壱.渡せぬ想いと客の男
翌日の昼食は、いつもより早かった。
鏡子と椿が観劇に行くらしい。
要するに人払いだ。
鏡子も察している。
だが、それを見せないのがこの愛人だ。
朝から二人そろっておしゃれまでして、楽しそうに見に行く芝居の話をしている。
昼食を終えると、片付けも早々に出かけるというので、柚月は雪原と一緒に二人を見送りに玄関まで来た。
が、うつむいたまま袖に腕を引っ込め、なにかごそごそしている。
中で握ったり放したりしているのは、昨日渡しそびれたコンパクトだ。
「お土産、買ってきますね」
ふいに鏡子に顔を覗き込まれ、柚月はビクリと肩を震わせた。
「あ、はい! 楽しんできてください」
声が裏返ってしまったが、鏡子は気にする様子もない。ニコリとすると、その顔を今度は雪原に向けた。
「では、行ってまいります」
「ええ、流行りの芝居らしいですからね。楽しんでおいで」
そう言って、雪原はいつもの穏やかな笑みを見せた。
雪原もまた、何気ない日常を装っている。
鏡子は微笑んで応え、先に玄関を出た。
椿も笑顔で雪原に応えると、その笑顔がわずかに不安そうに曇った。
ちらり、と柚月を振り返る。
柚月の方もまた、椿を見つめている。
その顔は、何か言いたそうだ。
椿はわずかに期待と喜びが湧き、その言葉を待った。
だが柚月は、わずかに口を開いたものの、そこから言葉を出す前にまたきゅっと閉じ、ぱっと目を逸らしてしまった。
うまく言葉が見つからない。
謝りたいのに素直になれない。
気まずい。
なんだか情けないし、カッコ悪い。
自己嫌悪で顔がゆがむ。
その横顔が、椿には不機嫌そうに見えた。
椿は悲し気な笑みを残して敷居を跨ぎ、柚月の袖の中には、渡せないままのコンパクトが残った。
しばらくして。
「御免」
玄関の外からの声に、柚月が出た。
戸を開けると、そこに立っていたのは雪原の側近、清名だ。
相変わらず、愛想も表情もない。
だがその顔に、柚月はわずかにほっとした。
しかし、妙でもある。
清名なら、雪原は「客」とは言わない。
が、確かに「客」はいた。
清名の隣。
その客は、男子にしては短身な方でやや童顔。
それもあって幼く見えるが、年は一六、七といったところ。
帯刀していることから武士だと分かる。
着物の感じから、中級、いや、上級の武家の子息だろう。
だが、そんなことは問題ではない。
柚月はこの顔を知っている。
昨日、薬屋の前で会った男。
椿が、証、と呼んだ男だ。
――えっ⁉
柚月は思わずそう口から出そうになったが、かろうじてとどめた。
だが、大きく見開いた目で男を見つめ、動かない。
戸に手を添えたまま、固まってしまっている。
そのせいで、ちょうど清名の前に立ちはだかり、通せんぼする形になった。
そこへ、柚月の後ろの廊下から、雪原がひょっこりと顔をだした。
「ああ、来ましたね。入りなさい」
陽気な笑みで招く。
清名は雪原に一礼すると中に入ろうとするが、柚月が邪魔で入れない。
固まったまま、動きそうにもない。
清名は柚月の視線の先をちらりと見た。
男が一人、立っている。
男の方も柚月を見つめているが、その顔はどこか嬉しそうだ。
清名は、まるで何も見えていないかのように全く表情も動かさず、徐に視線を戻すと、勢いよく柚月の頭をどついた。
それも拳で。
「イッッテ…」
柚月は両手で頭を押さえ、涙目になりながら清名を見上げた。
目が覚めるような衝撃に、目がチカチカしている。
清名は相変わらず、恐ろしいほどの真顔だ。
「いつまでそこに突っ立っている。邪魔だ」
ぶっきらぼうな言い方だが、怒っているわけではないようだ。
だが、拳の一撃は効いた。
「すみません、どうぞ」
柚月はそう言って脇によけたが、よけながらどつかれたところをさすっている。
「…痛ってぇ…」
さすりながら、小さくまたそう漏れた。
清名は何事もなかったような涼しい顔だ。
泣きそうな柚月の横を通り、すっと敷居を跨いだ。
当然、続いてあの男も。
――何者なんだ、マジで。
柚月は頭をさすりながらも、まだ涙がたまっている目で自然とまた男を追った。
椿の知り合い、というだけではない。
雪原が、客、という。
柚月の、探るような鋭い視線に気づいたのか、ふいに男が振り向いた。
柚月は思わずギクリとしたが、男の方は気に留める風もない。
それどころか、柚月に向かってニッコリと微笑んだ。
その屈託のない笑顔。
愛想がいい。
子犬のような愛らしさまである。
柚月は、また男から目が離せなくなってしまった。
「柚月も来なさい」
雪原が再び廊下から顔を出し、柚月は、はっと我に返った。
「あっ、はい!」
勢いよく返事をすると、男に一礼して横をすり抜ける。
「ヤッベ、お茶」
バタバタと慌ただしく、台所へと向かって行った。
「騒がしい奴だな」
清名があきれて、ため息を漏らす。
その横で、客の男は、嬉しそうに柚月の背中を見送っていた。