(3)2月12日 チェゲルデンバーって何?
人気のない路地を通りながら、俺とリリィはコンビニに向かって歩き続ける。
通路の両脇にある住宅は、呼吸をするかのように、家の中から灯りと生活音を漏らしていた。
足下をぼんやり照らす頼りない街灯を眺めながら、俺は隣を歩く彼女の横顔を盗み見する。
さっきまで落ち込んでいたのが嘘だったかのように、ジャージに身を包んだ彼女は楽しそうに微笑んでいた。
彼女の浮かべる笑みはマッチの火みたいに頼りないものであったが、見ているこっちが明るい気持ちになれるくらい穏やかで優しいものだった。
一年前、この世界に来たばかりの彼女の事を思い出す。
あの時の彼女は氷みたいな目をしていた。
加えて、威圧感を与えるような──完璧過ぎる美貌であったため、見ているこっちが申し訳なさを感じるくらいに冷たいものだった。
(本当、身も心も丸くなったなぁ)
ぼんやりリリィの事を考えていると、横を歩く彼女は唐突に雑談を俺に振る。
「そういや、この季節になったら否応なしに思い出すわね。あの行事を」
彼女は手袋に吐息を吐きながら手を温めようとした。
盗み見した罪悪感から俺は、慌てて彼女の横顔目を逸らそうとする。
「あ、あの行事ってあれか?今月の十四日にある例の──」
「ええ、例のアレよ。私が一番嫌っている例のイベント。本当、この世からなくなって欲しいわ」
そう言いながら、彼女は不快感を隠す事なく、肩にかかった金髪をお嬢様っぽく振り払う。
どうやらバレンタインデーというイベントを心底嫌っているらしい。
「へぇ、意外。リリィみたいな美人だったら、同性からでも貰ってそうなのに」
素直な感想を吐きながら、俺は視線を彷徨わせる。
「は?貰う?何言っているのよ、コウ」
「ん?アレだろ?バレンタインデーの事だろ?」
「いや、チェゲルデンバーの事だけど」
彼女の口から飛び出した意味不明の単語が俺の頭を激しく揺さぶる。
「え、……?ちぇげる、れんじゃー?」
「ノーノー。イッツ、チェゲルデンバー」
「何だよ、その宇宙から来襲して来た侵略者みたいな単語は。初めて聞いたぞ」
「こっちだって、ばれたいんでーとかいうの初めて聞いたわよ」
自分の当たり前と彼女の当たり前が違うと知った時、俺は彼女が異世界から来た事を改めて実感する。
「え……と、そのチェゲルデンバーってのは、一体どんなイベントなんだ?」
戸惑う俺の様子を見て、ようやく彼女は把握する。この世界にチェゲルデンバーという得体の知れないイベントがない事を。
「そういや、ここは私がいた世界とは別世界だったわね。うっかり忘れていたわ」
「いや、うっかり忘れんなよ」
この世界に適応し過ぎた結果、異世界から来たという事実を忘れかけている彼女についツッコんでしまう。
彼女は俺に構う事なく、淡々と異世界の文化について話し始めた。
「チェゲルデンバーってのはね、簡単に説明しちゃうと、……」
「うんうん」
「乳首を凍らせた裸の女性が、四つん這いになった全裸の男の肛門目掛けて雪玉を投げつけるお祭りよ」
「ギャグに振り切り過ぎて抜けなくなるエロ漫画の導入!!」
想像していたよりも狂気に満ちたイベントだった。
「残念だったわね、コウ。このお祭りは性行為を目的にしたものではないの。その年の五穀豊穣などを祈る神聖な祭祀なの」
彼女はうんざりした様子で、生まれ育った世界の文化を語る。
恐らく彼女自身もチェゲルデンバーが狂っている事を自覚しているのだろう。
もしかしたら、嫌な思い出が沢山詰まっているかもしれない。
「こ、この世界でいう祈年祭みたいなもんか」
「ん?何それ?ばれんたいんでーと関係あるの?」
「いや、バレンタインデーとは何も関係がない。祈年祭ってのは、毎年2月17日に行われている神道のお祭りの事で、その年の五穀豊穣などを祈るために行われているんだ」
大学で民俗学を専攻している俺は、リモート授業で教授から聞き齧った情報をまるで自分のものであるかのように彼女に話す。
「へえー、その祈年祭ってのは、チェゲルデンバーとよく似ているわね。この時期に豊穣を祈るイベントを開くのは、あっちもこっちも変わらないのかしら?」
「かもな。まあ、俺はその祈年祭ってのに参加した事ないから、その祭りがどこであっているのか、具体的に何をするのか、よく知らないんだけど」
「え、じゃあ、この世界の人達も祈年祭の時に女性の乳首を凍らせて、男の肛門目掛けて雪玉投げつける事してんの?」
「この世界の人間は、そこまで頭おかしくねぇよ。てか、何で乳首凍らせたり、肛門に雪玉投げつけたりしてんだよ?異世界人の趣味か?」
チェゲルデンバーとかいう狂気しか感じない謎のイベントに怖気付きながら、俺は彼女に質問を投げかける。
「私が記憶している限り、女の人の乳首を凍らせるのは春まで母乳を節約するためだって。で、春になったら、その時の豊作を祈って女の人達が畑に母乳をぶっかけるの。まあ、殆どの参加者が未婚かつ生娘だから、母乳出ないんだけど。だから、牛から搾り取った乳を胸に垂らしながら、まだ何も植えていない畑に振りかけるって訳」
彼女の語る狂気に満ち溢れたイベントの内容を聞きながら、俺は顔を引き攣らせる。
日本にも変わった祭りは多数あると聞くが、ここまでトチ狂った祭りは多分ないだろう。
と、言うより今のご時世、PTAが黙っていない。
もしそんなアブノーマルプレイに勤しむ人達がいたら、"人権ガー"とか"子供ニ悪影響ガー"とか言われて、速攻で中止に追い込まれるだろう。
「で、男の人の肛門に何で雪玉を投げつけるのかについてなんだけど……これに関しては未だに謎に包まれているわ。国立魔導学園の偉い教授達が研究しているんだけど、未だに解明されていないらしいの。コウに分かりやすいように説明すると、あっちの世界版フェルマーの最終定理なのよ、男の肛門に雪を投げる理由は」
「フェルマーと一緒にすんなよ」
フェルマーの最終定理はチェゲルデンバーと違って、汚くもないし、謎はとうの昔に解明されている。
むしろこっちで言うナスカの地上絵に該当……いや、それはナスカの地上絵さんに失礼だ。
ていうか、別にその謎が解明されなくても人類史に何の影響もないような気がする。
「一説によると、雪玉を投げつける理由は健康促進のためらしいわよ」
「多分、違うと思う」
むしろ健康を害する行為だと思う。
もしリリィが元々いた世界でもコロナが蔓延していたら、その祭りを行う度に大規模クラスターが発生していたに違いない。
「私も小さい頃からチェゲルデンバーに参加させられたけど、本当、地獄だったわ。全裸で雪原の上を駆け回らなきゃいけないわ、乳首は冷凍されるわ、頭禿げた貴族のおっさんの肛門目掛けて、雪玉投げつけなきゃいけないわ。……本当、もう二度と参加したくない」
彼女は今まで見た事ないくらいに、げんなりした表情を浮かべると、重く長い溜息を吐き出す。
こんな彼女は初めて見た。
と、言うより異世界から追放されたばかりの彼女の方がまだ顔色は良かった。
恐らく彼女にとって、チェゲルデンバーの参加は異世界から追放される事よりも精神的にキツイものかもしれない。
「え、お前、ずっと参加して来たのか?その頭イカれたイベントに」
「んな訳ないでしょ。流石に七歳くらいからは仮病使って、参加を拒否したわ。他の貴族の娘も仮病使うのが当たり前だったし。……まあ、あの憎き平民は、ずっと参加してたみたいだけど」
「憎き平民……ああ、お前が虐めていた相手か」
「ええ、私が学園から追い出そうとしたあの憎き平民よ」
自分の婚約者を寝取った"憎き平民"を思い出して腹が立ったのか、リリィはその場で地団駄を踏む。
「しかもよ!あの平民、あろう事か、チェゲルデンバーで私の婚約者と知り合ったのよ!!あの女が王子の肛門投げつけた所為で、乙女ゲー定番の『へっ、面白い女だ』イベントが起きたのよ!!!!防げる訳ないでしゃん!!ゲリライベント!!!!あの平民の所為で、私は……!私は……!くそ、変な仏心出さなければ良かった!!」
乳首凍らせた女主人公と肛門に雪玉投げつけられたイケメン王子、そして、婚約者を寝取られた悪役令嬢。
かなりシュールな絵面だった。
もしそんな乙女ゲームが発売されていたら、SNSやネット掲示板とかで話題になっているだろう。
勿論、バカゲーとして。
ていうか、リリィはどうやって憎き平民とやらに嫌がらせしたのだろう。
チェゲルデンバーに毎回参加するような乳首氷漬け女に普通の嫌がらせをしても、あまり効果ないような気がする。
「そういう訳で私にとって、チェゲルデンバーには良い思い出がないのよ……!乳首凍らされるわ、変なオヤジの肛門目掛けて雪玉投げつけなきゃいけないわ、乳首フローズン女の所為婚約者の性癖がエスカレートするわで、本当滅べばいいのにあんなイベント!!」
むきゃー!とわざわざ口で言いながら、リリィは身体全体を使って怒りを露わにする。
「ま、まあ、落ち着けって。この世界にはチェゲルデンバーみたいな頭おかしいイベントはないんだし。というか、……お前、その婚約者ってのが好き、……だったのか?」
複雑な気持ちを抱きながら、隣を歩く彼女に恐る恐る疑問は呈する。
「好きだったわよ、あいつの名前を領収書に書くだけで好きなもの手に入ったし」
「財布的な意味で!?」
「そりゃあ、そうでしょ。逆に聞くけど、コウは肛門で雪玉を受け止めるような全裸の色物を異性として見る事ができる?」
「異性どころか人として見れない」
「幾らイケメンだったとしても、一国の主になる男だったとしても、腐る程お金持っていたとしても、肛門雪塗れの男を好きになる訳ないっての」
ちょっとだけ、肛門スノウマン王子を巡って乳首フローズン女と恋の駆け引きをするリリィの姿を思い浮かべてみる。
幾ら好意的に考えても酷い絵面しか思い浮かばなかった。
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