(1)2月12日:晩飯前の出来事
新型コロナウイルスの国内累計感染者が千人を超えたばかりのある春の日。
俺──上寺光は異世界から追放された悪役令嬢──リリードルチェ・バランピーノ──と遭遇した。
『何見てんのよ』
橋の下で膝を抱えて座っていた悪役令嬢──愛称リリィはとても美しい容貌をしていた。
高級な織物を想起させる金髪。
卵のような輪郭に翠色の宝石を想起させる大きな瞳、上品さを感じさせる小さな口に彫刻のように美しく高い鼻。
肌は新品の陶器のように美しく、シミ一つ存在しない。
必要最低限の肉しかついていない四肢と相反するように胸や尻は厚手のドレス越しでも豊満である事が伺える。
座っているため、腰の辺りは良く見えないが、恐らく腰も括れているだろう。
壮麗かつ鮮麗されたドレスを着こなす彼女の姿は、──少々衣服が泥で汚れていても──浮世離れしていた。
あの頃の彼女の雰囲気は、触れたら傷がついてもおかしくないくらいに刺々しており、氷のように冷たかった──と記憶している。
だが、彼女の並外れた容姿よりも──病的な程に細い身体の方が目を惹いた。
彼女の身体はモデルが裸足で逃げ出すくらい細かった。
見ているこちらが心配になるくらいに。
彼女の身体は硝子細工でできているみたいで、今にも砕け散りそうなくらい、今にも吹き飛んで消え去りそうなくらい、脆く儚げに見えた。
「本当、あの頃のリリィは病的に細かったなぁ」
台所に設置しているラジオから流れる新型コロナウイルス関係のニュースを聞きながら、俺は夜ご飯の準備を続ける。
どうやら一部地域の緊急事態宣言解除は見送るみたいだ。
(自分が就活する頃には終息して欲しいんだけどなぁ)
そんな事を思いながら、卵を掻き混ぜていると、突如、脱衣所からリリィの声が聞こえてきた。
「ふん!ふん!ふん!!ふーん!!!!」
何かと格闘しているような彼女の声が脱衣所の薄い扉越しに聞こえてくる。
一体、何をしているのだろうか。
「おーい、リリィー。何をふんふん言っているんだー?」
かき混ぜた卵を油を敷いた鉄板の上に入れながら、脱衣所で戦闘(?)を繰り広げている彼女に声を掛ける。
が、彼女はかなり集中していたのか、俺の声に反応しなかった。
「ふーん!ふーん!!ふーん!!!」
大きなカブを抜くかのような必死さを醸しながら、リリィは何かと闘い続ける。
鼻唄を歌う割には随分気合が入っているように聞こえた。
心配になった俺はコンロの火を消すと、脱衣所にいる彼女の下に向かおうとする。
その時だった。
突如、脱衣所から何かが破ける音と物凄い音が聞こえて来た。
「きゃっ!!」
彼女の短い悲鳴が聞こえた途端、俺は反射的に駆け出す。
そして、勢い良く──何の断りを入れる事なく──俺は脱衣所の扉を開く。
「リリィ!?大丈……夫、か……?」
扉を開けた先の光景を見て、思わず俺は二度見してしまった。
目を凝らして、もう一度目の前の光景を見る。
が、何度目を凝らしても下着姿のリリィが尻餅をついている姿しか視界に映し出されなかった。
何が起きたのか確かめるために、俺は半裸の彼女をじっと観察する。
水分を多分に含んだ美しい金髪。
に翠色の宝石を想起させる大きな瞳、餅を連想させる柔らかそうな頬の所為で存在感を失いつつある小さな口に、脂肪に埋もれつつある高い鼻。
肌は新品の陶器のように美しく、シミ一つ存在しない。
小柄な女性の太腿並の二の腕にある種の色気を感じさせる大根並の太腿。
余分な肉がついた四肢に比例するかのように胸や尻にも過剰な肉がついており、豊満という言葉さえ生易しいものと化している。
半裸かつ尻餅をついているから、今の彼女の腹部がよく見える。
彼女の腹肉は鏡餅のように下着の上に乗っかっていた。
重なり合う肉と肉の間にある水滴が、彼女の腹部の存在感をより一層際立てる。
一年前まではあった彼女の括れは見る影もなく消失しており、彼女のお腹はぽっこり前に突き出していた。
彼女の周囲に散らばった布切れを見る。
かつて彼女が着こなしていた壮麗かつ鮮麗されたドレスは、桜の花弁みたいに辺り一面に散らばっており、見るも無惨な姿になっていた。
林檎のように真っ赤に染まった彼女の顔と服として機能しなくなった豪華そうなドレスを交互に見る。
今の彼女の姿は、──個人的に少々脂肪に塗れていると思うが──十分、魅力的な容姿をしていた。
多少、横に大きくはなったが。
見ているこちらが心配──主に生活習慣病の心配──するくらいに。
彼女の身体はマシュマロでできているみたいで、餓死する可能性が考えられないくらいに、風が吹いてもビクともしないくらい、しっかりしているように見えた。
「良かった、何事もなくて。大きな物音が聞こえて来たから、倒れたかと思ったぞ」
どこから見ても健康そうなリリィを見て、俺は安堵の溜息を吐き出す。
すると、俺の眉間に風呂桶が飛んで来た。
「あいてっ!?」
ヒリヒリ痛む眉間を押さえながら、俺は風呂桶が飛んで来た方に視線を向ける。
先ず、タコみたいに顔を真っ赤にしたリリィの姿が目に入った。
次に彼女が下着姿である事に気づいた。
そして、最後に彼女が痩せていた時のドレスを着ようとして失敗した事を把握した。
「……あー、そうか。そういう事か。ごめん、リリィ。お前の痴態、覗いちゃって」
どうやら俺の要らない気遣いにより彼女の尊厳を傷つけてしまったみたいだ。
その事を完全に理解した俺は、人差し指で自分の頬を掻く。
その瞬間、俺の額目掛けて、石鹸が飛んで来た。
異世界から追放された自称悪役令嬢と同棲して早一年。
今日も彼女は元気に肥えているみたいです。