弐.認めたくない事実
柚月が茶の用意をして雪原の部屋に向かうと、部屋の外にまで笑い声が聞こえていた。
珍しい。
雪原が笑うことはよくあるが、清名が来ている時は、まず、無い。
清名がここに来るのは、たいてい城や本宅ではできない話がある時だ。
自然、雪原の顔も鋭くなる。
笑い声どころか、部屋の外に漏れるような声を出すことも稀だ。
「失礼いたします」
柚月は不審に思いながらも、廊下から声をかけた。
が、いつもならすぐにある雪原の返事が、ない。
おかしい。
もう一度声をかけようとした、その時。
返事の代わりに、思わず体がのけぞるほどの大きな笑い声が返ってきた。
耳が痛い。
――なんっなんだ、もう。
「失礼いたします!」
柚月は耳を抑えながら、もう一度声を張った。
今度はどうやら届いたらしい。
「ああ、柚月ですか。入りなさい」
雪原の声が返ってきた。その声にも、笑いが混ざっている。
柚月がさっと障子戸を開けると、雪原が涙をぬぐいながら、顔だけを柚月の方に向けていた。
その正面に、あの男。
どうやら、話の相手はこの男だけのようだ。
男の顔も、楽し気に笑っている。
清名は男の隣には座らず、雪原に対して横向きに、廊下に向かって座る形で控えていて、その顔はいつも通り、くすりとも笑っていない。
真顔そのものだ。
柚月は部屋に入ると、三人に順々に茶を出した。
その様子は、いかにも小姓らしい。
顔も、仕事の顔をしている。
だがその腹の内では、男のことが気になって仕方がない。
雪原と男は、柚月が茶を出している間も絶え間なく話し、笑っている。
柚月の耳にも自然とその会話が入ってくるが、ただの世間話のようなものだ。
正直、何がそんなにおかしいのかも分からない。
男が何者なのか、雪原とどういう関係なのか。
手掛かりになりそうなものも出てこない。
柚月は何も分からないまま茶を出し終え、部屋の隅に下がると障子戸の脇に控えて座った。
「柚月がいれるお茶は、おいしいですよ」
雪原が自慢げにニコリとする。
促されるように、清名と客の男はそろって湯呑を手にし、口をつけた。
その動作が、申し合わせたように見事にシンクロしている。
「これは…っ。本当にお前がいれたのか」
本当にうまかったのだろう。
湯呑から口を離した清名は、珍しく声も顔も驚いている。
「ほんとだ! すっごいおいしい! 柚月さんて、なんでもできるんですね。すごいや!」
男も驚いた声を上げると、満面の笑みで柚月の方を振り向いた。
その笑顔。
やはり、子犬のように愛らしい。
だが今回は、どこか尊敬のようなものが混ざっている。
妙だ。
柚月は違和感を覚えた。
まともに話したこともない、何者なのかも分からない。
そんな男に、こんな目で見られるなど。
だが、不審に思えば思うほど、それを顔には出さない。
染みついた癖だ。
「いえ、大したものでは」
真面目な顔を崩さず、改まって一礼した。
その礼儀正しさ。
いかにも、小姓、といった佇まい。
柚月はクソ真面目に対応している。
雪原の客だと思っているのだから当然だ。
だがそれが、雪原にはおかしくてたまらない。
雪原は込み上げてくるものをこらえきれず、口元がニヤつくのをぐっと抑えると、急に真面目な顔になった。
「今日は柚月に、ちゃんと紹介しようと思いましてね」
声まで真剣だ。
柚月は雪原に向かって、すっと背筋を正した。
よほどの客なのだろう。
もしかして、と、胸がざわつく。
柚月には、昨日から引っかかっていることがある。
だが、聞く勇気さえ持てなかった。
それを今、聞かされようとしている。
一気に緊張が高まり、柚月は膝に乗せた手を、ぐっと握りしめた。
聞きたくはない。
だが、雪原のこの様子。
そして、昨日の椿のあの感じ。
そうであってもおかしくない。
この男。
柚月の中で、言葉にできなかった、したくなかったモヤモヤが、はっきりと形になった。
この男、椿の恋人、なのではないだろうか。
雪原の口が、ゆっくりと開く。
今まさに、告げられようとしている。
その事実から目を背けるように、柚月はぎゅっと目をつぶった。