』

 まくろにかなりガクガクと荒っぽく揺すられ、竹楽はようやくぼんやりと目を覚ます。『煩くても寝られるタイプ』というのは、ダテではないようだ。

『ぽう、ぱっぱ』

『がっちょんが―』

 ぽお助に責付かれ、起きてしまえば元気な竹楽は、ロープを引いて大きな筏を軽々岸に上げた。当然だが、筏はここに置いていくことになるのだろう。

 有世は改めて辺りの様子を見た。少しずつ丘になっていく景色は広く見渡せるものの、所々に木立があるくらいで、これといった目的地らしきものは見当たらない。

「……まだゴールじゃないよね。ここからまた歩き?」

「ああ。けど、川の流れまで変わっていたとは……いつものままなら、もう少し筏で行けたのに」

 大地の動きの影響は、川にも表れていたようだ。王子は少し悔し気な様子だったが、反対にニコイチの表情は明るい。

「でも王子。ここまで来れたなら良い方だと思うよ? 私、もっと早く川がなくなるんじゃないかって思ってたもの」

「僕も。途中で干上がったりしないで良かったね。王子のおかげかな」

「……え。私、何かしたっけ……?」

 にこにこと嬉しそうなニコイチに挟まれ、しかし理由が思い当らない王子は困惑するばかりだ。

 和やかなのは良い事だが、今はそんな場合なのだろうか。落ち着かない気持ちの有世は三人の間に飛び込んだ。

「ねえ、早く行こうよ。おれいつでも走れるから――」

「! 待った、少年」

 一人なら迷わず走り出すが、仲間たちの案内なしで進めない今、有世だけが先へ行ってもしょうがない。気が急いてスタートの構えで尋ねた有世が、そのまま振り返り川を背にすると、慌てた王子が有世の腕を掴み、彼の前に回って道を塞いだ。

「残念だけど、走ったからといって早く帰れる訳でもないんだ。どこかで似た経験はなかったかな」

「あ……」

 もう大昔にも思える。そう、黒い空間に青い扉。あの時は、有世が走り疲れて歩き出した時、ゴールの方から近づいて来た。……その後イジワルもされたが。

 あの扉は『走ったご褒美』などと言っていたが、今回は走っても駄目、ということなのだろう。有世は浮かぬ顔で、それでも了承した。

「そっか。分かった」

「もどかしいだろうが、急ぐばかりが速さではないからね」

 そう有世を諭しつつ、王子も隠し切れずそわそわしている。王子はひょこっと身体を右斜め、続いて左斜めに傾け、有世の後ろのニコイチの顔を順に見た。

「……で、このまま進んで良さそうなのかな?」

 みくろとまくろは互いに目で会話するように見つめ合い、二人にだけ分かる何かを確認してから、王子に応えた。

「進んで止まって、流される時間も必要だけど……今は流れに乗っていける所まで」

「まだ開いていない『鍵』もありそうだけど、待っているだけじゃ、どうせ開かないだろうから。壁にぶつかったら、その時考えよっか」

 ニコイチからのゴーサインが出て、一行は揃って丘に向かって歩き始めた。先頭は竹馬竹楽ときゅるんぱ。しんがりはぽお助。前後のペースメーカーのおかげで、有世たちは迷わず止まらず、話を続けながら先へと進む。

「けど『鍵開け』かあ……。私たちだけじゃ足りないのかな。んん~……でも、これ以上、呼べそうな誰かって居る?」

 呟いた後に王子は右のまくろに訊ねる。有世には何の話かさっぱりだが、今はそれよりも王子が考えこまず、足元も疎かになっていないことに安心した。

 問われたまくろは、今回は左端のみくろと意思を交わすことなく、ぱっと答えを返す。

「もう人数はギリギリだと思う。あとは『彼』くらいだろうけど、たぶん、今は閉じ込められてるからなあ」

「そんなっ! 彼、今そんな目にあっているの⁉」

 想定外の回答だったらしく、王子が悲鳴を上げる。どうやら不憫な誰かが居るようだ。有世は初めぼんやりそう思ったが、これも原因は自分にあるのかと考え直した。

「だって、誰も彼を見かけていないでしょ?」

「そっ……そういえば」

 まくろの指摘に王子が狼狽える。しかし何故だか、有世は話題の『彼』には申し訳ない気持ちが湧いてこない。ここまでの自分は、そんな薄情者ではなかったはずなのだが。感情が湧いてこない不自然さがとても自然で変な感じがする。

 そんな内心のせいか、何となく王子とまくろの会話に混ざる気になれず、有世は少し左のみくろに寄って、彼に話しかけた。

「どこまで聞いても良い?」

「アリセは一番、何が聞きたい?」

 問いで返され、有世は数歩考え答えた。

「……『人数ギリギリ』のこと」

 有世が選んだ問いにみくろが頷く。

「君が進むためには、世界の鍵を一つずつ開けていかなければならないんだ。そのためには出会いが必要になる。かといって、出会った僕らは君と話し過ぎてもいけない」

「……話し過ぎたら、おれが帰れなくなるから」

「うん」

 一先ず話を終えたらしい王子とまくろが、気づけば有世たちより少し前を歩いている。ちらと後ろを見たまくろは有世と目が合うと、立ち位置に飽きたように、軽やかな足取りでみくろの左前へ移動した。

「でも、君と話すことによる世界の揺らぎの見極めは、誰にでも出来ることではない。一線を越えたらそこでお終い。だからここまで、君の仲間たちは最低限の数で進んで来たんだ。僕とまくろが最後のメンバー……に、なるのかな」

 少し悩んだ様子のみくろはごく自然に、やって来た自身のニコイチを話の輪に招く。話を振られたまくろは「そうだね」と彼に同意し、それから有世の顔をじっと見つめる。

「あ、な、何? まくろ」

「ああうん、ちょっとね。アリセの顔見たら分かるかなあって。……そうでもなかったけど」

 有世が少し気恥ずかしい気持ちになっただけで、成果はなかったらしい。ただで終わるのは少し残念なため、有世は一応、聞いておく。

「分かるって、何が」

「今の君と世界の色々」

 まくろのその言葉が届いたらしい。一瞬振り向いた王子ははっとした様子で駆け出し、先頭のきゅるんぱ、竹楽を急かしながら距離を取る。それを追って、王子に手招きされたぽお助も、すぅと有世たちを追い抜いて行った。そんな周りの様子を気にすることもなく、みくろは有世との話を続ける。

「何せ僕たちも、魂の器の人と出会うなんて初めての事だから。正直、何を喋っても大丈夫で何が駄目なのかは、はっきりしない所もあるんだ」

「他人が話してる時に現れるサインは見えるけど、自分が話す時はさっぱり分からないんだよ? 本当に摩訶不思議」

 もどかしいがそれすらも面白い、といった様子のまくろは、妖し気ににやと笑った。

「……と、まあ。私たちには言えないことも多い。でも、伝えられることもある」

「!」

 まくろの笑顔が、時を切り離したような合図となる。大事な時間が始まる予感がして、有世は無意識に背筋を伸ばした。

 ニコイチは歩幅を狭め、有世も歩行速度をやや下げる。数々の緑色が同居する枝のトンネルを抜け影から出ると、それが始まりと言った風に、みくろが前を見たまま有世の名を呼ぶ。

「アリセ。たとえ君の意識が追い付いていなくても、君には知りたい事があるのだと思う。だからこうして今、ここに居る」

 固さや重さといった空気ではない。それでも今までのみくろのふわりとしたそれとは違う、冬の夜明けに似た、心地良く凛とした気配だ。

 正念場。有世はそんな言葉が浮かんだ。気を引き締めた途端、逃げたいが、その芯に触れなければ逃れられない何かが、有世の中で蓋を押しのけ顔をのぞかせる。

「君の魂は今、君が未来を呼ぶ声に応えて、大きく動こうとしている。ここを進むための鍵は君自身。君が変わる度、道は開けるよ」

「強がりも、弱虫も、大好きも、大嫌いも、笑顔も、涙も。何もかも全てが『君』を生かす導きになる」

 強い風が吹き抜け、有世は反射的に目を瞑る。向かい風に押されて数歩後ろによろめいた後目を開けると、少し先で斜めに振り返ったニコイチが有世を待っていた。

 先程の突風が音を全て攫って行ってしまったように静かな中、立ちつくす有世にニコイチの声が届く。

「ねえ、アリセ。良かったら僕たちにも教えて? 君が今、何に視界を塞がれているのかを。どんな雑音が、君の心の音を遠ざけているのかを」

「私たちは、君の求める答えは持たない。だけど君自身が今、君の心に気づいておけば、きっと君の先につながるから。音にして整理するのに、私たちを使ってよ」

 静やかであるにも関わらず良く通る二人の声が、かちり、と、有世の意地の鍵を外した。ごちゃまぜにすることで分からないフリを続けた自身の心は、今は綺麗に整頓されてしまっている。有世の中で繰り返される、今はまだ想像でしかないこの悩みは、外に出して本物にしなければ、きっと何時まで経っても乗り越えられないのだろう。

 嫌で嫌で仕方がない。それでも。

 有世は浅い呼吸で両手を握りしめ、たった数歩の距離を立ち止まりながらも進み、ニコイチと並び直した。

 一度は何かを言おうと立ち止まり、だが俯き歩き出した有世に、みくろとまくろは何も言わず、合わせて歩き始める。彼らはいつまでも待ってくれるのだろう。それでも、時間は有限だ。有世は心の中で「早く話せ」と自分の尻を叩くが、そう簡単には上手くいかない。

 歩を進める程に余裕がなくなる。早く。……早く!

 息苦しくなった有世はとにかく下を向くのを止めようと、目標もなく顎を上げた。ぐん、と振り上がった視界一面に、空が飛び込んでくる。

 このエリアに来た時のまま変わらない色の広い広い空。そこに一塊だけ、有世の正面にぽっかりと雲が浮いていた。四角い塊から、もくもくと湧き上がる煙……有世には、その雲が玉手箱に思えた。

 もたもたしてたらあっという間に爺さんになるぞ、と空に言われた気がした有世の脳裏に、年老いて後悔の言葉を口にする自分の姿が過る。有世にはそれがひどく重い想像に思えたが、頭の中で振り向いた未来の自分の顔は、白い眉や髭に飾られた仙人――ではなく、にこやかなサンタクロースの顔だった。

 不意打ちで気が抜ける。有世はようやく、声を取り戻した。

「……笑わない?」

「笑わないよ」

 まくろが応える。そう言ってくれることは有世にも分かっている。それでも有世は、もう一つだけ願った。

「…………怒らない?」

「もちろん」

 みくろの肯定を最後のエネルギーに換えて、有世はようやっと、一人でしか考えられなかった問いを吐き出した。

「…………好きな事と得意な事って、どっちが大切なのかな」

 最初の一歩は踏み出せた。だからと言って、その先もすらすらと進める訳ではない。有世は全身の力で、回りに回って淀んだ心の靄を、少しずつでも外に押し出してゆく。

「きゅるんぱたちを見て、おれも、やりたいって思う事をやりたいって思った。挑戦したいって。それは本当。……でもまだ自信もないし、得意をやった方が良いんじゃないかって気もする」

「うん」

 みくろが相槌を打つ。ただその動作一つで、聴いてくれているという安心感が生まれる。有世はほんの少しだけこわばりを解いて続けた。

「両方やれば良いのかもしれないけど……今でも好きな事する時間、いくらあっても足りないなって、しょっちゅう思うのに、さあ……」

 好きと得意が噛み合わないと言いつつ、得意を生かして好きを楽しんでいたモグ姐さん。そんな生き方も確かにあるのだろう。だからと言って、有世にもそれが当てはまるとは限らない。得意を生かすはともかく伸ばす時間があるのなら、たとえ上手くいかなくとも好きに打ち込んでみたい。

 だけど、どうしても。上手くいかなかった未来を思えば怖い。好きを続けて、何の成果も出なかったら。その時有世は周りからどんな顔で見られるのだろう。

 得意なら上手くいくという保証がある訳ではない。それでも見通し不透明な好きよりも可能性は高そうだ。

 どっちつかずの状態は苦しい。早く決めてしまいたい。決められない。悩みと向き合った途端に気が滅入ってまた無口になる有世に、この時は待つことなくみくろが話しかけた。

「アリセ。そう思うきっかけが、何かあったの?」

 これは疑問ではなく、有世の言葉を引き出すための問いかけだ。直感的にそう捉えた有世は、着地点も見えないまま話し始めた。

「この前な、学校で先生がおれの事、すっごく褒めてくれたんだ」

 褒めてくれた。喜ばしいことの表現でありながらも、対照的に有世の表情には影が落ちる。

 不自然に口が乾く。喉がつかえる。しかしきっと、話さなければ苦しいままだ。有世は腹に力を籠め、それでも震え小さくなる音を絞り出し続けた。

「先生は昔、陸上の選手だったんだってさ。子どもの頃から凄くて、でも最後の最後で怪我して諦めたんだって、前に悔しそうに話してた」

 黄色く焼けた記憶の中、空の下に立つ先生と自分の姿が、何故か俯瞰で見える。有世は一度瞬きをして、記憶から現実へ景色を切り替えた。

「そんな先生がさ。体育で走ってるおれを見て、自分よりもっと才能がありそうだって――絶対あるんだって褒めてくれて、面談の時に父さんにも同じ事言った。ちゃんと走りを学んでみたらどうかって」

 有世には予想外だった。走ることはずっと好きだったが、それまで褒められたことは一度もなかった。それに有世にとっては、走ることそのものが楽しいのではなく、目的のために走るのが楽しいのだ。走ること自体を極めようと思ったことはない。だが。

「……父さん、本当に嬉しそうだった。あんなに喜んでるの、見たことないくらい。母さんも父さんから話聞いて、やっぱり嬉しそうで――」

 有世が留守番に慣れたことで、最近は大好きな仕事に打ち込み、日々帰りの遅い両親。有世の話題で二人が笑ったのはとても久しぶりだった。それはおそらく、顔を合わせる時間が減ったからだけではない。

「おれはずっと同じように頑張ってるつもりだったのに、最近は友達ばっかりがどんどん凄くなっていくんだ。それにだんだん、好きな事してても褒めてもらえなくなってきた」

 少し前までは、好きな本を自分で選び、好きな物語に何度も触れ、それだけで「有世は本が好きだね」と笑って言ってくれていた両親だが、気づけば有世を好きから離そうとする言葉ばかり言うようになっていた。否定が続けば不安も募る。自分の「好き」は間違ったものなのだろうかと、そう思うと他の自信まで一緒になくなって、自分自身の全てがぐらついていく。

 何か、不安定な自分を支える「力」が欲しい。一つで良い、明確な何かが。

言われた通りに打ち込んで才能を生かすことができれば。そうすればきっとこの不安は去ってくれるのだろう。先生が喜ぶのはもちろん、クラスメイトにも一目置かれ、両親も、たくさん笑ってくれるはずだ。卯月は――どんな顔で何と言うだろうか。貶されることはないだろうが、良く知るはずの友人の様子だけが、上手く想像できない。

 卯月の反応はともかく。得意を伸ばす道は良いことずくめのはずだ。有世は頭の片隅で、何故自分はあっさりそれを受け入れないのだろうかと、疑問に思う。

「……そう、そうだよ。褒めてもらえること頑張って、凄くなれたら、きっとおれの自信になるんだ。……だからっ――!」

 だから、好きを手放すしかないのか。

 有世はこの先続くであろう自分の言葉に、何も言えなくなった。

 知らぬ間に流れた涙を拭うことなく歩く有世に、まくろが問う。

「それは、ホントのホントに君自身の言葉?」

「……どういう意味?」

 有世が考え、有世が喋った。どこかで覚えた誰かの台詞でもない。それが自分のモノではないはずはない。有世は訝しげにまくろを見返した。小さな苛立ちがこもった有世の目に、しかしまくろは相変わらずの軽やかさで、さらに問いで返す。

「アリセは凄くなりたいの? 褒めてもらいたいの? それとも、なりたい自分になりたいの?」

「え……」

 思わぬ返しに有世はきょとんとする。並べられた三つの選択肢は、どれも同じこと、というより一括りではないのだろうか。凄くなれば褒めてもらえて、自信のある、なりたい自分になれる。……そのはずだ。

 有世が不意を突かれ呆けていると、生まれた間を埋めるようにみくろが意を述べる。

「凄い陸上選手になりたくて憧れているのは、アリセじゃなくて先生。君はまだ、それになりたいかどうかも分かっていない。才能に喜んだのも、君ではなくご両親だ。僕にはそう聞こえた」

「そ、れは……」

 整頓された。そう思っていたはずの自身の心は、まだまだ散らかっていたらしい。有世は言葉に詰まり、内省する。

「そうかもしれない。でも……その」

「先生はともかく、ご両親には、やっぱり笑っていてほしい?」

「!」

 思いを読み取ったかのまくろの言葉がガツンと響く。有世としてはどうしようもなく言いづらく、複雑な想いだ。

 日頃邪魔ばかりされているようで、面倒で。だけどそこに居ないとやっぱり物足りない、嫌いにはなれない……というより、何やかんや好きな気がしてしまう両親。友人に対する感覚とはまた違う、やっかいな宝モノだ。

 まくろの言う通りなのだが、はいもイエスも、頷くのも何だか癪で、有世は会話で誤魔化した。

「……もしかしてみくろとまくろも、親と居てモヤモヤしたこと、ある?」

 他人の心を、これ程ピタリと当てられるのだ。歳の話は結局曖昧になってしまったが、どちらにせよ人生の先輩ではあろうニコイチも、似た経験をしてきたに違いない。

 有世はそう思っていたのだが、みくろの答えは斜め上だった。

「残念だけど、僕らに親はいないかな」

「え、あっ! ご、ごめんなさい……」

 これは所謂『訳アリの、聞いてはいけない話題』というやつだ、と、有世は一人狼狽える。そんな様子に、まくろが苦笑いでみくろの言葉の軌道修正を試みた。

「うーん。みくろ、勘違いされちゃってるよ?」

「おっと。言い方、ちょっと悪かった?」

 みくろは「びっくりさせてごめんね」と有世に謝ると、気を取り直し説明を続ける。

「僕たちに親は存在しない。けれど、僕たちに近いヒトになら親がいるよ。君とは少し違う形だろうけど」

「近い、ヒト?」

 失言ではなかったと安心した有世に、すぐさま頭を切り替えるべき話がやってくる。有世は復唱して間を取りながら、脳の態勢を整えた。

「言っただろう? 僕らに死の概念はないって。つまりは生もない。僕らは確かに存在するけれど、君と同じ人間では――そもそも生き物でもないんだ」

「そ、っか。そう……だよね」

 自身の中で普通の人間や動物が暮らしているはずがない。せっかく出会えた気の置けない存在とのどうしようもない距離に、有世は少し寂しさを感じながらも、それを受け入れる。

「じゃあ……」

「『ここのみんなは何者か?』だよね」

 次を先読みしたまくろは、こくと頷く有世に「正解っ」と楽し気に笑いかけ、その答えに繋いだ。

「無から有は生まれない。魂は回り続ける。けれど、その中で生まれた心は、確かに魂に刻まれてゆくの。私たちはそれぞれ、そんな誰かの『心』が元になった存在なんだ」

 まくろの語った大筋を、さらにみくろが補完していく。

「『誰か』が幸せを運んでくれて――意識しようがしまいが、君の心が揺れた時。その運ばれた温かい心の欠片は君の認識と混ざり合い、主に生き物の姿となって君の内で暮らし始める。そんな風に発生するから、ここにいる全てに親はないんだ。しいて言うなら、君が僕らの『親』かな」

「みんなは、運ばれた『心の欠片』……ってことは。近い人っていうのは、その『心』をくれた、元の人?」

「だーいせーいかいっ! アリセ、ここの感覚掴めてきたみたいだね」

 自分が正解したとき以上に嬉しそうなまくろに、有世もつられて表情を明るくする。

「そんな訳だから親については、近いヒトの心の話なら、ちょっとだけできるかな。それでも良い?」

「うん。聞いてみたい」

 親との関係についての話など照れくさくて、日常に帰ってしまえば、誰にも尋ねられない。この特殊な時間に、参考までに聞いておきたいと有世は願う。

 断りに対する有世の了承を受け、まくろはみくろと共に軽やかに語り始めた。

「例えば、『父親』のように思う人。あの人は優しくて、思いやりがある人」

「僕らに向き合って道を教えるのではなくて、楽しみも恐怖もある未知を一緒に歩いてくれる、頼もしい人」

「私たちの悩みを、私たちのモノとして聴いてくれて、私たち自身が辿り着くまで答えを待ってくれる、辛抱強い人」

 誰にでも居る、親という存在。しかしそれは十人十色で、自分のそれ以外を知る機会はなかなかない。よその家に遊びに行って、とても優しそうな親に会っても、有世の友人――つまり彼らの子は「普段はあんなんじゃないよ」なんて言ったりする。『親』の本当の顔を見られるのは、やはり家族だけなのだろう。

 ニコイチと近い『誰か』。今の有世に思い当る相手は居ないが、彼らは心の底から、その『父親』を慕っているのだろう。自身の縺れたそれとは違う裏表のない心を感じ、有世は何だか、『誰か』が羨ましくなった。

「……すごいね。何か、おれの父さんと正反対というか――いや、優しいことは優しいんだけど、ずれてるというか……何だろうなぁ」

 それは父だけでなく、母もだ。二人はよく似ていると、有世は何かある度にそう感じている。

 あれはどうだい、これも良さそうだ。何を習ったって良い。そう言うくせに、有世がやりたい事には乗り気ではない反応を見せる。確かに習い事ではないが、習うようなことではないのだから仕方ないだろう。

 一応は信頼している親であるため困ったときは話を聞いてもらいたいが、どうにもせっかちで、相談すればすぐ、それはこうだと決めつける。決められないから相談するのだ。決めて欲しいのではない。

 それから、有世が嬉しい時に反応がそっけないのは、本当に何なのだろう。人が喜んでいる時、有世ならつられて喜ぶものだが。

(――ああでも、今回は母さんたちだけ喜んで、おれが喜んでないから一緒か)

 思わぬ反面教師だ。ついでに、何となく気づいたことも。

「良いな、って思うものがさ、父さんとも母さんとも、あんまり噛み合わないんだよね。だからリズムが合わなくて、邪魔ばっかされてる感じになるのかな」

 するりと零れた有世の思いをさらに引き出すように、みくろが的確に言葉を挟んだ。

「アリセにも、アリセだけの『好きなもの』があるんだよね」

「そう! 物語!」

 汲み取ってくれた嬉しさに、有世はつい弾んだ声で答えた。

「まだまだ、時間をかけてゆーっくり読んでみたい物語が、山程あるんだ。……でも、最近は父さんと母さんが、そろそろもっと違う本を読みなさいって、昔読んだって本をあれこれ渡してくる」

一体何が変わったのだろう。何を変えなければいけないのだろう。一つ年齢が上がった所で、有世は有世だ。「そろそろ」なんて言える程、有世はまだ、今ある『好き』を堪能しきっていない。考え込む有世の顔を、横からひょいとまくろが覗く。

「渡される本はつまらない?」

「面白いとは思う。ただ、昔から読んでる絵本とか、童話とか、そんな物語の方がもっと好き。もっと色々読んでみたい。だけど同じ本も、何回も何回も読み返したい。そんでおれもいつか――おれだけの物語を、書いてみたい」

 誰にも秘密の、有世だけの夢。さらりと口に出せたのは、ここが特殊な場所だからか。それともニコイチには聞いて欲しかったからか。

 そしてもう一つ。予行演習も兼ねて有世は、秘かに持ち続けた願いを初めて声にした。

「それとね。今はまだ、とてもじゃないけど言えないけどさ。おれが物語を書いたら、卯月――あ、幼馴染な。あいつに挿絵を描いてもらいたいなー、なんて……思ってる」

 卯月との距離を感じるようになってからは、もう望むことはできないと思っていた、何度も心の奥で繰り返した想い。結局消すことはできず、今日まで持ち続けてきた。

 どこまでも純粋な顔で、少し照れくさそうに笑った有世に、みくろも嬉しそうに笑顔を返す。

「『ウヅキちゃん』は絵が得意なんだよね」

「めちゃくちゃ上手いよ。二人で物語の話をしてる時に、挿絵がないシーンでも、他のページを真似て描いちゃったりもして。卯月が描いて見せてくれると、物語のイメージが湧きやすくなって、もっと面白くなるんだ」

「うんうん。絵からイメージを取り込むのも大事だもんねえ」

 まくろにも似た経験があるらしい。言葉にせずとも楽しい思い出が、まくろのうきうきとした足取りに現れる。有世もつられて弾む歩調で、ここまで感じていたことを語った。 

「ここを進むのって、おれと卯月のお気に入りの物語と、ちょっとだけ似てるんだ。女の子が不思議な世界に迷い込む話なんだけど、二人も知ってるかな」

「有名な童話だね。僕らは直接読んだことはないけれど、認識はしているよ」

 有世の内というだけあり、彼らにも存在は伝わっているようだ。

「あっ、もしかしてその物語は、ここを見た君が未来に書くことになるのかも、なんて」

「そうだね。魂の内側の風景はそれぞれ異なるだろうから」

 突拍子もないまくろの発想に、みくろも何故か同意する。有世は首を傾げ否定した。

「? そりゃないよ。もうずっと昔に書いた人がいるんだから。しかも外国の人」

「君はこの先、未来にしか生まれないの?」

「え?」

 鏡のように首を傾げたまくろは、戸惑う有世に、それが当然のことのように言う。

「今の生を終えたら、次の君は過去を生きるかもしれないよ? 魂は時間の流れを自由自在に渡るから。その作者さんが君の来世だってことも有り得る」

 考えてもみなかった可能性だ。それでもやはり有世には違うように思えるが、本当なら面白く喜ばしい。

「魂って、タイムマシンみたいだ」

「ふふ、そうだね。だけど君が今の君を生きている限りは、過去から未来への時間の流れに逆らうことはできない。人生とは、意思が伴おうがそうでなかろうが、未来に向かって進み続けることだから」

「あ……」

 ずっと気になっていた言葉の答えが不意に現れたことで、有世はとたんたとたとた、と歩のリズムを崩して戻す。

「さっき王子が言ってた。『生は一方通行、魂は自由通行』って。これ、みくろとまくろの言葉だったんだ」

「ああ、そういえば。話したことあったかも」

 まくろが口元に手を添え思い出す姿が、呟いた時の王子と重なる。有世がぼんやりと先を行く王子の背中を見ると、そこに在るはずのないワニが揺れた気がした。

「……一度進んじゃったら、前に戻る方法は絶対にない?」

「そうだね。『戻った気がする』だけならあるかもだけど」

「進まないように、止まってても……駄目なんだよな」

 意志に関係なく進む。流される。何かが記憶を掠める。

「そうだね。それにもし留まろうと逆走したとしても、それに合わせて、常に未来へ流れている足場の速度も変わるから。それはとても意義の薄い行為と言わざるを得ない」

 足場、というみくろの例えが最後の誘因になり、セピアに沈んだ有世の記憶に色彩が蘇る。一度だけ乗った飛行機、お土産のワニの包みを持ってはしゃいだ、空港の中の面白い道。先程掠めたのは動く歩道だ。

「逆に、先へ先へと慌て過ぎると、足場の流れも合わさって、思いもしないスピードに翻弄されたりもする。見落としたり、掴み損ねるものも増えて、そのくせどんどん最期が近づく」

「でも、そんな経験たちはどれも、未来に『必要だった』と思った瞬間に必要な過去になる。不思議だよね。その時は嫌でしかなかったことすら、ある時突然光りだすんだもの」

「必要な、過去……」

「うん」

 言語としてだけではない。体験を伴ったようなニコイチの言葉が、先達の智慧となって有世にもたらされる。有世には彼らのある種独り言のような話が、近しい大人から言い聞かされる『大事な話』よりも、ずっとずっと重要なものに思えた。

 話が一区切りした丁度そのタイミングで、様子を窺おうとした王子がちらりと振り向く。それと目が合ったみくろは王子に、有世に向けるものとは異なる微笑みを見せた。

「僕、ちょっと王子と話してこようかな」

「うん。じゃあ有世、私たちはもっと先に行っちゃおうか。みんなが来る前に、鍵を開けておきたい建物があるの」

 みくろが有世の隣を離れる前に、まくろがぱっと有世の手を取り、程よい速さで走り出した。前の一行を追い抜く時、突然の事に手を伸ばしかけた王子に、しかし有世は止まれず「また後でっ」とだけ残す。正面に向き直る前に、ぎこちなく手を上げ「後で」と返してくれた王子が、ぎりぎり視界に入った。

 有世にゆとりがあると分かって、まくろが速度を少し上げる。小さな石段をたたんと上り道なりに曲がると、空いた右手でみくろが丘の上を示した。

「目指すのはね、あそこ」

 それはこの辺りでもひと際大きな、洋館風の建物だった。洒落た塀や緑に囲まれ全貌は分かる訳ではないが、淡い赤茶の外壁や直線と曲線の組み合わさった造りが、有世の好みだと感じられる。それよりなにより目立つのは。

「でっかい門……」

「すごいよね。どうやって開くんだろうって、私もいっつも思ってる」

「え、あそこから入るんじゃないの?」

 てっきり機械仕掛けで開くものだと思っていた有世が驚くと、まくろは喜びのサプライズで不意を突いた時のように、楽し気な顔を見せた。

「入り口は必ずしも、正面で目立っているとは限らないんだよ?」

 まくろがいたずらっぽく、ニヤリと口角を上げる。

「横の植え込みのね、一部がスポって四角く抜けるんだ。それがみんなの入り口。門はきっと……ただのお飾りでしかないの」

「へぇ……」

 日常では合法的な機会はなさそうな、わくわくする侵入方法だ。……しかしみんなの入り口なら、侵入とは言わないのかもしれない。どちらにせよ、有世はその時を楽しみに進むことにした。

 

 そんな有世たちから、話し声が届かない程度に離れた後方。みくろは、動物たちに囲まれ難しい顔で歩く王子に、静かに声をかけた。

「どうかした?」

 王子はみくろが来たことに気づいて彼に顔を向けたが、きゅっと口を結ぶと、一度目を逸らしてしまう。

 それでも、有世が居ない今、一時飾る必要がなくなったいつもの彼女に、格別気を張っていた訳ではないみくろもどこかさっぱりした心地になる。

『がっりがー、ちょんがり』

「そうなんだ」

 さっきからこの調子なんだ、と竹楽に聞かされたみくろは、持ち前の気長さで、焦ることなく王子の言葉を待つ。かといって、あまりゆっくりしていても、すぐに有世とまくろに追いつくことになる。

 さて、どうしようかとみくろが思ったその時、王子が小さく息を吐き、準備を整えるのが分かった。

「……ねえ、みくろ。わたし、ここで有世と分かれた方が良いのかな」

「どうして?」

「みんながね、有世にばれたら危ないかもしれないって言ってたの。それって、本当よね?」

 彼女は不安ではなく、寂しさと、それに伴う悲しみの顔を向ける。だが彼女の『強さ』をみくろはよく知っている。今言うべきは安心させるための言葉ではなく事実だ。

「そうだね。貴方はアリセの深奥にとても近いから。何かの弾みで、貴方が知る彼の全てを見せてしまったら……バランスは一気に崩れるかもしれない」

 曖昧だった動物たちの感覚よりも明瞭な答えに、王子は分かってはいてもショックを隠し切れず顔を歪める。

「わたし……せっかく有世と一緒に居られるのに、何も伝えられなくて。どこまで話して良いかもあんまり分からないし、きっと図書館を抜けることが、わたしの一番の役目だったから……」

 確かに、あの図書室は一番の『難所』だったろう。複雑に入り組んだ室内は、中で暮らす者たちですら大多数がその全容を知らない。有世が短時間で抜けられたのは、王子の案内の賜物である。

 そんな功績も彼女にとってはすでに過ぎたこと。俯く彼女の声が震える。

「もうできることがないのなら、危険が増えるだけならここで――」

「そんなことはない」

「!」

 みくろは、彼女がどれ程有世を大切に思っているかを知っている。そして有世が、どれ程『彼女』を大切に思っているかも、だ。

 まだ恐る恐るといった表情で伺う彼女に、みくろは自信満々に笑ってみせた。

「さっきだって、気づいて距離を取ってくれたでしょう? 僕らは、みんなが居る所でも話して良いと思っていたけれど、結果あそこに居て良かったのは、僕とまくろだけだった。……何より」

 人は誰しも替えが効かない。そんな人々に囲まれる中でも一際重要な存在が、誰にだって存在している。彼女は間違いなく、有世の推進力なのだ。

「貴方は、たとえ言葉がなくたって、存在だけでアリセの力になれる。危険以上に必要が大きい」

 側に居たいと願いながら、足枷となる恐怖に足をすくませる。自分たちも案外、生きた人間と変わらないのかもしれない。そんなことを感じながら、みくろはきぱりと言い切った。

「最後まで見送らなくては駄目だ」

「みくろ……」

「それにゴールは近いよ。いざとなったら……無理やり駆け抜けてしまおうか。ちょっとくらい無茶しても、アリセが帰りさえすれば、世界は自ずと修復され始めるだろうから」

『きゅきゅーえ?』

『ぽんっ』

『ちょんが?』

「もちろん君たちも。いつどこで、誰が役に立つかは分からないから。でも――」

 不意に歩を止めたみくろに、王子も一歩先で止まり振り返る。その足に、転がるきゅるんぱがぱふりとぶつかった。

「僕らの出番はもう、そんなに多くはないのかもしれないね……」

 近づく終わりを悟ったみくろが、有世とまくろが先行する坂の上の洋館を見上げ、どこか名残惜しそうに風に吹かれた。


 洋館の扉を開くべく、まくろが三十はありそうな鍵の連なる束を持ち、数の合わない錠に順番に試していく。

 残る錠は後四つ。見た目は異なるが鍵穴の形状は同じ錠があるため、開錠の度に試す鍵が減るわけではないのが、見ている有世にはもどかしい。しかし作業に当たるまくろは鼻歌交じりで楽しそうである。

鍵は束から外れないそうで、手伝うこともできず手持ち無沙汰な有世は、円を描く様に小石を蹴って暇をつぶしていた。

 そろそろ飽きてきた時、つい強く蹴りすぎて、小石が塀の下の隙間から外に出ていく。次の石を選ぶか止めるか。有世が玉砂利が敷かれた一角を覗いたその時、

『きゅ!』 

「きゅるんぱ! ……ぽお助、竹楽も……っと!」

 抜いた生け垣のトンネルから、きゅるんぱ、ぽお助がひゅっと抜けて来る。続いた竹楽の角が引っ掛かり、有世は枝を曲げて抜け幅を広げた。

『ちょいがちょ―』

「どういたしまして。……王子!」

「やあ、少年」

 竹楽の後ろから現れた王子に、有世は思わず明るい声を上げ笑う。笑い返した王子は先に竹馬を押し込み、それを竹楽が回収した後、慣れた動きの四つん這いで生け垣の内側へ入ってくる。そして最後のみくろは内に入ると、抜いた草の塊を戻し、通った穴を元通り塞いだ。

 ほんの少しの別行動ではあったが再会が嬉しく、有世は王子に話しかける。

「次はここだ、ってまくろが。王子も良く来る場所なんだよね」

「ああ。ようやくたどり着けたね」

 玄関扉の鍵開けに精を出すまくろの姿に、隣にある無施錠の通用口は有世には見えていないのだと王子は悟る。

 そんなことは露知らず。有世は話の流れで、先を少しでも知っておこうと、この洋館について王子に訊ねた。

「建物を抜けて進むって、変な感じだよな。この中ってどうなってるの?」

「ううん、入ってからのお楽しみ、だね。けど、図書館で使いたかった――きみには見えなかった赤い扉があっただろう? あれはここの一室に繋がっていたんだよ」

 つまり、先程王子は一時だけ、この中に足を踏み入れていたということか。有世はあまりの距離の差にガクリと来た

「うわぁ……おれ一人のせいで、すっごい遠回りだったね」

「けどきっと、必要な時間だったのだよ。きみが帰るためには、ね。この道のりも、きみの『鍵』の一つ、って所じゃないかな」

 王子が同意を求めるように目配せすれば、みくろも頷く。

「遠回りに思えることが、実は最善の道ということもある。道草は世界を救う力を秘めているって、アリセ、知ってた?」

 本気なのか冗談なのか。珍しく悪戯っぽいみくろに有世が戸惑っていると、みくろは煙に巻くように笑んで、まくろの隣へ向かう。有世たちも続くと、作業中のまくろがそれに気づき、軽く片手を挙げた。

「ギリギリ間に合わなかったかあ。鍵もうすぐだから、待ってて」

 鍵はあと一個。まくろは手を止めずに話す。

「それにしても王子、思ったよりちょっと遅かったけど、後ろで何かあった? 大丈夫?」

「平気だよ。みくろとまくろは凄いねって、話していたんだ。本当にたくさん、わたしの知らないことを知っているから」

「ただ知っているだけだけどね」

「うん。それにそれは、役割分担でしかないよ。王子だって、私たちの知らないことをたくさん知ってる」

「だからこそ僕らは一緒に居るんでしょう? 一人で全てを知っていても、ね」

 最後の錠が外れる。まくろが小さく「いぇい」と喜んだ。

「全部知ってた方が凄いし良くない?」

 有世が問えばまくろは、どこからか取り出した束にはなかった大振りの鍵を、洋館の扉の鍵穴に差し込み顔だけ振り返る。

「ふふっ。籠の卵は分散しないと、なんてね。特にここでは」 

 がちゃん、と最後の錠の解ける重くも心地良い音が響いたが、有世の脳は逆に言葉で鍵がかかったようだ。

「? 難しい」

「本当に。わたしにもサッパリだ」

 眉間に皺を寄せ悩む有世とは対極に、王子は愉快そうに笑って言った。分からないことすら楽しんでいるように見える。この柔軟な明るさ、どこかで――

「どうぞ。入ったら右。階段を下って地下室に向かって」

「あ、うん。ありがとう」

 まくろが両開きの扉の片方を開き、まずは有世から室内へ誘導する。灰色の石の玄関床を踏んだ時、一度途切れたはずの有世の脳回路が、ぱっと閃きを届けた。

(……そっか、王子は卯月に似てるんだ)

 友人の未来の姿など想像することもなかったせいだろうか。今の今まで、そんな風には思えなかった。しかし一度気づいてしまえば、そうとしか思えない。答えを墨で隠されていた心地だ。

(だからきっと王子は、卯月の『心』の欠片――)


――ゴッン


「あやっ!」

「え?」

 鈍い音と共に、短い奇声が聞こえた。音に驚いた有世が思考を切り捨て振り返ると、何もない場所で王子が上を向き、涙目で額を押さえていた。どこかにぶつけたように見えるが、その高さの障害物は見当たらない。

「な、何の音? 王子、大丈夫?」

「……う、うん、平気。ありがとう。……でも」

 手の甲でごしごし額を擦った後、王子が空中をノックする。その拳の動きに合わせて、厚いガラス窓を叩くのに似た鈍い音がした。

「……壁?」

 王子を真似て動物たちも各々行動するが、全員が見えない壁に阻まれている。その少し後ろでは、壁を叩くがんごんぴしぱしで良く聞こえないものの、ニコイチが何かを相談し合っている様子が窺える。

「幸い声は通るようだが……きみ以外はここは通れないみたいだね。さっきの扉と逆だ」

 閉じていたもう片側の扉も開き、広範囲を試す仲間たちの姿を確認して、王子が不可能を確信する。

「じゃあ、俺も戻っ――あれ?」

 踏み出した爪先が閊える。先程までは干渉しなかったはずの壁が、今はしっかりと存在し、有世の歩を阻んだ。

「戻れない?」

 困惑する有世に、ぶつからないよう慎重に歩み出たみくろが冷静に告げた。

「有世、君は『生』だから」

「そっか。これも一方通行――」

 一度進めば戻れない。その永遠不変の法則には逆らえない。

「今まくろとも話したけれど、こうなったら一先ず、アリセが一人で進んだ方が良いと思う。僕らは僕らで、有世には使えない道が使えるから」

 王子は苦し気に目を閉じたが、すぐに割り切った様子で頷いた。

「そうだな。仕方がない。わたしたちは別の道から回るから、少年はそのまま進んでくれ。後で合流しよう」

「……うん」

 進むしかないのは分かっているが、きゅるんぱに出会って以降、ここまで賑やかに来た分、一人で行くのはとても寂しく感じてしまう。

 有世が不安げに俯いたまま返すと、王子がしゃがんで有世の顔を見上げ覗く。そして闇の中でも光を見つけられた喜びを声に込め、この先の道標を示した。

「不幸中の幸いと言うべきか、この先には『ジャンジャカ』が居るはずなんだ」

「『ジャンジャカ』……?」

 愉快な響きだが、どんな存在なのかは全く見当がつかない。

王子は立ち上がり、それにつられて顔を上げた有世に笑いかける。

「わたしの一番の友人で、誰より大切な相手さ。動きも話し方も少々独特だが、良いヤツだよ。君に逢わせられると思ってなかったから、こんな時なのに、ふふっ、ちょっと嬉しくて……」

 王子が幸せそうなのは嬉しいが、その『ジャンジャカ』が『卯月の大切な相手』だと考えると、有世は何だか複雑な気持ちになった。

 絶妙に不細工な表情を作る有世に、何となく心中を察した王子は思わず笑いを溢し、しかし最後は凛々しく言い切る。

「何も言わずとも大丈夫だろうが、一応、彼に会ったら『ミルキィ』と逸れたと伝えるんだ。わたしたちが居ない間、必ず力になってくれる」

「ミルキィ――それが王子の本当の名前?」

「そうであって、そうでないような……。きっと彼のもわたしのも、字名(あざな)みたいなものだよ。さ、時間がないぞ。早く行くんだ」

「っ……はい!」

『ちょんちょん!』

「竹楽? ――わ」

 壁の穴を見つけたのか。竹楽が宝物であろう竹馬を有世の方へ送り出す。頭上の穴を通るように押し込まれた竹馬が、ある所で支えを失い斜めに落ちて来るのを、有世は上半身を反らせながら受け止めた。

 続いてもう一本。一対が無事に有世の手に渡ると、竹楽が両手で杖を突く動きをしながら、有世に伝える。

『ちょっ、ちょっ』

「!」

 言われた通りに有世が竹馬を数度地面に突くと、三度目から少しずつ竹馬が小さくなっていく。

『ちょいれー』

「うん! ありがとう借りてくよ。必ず返すから!」

箸のサイズになった竹馬を、リュックの内ポケットに差し込むと、有世はもう一度だけ全員の顔を見てから、弱気を振り払う勢いで、地下へ続く折り返しの階段を駆け下りた。

 そんな有世を追えはしないかと、きゅるんぱが、竹馬を通した隙間に身体を通そうと跳ね乗る。

『きゅ――』

「あ、待ってきゅるんぱ!」

 王子が咄嗟に、壁を抜け切る前にきゅるんぱを引き抜いた。

『ぎゅえ?』

「ここは一人で行かせてあげよう。きっと『彼』とは、二人きりの方が良いと思うから……」

 優しくきゅるんぱを抱きしめた王子、こと『ミルキィ』は、誰よりも信頼する相手を思い、きらめきの微笑みで洋館に背を向けた。


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