五.やきもちとおにぎり
一刻もしないうち、柚月は離れの自室の前の廊下に座り、空を見上げていた。
――腹、減ったなぁ…。
くうぅっ。
腹が悲鳴を上げている。
柚月はその腹を黙らせるように、片手で抑えた。
台所に行けば、昼の残り物くらいあるだろう。
が、自分で残しておいて、今さらお腹が空いた、とは言えない。
「はぁ」
ため息が漏れる。
弱々しい淡い青色の空に、灰色がかった雲がゆっくりと流れていく。
ふと、昼食の席のことが頭をよぎり、柚月は罪悪感で胸がチリっと痛んだ。
なぜ、あんなにムキになってしまったのか。
分からない。
いや、嘘だ。
分かっている。
街で会った、あの男が気に入らなかった。
そして、椿があの男に見せていた笑顔が。
親し気な、柚月には見せたことの無い笑顔だった。
それを、知りもしない男に向けていた。
いや、自分以外の男に――。
柚月はまた、どうしようもなくイライラしてきて、かき消すように大きく一息吐いた。
「ダッセ…」
嫉妬だ。
そんなことは分かっている。
分かっているのに、どうすることもできない。
ムキになって、二人の間に割って入ったりして。
椿の恋人でもないというのに。
いやむしろ、椿のあの様子。
――もしかしたら…。
柚月は断ち切るように、勢いよく頭を振った。
その先は、考えたくもない。
「ん~~~~~~」
片手で頭をガシガシ掻くと、そのまま肘を胡坐の足に付いた。
『今日からお前は、柚月一華だ』
身にこびりついた言葉がよぎる。
あの日、あの夜から、自分はいったい何をしてきた。
何人斬ってきた。
そしてそのたび、心に蓋をしてきたはずだ。
迷わないように。
情けを掛けないように。
――俺は所詮、人斬りだ。
心を抑え込むことなんて、慣れているはず。
なのになぜ。
こんなにもうまくできないのか。
「はぁっ」
小さく息が出た。
なんだか情けない。
と、その時。
ふと視界の端に廊下の角が入り、目が向いた。
誰か来る。
そう感じると同時に、傍らの刀を握っていた。胡坐の足は、構えようと半分立ち上がりかけている。
そこへひょっこり、廊下の角から、顔がのぞいた。
雪原だ。
瞬間、柚月の体から力が抜けた。
自然と、刀も手から離れ、元の場所に戻っている。
とはいえ、雪原には、一瞬身構えた柚月の姿は見えていた。
だが、雪原に動じる様子はない。
にこりと微笑むと、柚月にゆっくり近づき、隣に座った。
「はい」
そう言って差し出した皿には、大きな握り飯が二つ、乗っかっている。
「お腹、空いているでしょう」
また、ニコリとする。
柚月は口をへの字に曲げ、うっと言葉に詰まった。
腹は減っている。
だが、なんだがすぐには素直になれない。
目の前の飯に、手を伸ばすか否か…。
迷う間もなかった。
ぐううぅううきゅるきゅるきゅる~~~…
葛藤する柚月とは裏腹に、腹の方は素直すぎるほどに全力で空腹を主張した。
空にまで届きそうなほど豪快な音に、雪原が思わず吹き出す。
「ほら、食べなさい」
柚月の顔は、真っ赤にゆで上がっている。
「…ありがとう…ございます」
歯の隙間から漏らすようにそう言うと、皿を受け取った。
もう、恥ずかしいのか、情けないのか分からない。
だがおかげで、少し素直になれた。
「…すみませんでした」
ぼそりと漏らす。
「え?」
柚月の声はあまりに小さく、聞き取れない。雪原は聞き返しながら、柚月の方をちらりと見た。
柚月はさらに乗った握り飯を見つめている。
「飯時に…、空気、悪くして…」
そう続ける横顔が、いつになくしょげている。まるで叱られた子供のようだ。
それが、おかしい。
雪原はまた豪快に吹き出した。
「いや、…いいのですよっ…」
なんとかそう言い切ったが、どうにもこうにも笑いが収まらない。腹を抱えそう出しそうな勢いだ。
なんとか堪えようと片手で目元を覆い、柚月から顔を背けた。
が、肩が震えている。
それを見る柚月の顔。
恨めしそうな目でじーっと雪原の横顔を見つめ、拗ねたように頬を膨らませている。
「あ、いやいやっ…。バカにしているわけでは、ないのですよ…っ。ただっ…かわいいな、と…ハハッ」
雪原は、真剣に答えようとしたが、無理だ。
笑いが漏れる。
「もういいですよっ」
柚月はさらにムッと頬を膨らますと、その頬に握り飯を放り込み始めた。
すっかり拗ねてしまったのだろう。雪原から顔を逸らし、口いっぱいに飯を詰め込んで、もきゅもきゅいわせている。
その横顔を、雪原は笑いを抑えながらちらりと見た。
少年のような顔だ。
いや、子供か。
雪原の視界に、つい先ほどの、廊下の角を曲がった瞬間、ほんの一瞬柚月が見せた鋭い表情が浮かんだ。
あの気迫。
そこにあったのは、人斬りの影。
柚月が初めてこの邸に来た夜が重なる。
あの時、柚月はひどい怪我を負っていた。
座っているのさえ、辛かっただろう。
『こうして、きちんととお目にかかるのは初めてですね。柚月一華さん』
雪原がそう声をかけると、柚月はわずかに驚いた顔をした。
当然だ。名乗ってなどいなかったのだから。
だが。
『いえ、開世隊お抱えの暗殺者、人斬り柚月さん』
雪原がそう続けた瞬間、跳ね上がって構え、鋭い目で雪原を睨みつけた。
怪我で、思うように動かないはずの体。
だが、そうとは思えない速さ。
何より、その気迫。
雪原を鋭く捉える柚月の目は、情を宿さない、人斬りの目だった。
――それが、今では。
雪原は胡坐の足に頬杖をつき、見守るような目で柚月を見つめた。
柚月は相変わらず、ムキになって、もきゅもきゅと握り飯をほおばっている。まるで、冬眠前のリスのようだ。
雪原は、今度は、ふふっと優しい笑いが漏れた。
大きな握り飯を二つとも食べ終える頃には、柚月の気持ちも落ち着いたらしい。指についた米粒まで、おいしそうに食べている。
その様子を見守っていた雪原が、頬杖をついたまま、ふいに口を開いた。
「明日、ここに客が来ます」
柚月は、米粒を食べるのをピタッと止めた。
「ここに、ですか?」
聞き返すのも当然。
城や本宅ならまだしも、この別宅に客が来るなど。
珍しい。
というより、不審だ。
雪原の穏やかな顔も、どこか意味深に見える。
「ええ。お茶をお願いできますか?」
そう言いながら、雪原は頬杖をやめ、ゆっくりと身を起こした。
柚月からは雪原の横顔しか見えなくなり、表情が余計読み取りにくい。
「はい」
柚月の声に、緊張が混ざった。
「それから、夕刻には出かけます。一緒に来なさい」
そう言い残すと、雪原は去っていった。
同行。
つまり。
――護衛か。
柚月の眼光が、きゅっと鋭くなった。