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壱.愛人鏡子の苦悩

 年が明けて、一月。

 雪原麟太郎の別宅の台所では、かちゃかちゃと朝食の片づけをしている音がしている。かじかむほどの冷たい水で皿を洗っているのは、雪原の愛人、鏡子だ。


 この鏡子、町を歩けば誰もが振り向くほどの美人だ。その美人の顔が曇っている。

 底冷えする土間にいるせいでも、冷たい水のせいでもない。

 隣で皿を拭いている椿が、今にもため息をつきそうなのである。


 椿は口にこそしないが、顔が、つまらないな、と言っている。この娘にしては珍しいことだ。だが、その原因は簡単に想像がつく。


「せっかく久しぶりに椿が帰って来たっていうのに。柚月さんたら部屋にこもりっぱなしで、いやーね」


 鏡子は皿を洗う手も止めず何気なく口にしたが、その言葉に、椿の手が一瞬ピクリと止まった。が、すぐに拭き終えた皿を脇に置くと、次の皿に手を伸ばす。


「柚月さんも、正式に雪原様のお小姓になられたのだから、色々とお勉強しないといけないことがあるのよ。…きっと」


 そう言いながらも、軽いはずの皿が重そうだ。「きっと」と、自分に言い聞かせるように付け足すあたり、気持ちが表れている。


 椿もまた雪原に仕える身。世話係として傍近くにいる。つい最近まで、忙しくて城に泊まり込んでいる雪原について、ずっと城にいた。それが、雪原が久しぶりに「本宅に帰る」と言うので、この別宅に帰ってきたのだ。


 椿自身は気づいてもいないが、この邸に向かう足取りは軽かった。

 久しぶりに会える。

 そう思った相手は、鏡子だけではない。


 いや、むしろ。


 邸に着き、玄関の戸を開けると、いつのように鏡子が出迎えてくれた。

 だが、そこに柚月の姿はない。


「…柚月さん、今部屋なのよ」


 言いにくそうにそう言う鏡子の笑顔が曇っている。

 椿は妙に感じたが、その理由はすぐに分かった。


 その日の夕食の席のことだ。

 椿はやっと柚月に会えた。


 いつぶりだろう。

 幾日、一月は経っただろうか。

 そう思うと、椿は自然と笑みになっていた。


「ああ、椿、帰ってたんだ。おかえり」


 柚月の方もそう言って、ぱっと笑顔を見せた。

 が、それはその時だけ。

 柚月はさっさと食事をすませると、早々に部屋に戻っていってしまった。食事の間も何か考え事でもしているのか、ずっと上の空といった感じで、ろくに言葉も交わせないままだった。


 その後も、柚月は離れの自分の部屋にこもったきり。食事と風呂と厠以外、出てくることがない。たまに出て来たかと思えば、部屋の前の小さな庭で刀を振っている。


 それも、何かをかき消すかのように、一心不乱に。


 そして疲れ果て、廊下に寝転がると、また部屋に戻っていく。

 今朝など、そのまま庭でへたり込んでいた。

 雪がちらつきそうなほどの寒空の下、自分の限界も分からないほど、打ち込んでいたのだろう。


 いったい、何がそうさせるのか。


「ずっと部屋に(こも)っているよりはいいけど、あんな寒い中でぶんぶん刀を振り回して。風邪でも引かなければいいけど」


 鏡子はあいかわらず、皿を洗う手も止めない。だが、あきれたような言い方の裏で、内心、柚月のことが心配で仕方ない。その証拠に、声の調子とは裏腹に、顔が晴れていない。


「お小姓といっても、正式には陸軍二十一番隊所属小姓隊士だから。軍人さんなんだし、鍛練くさいされるわよ」


 椿はそう言いながら笑おうとしたが、苦笑いになった。

 椿自身、柚月がやっていることが、鍛練、だとは思っていない。

 あれではまるで、何かに取り憑かれているようだ。

 だが、かける言葉も見つからない。

 とうとう、椿からため息が漏れた。


 鏡子としては、こちらも心配である。

 皿を洗い終えると、渡り廊下を渡り、離れの柚月の部屋へ向かった。


「柚月さん」


 部屋の前の廊下に座り、障子戸を開けずに声をかけた。


「…はい」


 中から柚月の返事は返ってきたが、動く気配はない。

 鏡子は少し声を張った。


「椿にね」

「…はい」


 やはり、返事はある。


「お使いを頼もうと思うのだけど」

「…はい」

「あのね」

「…はい」


 柚月の声の調子に変化はない。

 最初の返事から魂が抜けたような声をしている。


「柚月さん」


 鏡子はさらに声を張った。


「…はい」

「開けますよ」

「…はい」


 柚月が応えた瞬間、鏡子が無遠慮に障子戸を開け、スパーンッと、怒りをあらわにしたような音が柚月の耳を貫いた。

 さすがに驚いたのだろう、柚月はビクリと肩を震わせると、部屋の奥の文机から、ぱっと鏡子に顔を向けた。

 部屋の入り口に座る鏡子は、背中から当たる日の光が、まるで後光のようだ。


「え、俺、…何か、忘れてました?」


 柚月はそう聞きながらも、顔は鏡子に向けたままだというのに、手は勝手に読みかけの本をそっと閉じている。

 もはや本能だ。


 何かは分からない。

 だが、ただきっと。

 いや絶対。

 叱られる。

 という気がしている。


「え…っと。…なんでしたっけ?」


 柚月はバツ悪そうに頬を掻いた。やはり、つい今しがたの障子戸を挟んでのやり取りは、記憶にないらしい。あらかた、名前を呼ばれたので、条件反射的に口が勝手に返事をしていたのだろう。

 聞こえてはいたが、聞いてはいない、というやつだ。

 鏡子はあきれて「ふう」と一息漏らした。


「椿にね、お使いを頼むから、柚月さんも一緒に行ってきてくれないかしら」


 今度はしっかり言いつけるような口調で言うと、柚月もさすがにちゃんと聞いていた。


「ああ、お使いなら、俺行ってきますよ」


 そう言いながら腰を上げかけたが、鏡子は凛と背筋を正したまま、微動だにしない。


「柚月さんに頼んでも、また忘れて手ぶらで帰ってくるでしょう」


 ぴしゃりと言われ、柚月はうっと黙ってピタリと止まった。

 つい先日のこと。

 豆腐を買ってきてほしい、と言われ、市場まで行ったのに、ぼんやり歩いてそのまま何も買わずに帰ってきた、という前科がある。


「それに、椿も気晴らしになると思って。ほらあの子、ずっとお城に詰めていたでしょう? 久しぶりに町を歩いてみるのも、いいと思うのよ」


 あくまで椿のため。そう言えば、柚月は動くだろう、と鏡子は読んでいる。そしてその通り、柚月は素直に受け入れ、まるで冬眠から覚めた熊のようにのそりと部屋から出てくると、椿と二人、街へと出かけて行った。


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