序
幕開けは都の闇の中。渡りを経てココへ至る。
あれは、細い月が浮かぶ夜だった。
その娘は、突然柚月の前に現れた。
透き通るような白い肌。絹糸の様に繊細な髪色は明るく、この国の者にしては珍しい緑が混ざった目。そしてその目を細め、鈴を転がしたような声で笑う。
「椿」
その名を呼ぶことに、一緒に過ごすことに、特別な思いを抱くようになったのは、いつからだろう。
柚月自身、分からない。
柚月が彼女に感じたものは、はじめは小さな違和感にすぎなかった。
何か分からない。だが、引っかかる。
その違和感は、会うたび不思議と胸に残った。
それを感じ取ったのは、柚月だったからだろう。
あの頃の彼は、昼と夜とで別の顔を持っていた。
柚月一華。
日の当たるうちに会えば、まだ幼さの残る、二十歳手前の気のいい青年だ。
だが、夜に会えば。
その姿を見たことを、悔いる間もない。
決して短身ではないが、夜の闇の中では女に見間違うほど華奢な体。
その姿からは想像もできない速さ。
気取らない彼らしい、ザンバラ髪のような無造作な短髪が揺れるのを見た頃には、皆斬られていた。
彼は、ひとたび命が下れば、都の夜の闇にまぎれ、護衛の群れにたった一人で斬り込んだ。
その中央に守られる、政府要人を暗殺するために。
何人も斬った。
誰であろうと斬った。
血の匂いが、身に染みついて取れなくなるほどに。
その繰り返しの中で、研ぎ澄まされた感覚。
だからこそ、感じとった違和感。
椿には、本来あるべきもの、誰にもあるものが感じられない。
それは、気配だ。
椿には、気配がない。
そのことに気づいた時、柚月は、偶然と思っていたこの出会いの、惨い事実を知らされた。
あの日、あの夜。
椿が柚月の前に現れたのは、柚月の命を奪う為。
人斬り、柚月一華を抹殺する為だった。
そしてその任を授かったのは、椿もまた、人斬りだったからだ。
そうだと知っても、柚月は胸にある思いを止められない。
それはもう、ただの違和感ではなくなってしまっていたから。
「…寝落ちてた…」
柚月は、もそっと身を起こした。
文机に向かって本を読んでいたはずが、いつの間にか、その本を枕にしてしまっていたらしい。
目の前の明り取りの障子が、日の光を浴びて白く照らされている。
それさえ目に染みて、眩しい。
柚月は、片手で目を隠した。閉じた瞼に、椿の姿が映る。
かわいい。
「はぁ~…」
ため息のような息がもれた。
ただそれは、椿の可愛さに、ではない。
――俺は所詮、人斬りだ。
人の心なんて、失くしたと思っていた。
なのに。
――いったい、いつから…。
情を捨てた人斬りにさえ抗えない。
恋とは、人の心を犯す、猛毒だ。