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船医レイナン、難破船から美女を拾う

登場人物は、レイナン(船医・研究者)、イリーナ(美女)、ジャンナ(娘)、ベン(社長)が中心です。


 序章


「難破船だぞ!」

甲板の航海士の声が上がった。まわりに幾人もの人だかりができた。

 黒蟻のように船の一角を埋めた汗臭い男どもを押し分けて、白衣の男が、船縁にズイと身を乗り出した。航海士たちより一段抜けて背が高く、がっしりとした立派な体躯をしていた。手を目の上に当てがい、冷やかな視線を海上に注いだ。

「人がいるみたいだ。」

その視力はアフリカのキリン並みだった。双眼鏡を手にした者が、ぎょっとして男を振り返った。

 皆は静まり返った。誰かがチッと舌打ちした。

「漂流者を拾ったって、ロクなことになりゃしねぇんだ。」


 貨物船は、小型船の残骸に船体を寄せた。鎖はしごが下ろされ、屈強な船員が三人、海面上に降り立った。鉛色の波が、ユサユサと小舟を揺らして、弄ぶ。だが男たちの体は、びくともしない。彼らには同僚のはやし声は、遠くに聞こえる。風が強くなってきていた。

 船首部に、女性がうずくまっていた。毛布で体を包んでやった。しかしブルブルと震えていた。何かを大事そうに抱えて、離さなかった。

 茶っ気た髪は濡れそぼり、テカテカと光を跳ね返していた。白い衣服はとうに水気を含んで、肌にぴったりと張り付いていた。寒さのためか、肌は透き通るように白かった。眉は美しく弧を描き、整った、上品な目鼻立ちだった。唇だけが一点、紅色に、いや今は紫色がかって、浮かび上がっていた。彼女は口を利かなかった。

 眼を見た者はわかっただろう、両のまなざしは海の色をしていた。

 抱いているものが何なのか、気づいた者は一人もなかった。




 一九八十年代初頭――

 韓国・釜山の港から、一隻の貨物船が北東に進路を指し、海原を駆けていた。韓国籍の船で、乗員には誰も、ロシア語が通じる者がいなかった。だから彼らは、この船に乗り込んでいる二人のソ連人には、身振り手振りで何もかも伝えなければならなかった。


二人は乗員ではなかった。密航者だった。

ソ連からの脱出を試み、船の寄港先への亡命を願っていた。

亡命、それは母親の方が口にする、唯一の英語だった。


女は船長の手をつかみ、その言葉を繰り返した。彼の掌に金のネックレスを握らせて、その上から冷たい両手で包みこんだ。


「亡命、亡命……」

と彼女はたどたどしく言いながら、船長の、ネックレスを握ったままの手をさすっていた。

「亡命? 奥さん、亡命したいのか? だからあの難破船がソ連の領海を抜けるまでの丸一日、乳飲み子を抱いたまま、船倉に閉じこもっていたのか?」

 女はしきりにうなずいた。

 船長は金のネックレスを、しげしげとながめた。

「どうもこいつは贋作ではないらしいな……。すると、この二人は、党幹部の愛人か隠し子かなのだろう。亡命を手助けしてあげても良いが……この船にはそもそも、ロシア語の通訳を乗せていないのだ。弱ったなあ……。」


 当の密航者の女は、ひたすら船長を凝視しつづけた。言葉が分からずとも船長の心配を見越しているようだった。彼女のしつこい視線を精一杯振りほどき、

「分かった、分かった。そのうち何とかするからさ。ここの部屋で大人しく待っていろよ。船の持ち主に、電話さ、してみるから。」

そう言ってから、船長室をあとにした。彼は頭をかきながら、つぶやいた。

「困ったなあ……。あの二人。……社長が、乗り気になってくれると、良いのだが。」


 彼は無線室に入って行った。当番の無線士が、当惑した顔で、船長を見つめた。極力関わりたくない、というのがこの船の皆の考えだった。

 船長も同様、二人の密航者とはできるだけ距離を置きたがっていた。しかし彼は、この二人を手助けすれば、いくらかの金になる、と見ていた。この二人は金を持っている。母親も、娘も美しい。ボロをまとっているから分かりづらいが、あの母親の所作は、まぎれもなく上流階級のそれだ、と思った。

「それにしても、通訳が来ないようでは、あの二人の名前も正体も聞きだすことができない。」

と船長は考えていた。


 船内の廊下を、こちらに歩いてくる者がいる。薄暗く、顔はよく見えない。白っぽい服を着ている。

――そうだ、白衣だ。この船に唯一乗り込んでいる医者だ、と船長は思いあたる。船長は、不覚にもその医者の名前を思い出せなかった。事実、医者とは深く話したことはない。最近は、ほとんど医務室から出てこないらしいのだ。なにも、揺れる船に、何やら訳のわからない実験を持ち込んでいると聞いている。


いや、と船長は首を振る。たまに船尾で見かけている。確か、その医者も海は好きだとは言っていた。しかし存在感のない医者だった。背こそ高かったが、中肉。平凡な顔立ちをしている。彼がどんな類の話題を持っているのか大部分の人は知らない。話しかけない限り、ほとんど口を開かないからだ。

――そういえば、亡命者の乗った小型船を見つけたのは彼だった。

船長は、振り返って、今通り過ぎた男の背中に声をかけようとした。だが結局、船長はためらった。彼はその時まさに、医者が密航者のいる部屋にノックをして、入っていくところを見たのだ。


 母親は薄暗い船長室の中で、乳飲み子の娘を抱き寄せて、子守歌を歌い聞かせている。赤ん坊はスヤスヤと寝息を立てて、何も知らないまま、深い眠りの中にいる。

久しぶりに食事を分け与えられた母親が、再び乳をやることができるようになった。母親の目には涙がある。嬉しいのか、悲しいのか、先の見えない将来への不安か。子供を連れたまま、一人で、自力で、これから異国で生きていく。子供は手放すべきか。でも……手放したくはない。一人で生きていくのは嫌だ。二人で生きるのだ。それにまだ祖国に送り返されるかどうかも分からないとも、心は逡巡する。

母親は頬に涙を伝わらせながら、うつむいて、娘から目を逸らせた。――この子には、私からあげられるものは、何もない。


先程、無線で掛けあってみたのだった。

「どうにかしてくれ! 社長!」と。


誰にも、打開策が見つからないというとき、船長はマイクに向かい、船の所有者との意思疎通を試みた。

「母親には、おそらく俺たちの言葉が通じないんだ。俺たちゃ、いまは身振り手振りでやっている。だがこれでは埒が明かんし、あの母子は、見るからに密航者なんだ! 大きな問題に発展してしまう恐れまで、十分ある!」

 自宅で無線を受信した社長は、「よし! ならば、弁護士を送り込もう!」という前に、待て、と思い直した。待て。何か忘れてないか。あの男の存在を忘れていないか。――影の薄い男だが、わたしなら圧倒的な信頼を寄せられる。


社長、伊藤ベンジャミン・ベンは、アイアン・スター海運の創業者でもある。栗色の髪で黒い瞳、彫りの深いハーフの容貌。甘いマスクの裏に、誰よりも大きい野心が隠れている。祖父の伊藤修市から受け継いだ財産を、ベンは何倍にも膨らませた。人とすぐに打ち解け、必要な情報を難なく引き出す才能が、その役に立ってきた。


社長の思惑を無視して、船長は何やらひっきりなしに言い続けている。

「至急、弁護士をよこしてください! ついでに、できれば医師も交換して下さい! 今の船医には、コミュニケーション的な面での問題があって、協調性に欠けるというか、この船の中で著しく浮いているのです。」

と、船長は必死の声音だ。


――そうかもしれないが……。

ベンは船の乗組員の名簿を見ながら、片手で頬を押さえた。その船長と医者が今回の公開で初めての顔合わせだということに気付いた。迂闊にも、ベンは前もって船長にその医者のことを詳しく話さなかった。――ああ、自分からは決して言い出さない男だった……だから船長が知るわけがない!

「その男! その男こそ! あいつめ! いったい何やっているんだ?」

「何のことです?」

と船長はいぶかしむ。

「レイ=ナン=ウェイという男だろう、そのどうしようもなく医者に向いていないような、研究気違いみたいな船医は!」

「へえ、……? 中国人だったんですか? あの医者は。」

「国籍は、シンガポールらしい。しかしその男の言語能力についてはわたしが保証する。日本語、英語、その他諸々の言葉を操る。しかもかつて、ソ連に住んでいたこともあると聞いている。一か月住めば、その国の言葉を話せるようになる男だ、絶対にロシア語を話すはずだ。そして、彼は亡命者の事務的手続きにも、詳しいはずだ。」



 第1章(一九七八夏)


 東シナ海上空へ急行するヘリコプターには、一人の男が乗っていた。船の一員が到来を待ち望んでいる男だった。青い海面や白い壁の家々、農園の緑が、黒い機体の側面に、映り込んでは、瞬く間に後方へ流れていった。男は、その日の午前中に、一本の電話で叩き起こされたのである。

 前日彼は、九大の近所のバーで一晩飲み明かしていた。だからその日の朝は、貸し部屋のベッドの上でひっくり返り、ズキズキとくる二日酔いの頭痛に悩まされていた。ちょうど医学論文を一つ書きあげ、印刷にまわしてきたところだった。二週間後には、医学雑誌のどこかに載せられ、店頭に並ぶことだろう。解放感と喜びを、誰か愛しい人と分かちたいところだったが、彼にはそんな人などいなかった。いや、二年前はいたのだが。だから、しがないバーで、マスターに酌をしてもらうことしかできなかった。

 彼の部屋の電話がけたたましく鳴った。一度目では、起き上がらなかった。三度目になって、ついに目覚めた。四度目で、毒づきながら、受話器まで重い体を引きずっていった。

「もしもし?」

「レイナンか? 俺だ、ベンだ。」

なじみのある声がした。

「なんだ、ベンか。取るんじゃなかった。」

目をこすりながら、受話器を下ろして、電話を切ろうとした。――なにせ、こいつとは中学からの腐れ縁なんだ。この男のために、何度ひどい目に遭ったか。

「待ってくれ! 金になる話だ! 聞いてくれ!」

と高校からずっと腐れ縁の親友・悪友、敵に回したら危険な男、超大富豪・伊藤のお家のベンジャミン、さらにおまけにラスト・ネームも、ベンという男が叫んでいる。レイナンは、再び受話器に口を寄せ、

「金? 私は、金なんかには興味ないんだ。失礼。」

と言って、切ろうとする。

「切るな! 頼む。人助けだ。日本語か、マレー語がわかる者が、そして、できれば医者が、必要なんだ。それは、きみだ。報酬は高く出してやる。頼む。引き受けてくれないか。それに、」

と電話の向こうのベンは言い、「きみはどうせ今、大学にいても何もやることがないそうじゃないか。」

と耳打ちした。

 レイナンはぎくりとした。定職を持たず、医師を開業する決意も資金もない。細々と論文を書き続けているが、誰にも認められない。教授になりたいという出世欲は、依然、空回りをしている。しかも、次の論文の構想は、まだ立っていない。

 ベンは語りかけた。

「高校・大学の同窓生として、きみのことが、俺の耳にいくつか入っているんだよ。いちおうきみは、俺のここに、」

ベンは自分の頭をコツコツとつついた。「――俺の脳内リストに、米語、中国語をはじめ、マレー語、ロシア語など、複数の言語に明るい者として登録されている。」

 レイナンは首をかしげた。

「なぜ私がロシア語を喋れると知っているんだ? 誰にも話したことはないのに。」

「おっと、そいつは悪かったね。実は俺の情報網に、きみのお姉様のことがちょっと引っかかったものでね。それによると、きみたちはお父様の仕事の都合で、ソ連に住んでいたことがあるそうだ。」

「ああ。事実だ。」

「きみのお父様は外交官だった、お姉様もだ、代々外交官をしているお家柄だ。なのに、きみだけ船医をしている。」

「私は船医ではない。」

とレイナンは息巻いた。

「おっとごめんよ。そう怒るなよ。レイ、そうさ、きみは一応、大学に籍を置いている。論文を書いて、そのうち教授の座を射止めることを夢見ている。そんなもんだろ? 医学博士さん。だが、俺は思うよ、きみは論文ばかり書いているより、船医の方が似合っている。」

「余計なお世話だ!」

「でも、今回の件は引き受けるのだろ?」

 ――きみがお金に困り始めたことも、君は決して助けを求める人を見捨てないことも、俺はよく知っているぞ……。とベンは耳打ちする。

「ああ。今回だけな。きみの家に行けばいい? それとも、会社?」

「そうだな……先方は急いでいるからな……きみを迎えに行くよ。頭上のヘリの音に、気をつけていたまえ。」

レイナンは言う。

「私をヘリコプターで迎えに来るのかい? 大したものだな。」

「そういうことさ! すぐに着くからな。着替えていてくれよ!」


 ヘリ、飛行機、ヘリと乗り継いだ。空高く昇っていた太陽が、頭上で光り輝いていた。長い梯子がゆっくりと、慎重に下された。風になびき、およそ半分のところでテンポ良くしないでは、戻っていった。

 揺れる梯子に、レイ=ナン=ウェイがつかまっていた。波打った黒髪を風になびかせ、やや日焼けしたような顔は、酔い止め薬のおかげで、クールな印象を保っていた。灰色の防水服も風になびいていたが、唯一、茶色いカバンだけが宙に静止したまま、彼の右腕にぶらさがっていた。

 船の甲板に上がった乗組員たちは、頭上の梯子をたぐり寄せ、レイナンを出迎えた。彼らは黒く日焼けした、海の荒くれ男たちであった。くちぐちに名乗っていき、乱暴な握手を求めた。レイナンは、彼らのあまりにも似通った、韓国・朝鮮系の名前をいちいち復唱しなければならなかった。

 甲板の端、船尾に近い方に、栗色の髪をもった、なじみの男が立っていた。トランジスタを懐に抱き、まっすぐレイナンを見つめていた。レイナンは海の男たちにもまれながら、遠くベンを見返した。目が合った。妖しくニヤリと笑っていた。しかし一瞬のち、彼は再び人の波に呑まれた。船員たちは雪崩をうって、彼を船長室に担ぎ込んだ。

 船長はいかめしく船員規約を読み上げ、ついでレイナンに契約書へのサインを求めた。レイナンは愚痴をこぼしたい気分だった、しかし流れるような筆蹟をその紙に残した。

「おめでとう。これできみも晴れて第5アイアン・スター号の通訳、じゃなかった、船医だ。」

と船長はにこやかに言った。周りの者たちは一斉に騒ぎ出し、指笛を鳴らした。


 「なあ、海の本当の色を知っているか?」

一級航海士が聞いてきた。船尾で水平線を見つめているときだった。

「青じゃないのかい。」

「おう。青じゃあないんだ。」

その航海士は、目を細めて言った。「――一日中、一年中見ていても見飽きねえ。その中で、俺は一度も、おんなじ色の海を見たことがねえ。」

彼は純粋な心を持っていた。折れることもなく、ねじ曲がることもない、真っ直ぐな心。濃いキャラの多い、閉鎖的な船の上でも、ここまで清らかな心を持つ者もいた。レイナンは感心した。




第二章(異国の母と娘)


 後部甲板まで歩いて行き、少し戻って、母子の部屋の前までやってきた。軽くノックをした。レイナンは無言のまま入っていった。戸口を開けたまま、扉の辺りで身をかがめた。彼のぎょろりとした目は、かの女の姿を認めた。

 女は乳をやっていた。

 美しく整った双眸でレイナンを冷ややかに見つめた。しかし間もなく視線を落とした。女は何も言わなかった。少しあらわになった胸もとを隠しつつ、また面を上げて、彼を見据えた。

 レイナンの口から言葉がついて出た。

「私は医者です。レイ=ナン=ウェイと申します。」

女はレイナンを見つめたまま、ようやく話した。

「言葉が通じるのね。良かった。やっと話せる相手ができたわ。いくらこの子に話したって、駄目なものもあるから。」

と母親は言った。

「そうでしょう。」

「先生、私、もう国に戻る気はないわ。」

「ええ、密航してきたと、船長が言っておりました。」

「亡命よ。……故郷を捨てるのよ。先生には、それがどれだけ覚悟が必要か、わかるかしらね。」

彼女はうっすら笑った。せせら笑いにも見えなくはなかった。

「私の夫は昔のロシア貴族の血をひく人なの。それが、革命で土地をなくし、一労働者となった、まあよくあるケースをたどったわ。いまじゃ、家名を変え、党幹部になった。けれど、私は妻だと認められていない。囲われてはいるけれど。」

少し話を聞いていたが、レイナンはおそらくモスクワに住んでいた時、父と顔合わせしたことのない幹部だろうと思った。覚えのない男の名だった。顔すら思い浮かばなかった。

 妖しく火照った彼女の肌に、うっすら汗がにじんでいるのが見て取れた。

――事実だけをありのままに話しそうな女……だ。聞けば聞くだけ情報はつかめる。しかし私には何も聞いてこない。興味はないのだろう。仕方がない。私はただの言葉の媒介者。病状を伝える相手。


――私の体も次第に汗ばんでくる……。なぜだ? 彼女に呼応してか?


 レイナンは心なしか、身体の中に熱いものが込み上げてくるのを感じた。彼の頭脳は怜悧一徹で周知のものだったはずなのに。この女との出会いが、人生を大きく動かしていくように覚えた。

 体は求めるが、心は求めない、つじつまの合わない恋の予感。彼は戦慄した。

――それなら、自慰行為だけでいいだろう。だが、なぜ? 彼女のぬくもりがほしいのか?

 レイナンはこれまで自分と相性の合う相手を探し続けていた。だが今まで一人も見つかっていなかった。自分はそういう人に巡り合わないたちかもしれない。そう思ってきた。

 この女は求めてきた女ではない。しかし彼の思考を麻痺させる何かを持っていた。

――しかし、まずいだろう。これから亡命を交渉する当事者と代理人じゃ……。

 レイナンは彼女に歩み寄って、ちらと眼を合わせた。肩に手をかけた。すばやい接吻をうなじに与えた。それからすぐに身を離した。何も言われなかった。彼女は眼を伏せたのみ。彼は、部屋を後にした。


 次に彼女に会ったのは、翌日の昼のことだった。彼女は赤ん坊を抱えて、甲板上に立っていた。心地よい風が吹いていた。

「ご気分は?」

とレイナンは声をかけた。彼女は振り向きもせず、

「いいわよ。」

とだけ答えた。やや沈黙があった。海面はキラキラ輝いていた。目を細めて見やったが、そのうち目を逸らせた。

「赤ちゃんは、どうですか。」

「よく飲んで、良く眠るわ。あまり泣かない。いい子よ。」

つやのある快い声が返ってきた。

 しばらく手すりにもたれて、彼女とともに海を眺めていた。

 やがて彼女はレイナンの顔も見ずに、部屋へ戻っていった。

 レイナンは振り返った。彼女はいまだに心を開いていない。頼む、開いてくれ。


 彼女を抱く夢を見て、はっと目が覚めた。

 起きあがると一船室だった。隣には誰もいない。二段ベッドの下を覗き込むと、当直を終えた航海士が高いびきして眠っている。

 ほっとした。何も起こっていない。時計の日付は、眠る前に見た真夜中のものと、同じだ。五時間は眠っただろう。

 なぜあんな甘美な夢を見たのか。後悔した。日本で高校時代を過ごしたが、あの時あまりにもAV映像を見過ぎた、と思った。あのころは興味もあったし、どうにも抑えられない年頃であった。友達とふざけて下宿でこっそり見ていた、そんな記憶がはっきりある。

 だが実際にはそんなたやすくいくものじゃないんだ。

 あのころは性に飢えていた。欲望しかなかった。

 朝食時に彼女の姿を見つけた。船員たちと時間をずらして、食堂にやってきていた。彼女から漂う気配は尋常ではなく、後光すら差していると思われた。けがれない巫女のようにも見えた。赤子と共に、聖母子像のごとく薄汚れた食堂の隅にたたずんでいた。この食堂にはもったいなかった。しかし御子や聖徳太子は馬屋で産まれたのだ。貨物船の食堂はまだましか。

 レイナンは配膳場所に向かった。湯気立つ遅い朝食を受け取った途端、彼の頭の中から食事以外の事柄が吹き飛んでいった。皿にむしゃぶりついていた。顔を上げると、すでに母子の姿はなかった。

 昼食までの間、医務室の薬品棚とにらめっこして過ごした。薬品の番号を確認しつつ、足りないところにベン社長から手渡された支給品を補充していった。

 予期せぬことに、彼女がやってきた。思わず彼女ともにらめっこしそうになった。

「ウェイ先生。」

もちろん彼女は応じない。レイナンは、

「はい。」

と答えるのがやっとである。

少女のようなあどけない面差しを向けて、彼女はレイナンをひたと見ていた。腕に抱えられた幼子が、いささか不釣り合いだった。

「おとといは独り言ばかりで、昨日はあまりにもぼんやりしていて、名乗ることを忘れていたわ! ごめんなさいね。」

 レイナンは思わず問診する体勢を取っていた。

「では改めて。お名前は?」

「イリーナと申しますの。この子は、ジャンナ。」

彼はためらわず復唱した。

「イリーナさん、ジャンナちゃん。」

「はい……」

母親は椅子に腰かけ、伏し目がちだった。今日は彼女の髪は少し波立っていて、耳の後ろに収まりきっていなかった。

「実はこれからのことで、相談がありますの。」

「わたくしで差し支えなければ、なんなりと。」

内心にやりとした。

「夫には知らせないで、アメリカに、娘と共に移住したく思います。」

そのような趣旨のことは、確か一昨日にも聞いた。動じずに済んだ。

「微力ながら、弁護士の姉と、この船の所有者の親友、ベン社長にあたって、指示を受けることができます。ホノルルに寄港するまでに、なんとかしてみせます。」

 イリーナは頭を下げた。

「先生。ありがとうございます。」

まだ頭を下げたままだ。レイナンも、お辞儀をした。

 そのうち恐る恐る頭を戻すと、イリーナと目が合った。彼女の表情は晴れ晴れとしていた。彼女は笑みをこぼした。見とれている間に、彼女たちは部屋を辞した。レイナンは、声をかけるタイミングを逸したままだった。

 どうやって姉とベンに電話しようかと考えあぐねていた矢先に、ベンから衛星電話が掛かってきたと知らされた。

 レイナンは無線室に向かった。

「レイナン、久しぶりだな。」

ベンは怪しい含み笑いとともに、電話をよこしてきた。彼は続けた。「日本語、ロシア語を流ちょうに操るきみなら、もうすでに一定の聞き込みを終えただろう。きみのところの、美人の母娘は、もとはどういったご身分だったんだ?」

「彼女は、今までの価値観を捨てて、新たな生活を始めようと人一倍の努力をしている最中だ。そのことを、君の胸に刻んでほしい!」

珍しくはっきりとものを言ったレイナンの勢いに、ベンはたじろぐことはなかった。いつものことだ、とベンは思った。

「レイ、きみ自身に対して、俺から、親愛なる友人としての言葉を送ろう。俺たちの住むこの国は、移民なら大勢いる。きみのような、移民がね。移民に対して、俺たちは移民の持ってきた文化・風習を尊重することも多い。因習みたいなものも含めてね。例えばきみの場合、きみ自身は決して認めないだろうが、

『私の姉は、現シンガポール首相夫人です。』

とでも言えば、たちまち今の無駄な努力も水泡に帰して、教授の座に推薦されることだろう。」このタイミングで、この言葉を蒸し返すのが、ベンにはたまらなく面白い。「誰だって、建前はどうであれ、実際はきみの血縁を重視する。身分や階級などを、きみはとても嫌っている。確かに、そういったしがらみは、実力主義の原理にかなっていると言うことはできない。が、現実に、非常に効果的な手段として、就職、進学、出世のために使われている。敢えて言うならば、これはコネだ。人脈だ。きみもコネを、肯定的にとらえてみると良いよ。きみには、俺という大企業の社長という親友から、ファーストレディーとなった、お姉様までもいるということを。だから、今きみがその船で、大切に世話をしている二人の貴夫人に関しても、もとの身分についてだが、闇雲に隠す必要はない。」

それに対する返答として、レイナンはこう言い切った。

「ああ。隠そうとは思っていないんだ。むしろ栄誉だと思って、聞いておくれよな。難破者たちは、イリーナ嬢、ジャンナ嬢だ。ご主人は党幹部の、」

ここで声をひそめた。ベンは、その名前を聞いて、

「なんかこみいった事情がありそうだな。」

とつぶやいた。

「ベン。母親は、ご主人との対面もなにも拒否しようというんだ。もう帰らないんだそうだ。絶対に!」

「うむ、そいつは厄介だな……。それで、俺に手を貸してほしいというわけか。」

「そうだ。」

「まあ、任せてくれよ。イリーナ夫人と令嬢が、どれほどの美しさか、後で一目でも拝ませてもらうから。レイ、いいなあ、きみは。今、彼女らの顔をたっぷり眺めていられる……でもきみは女より、金より、研究なんだよな……勿体ないなあ……」

「そう、さ。」

レイナンは、含みを持たせて、答えた。

「じゃあな、レイ。また連絡するから。」

「ああ。ベン、じゃあな。」


 数日後、ベン社長のもとからファックスが届いた。レイナンは一つ大きくうなずいた。無線室からの足で母子の部屋へ向かった。扉の向こうからの返事を待つのはもどかしかった。戸が開くと、彼は英文のファックスを示しながら、息せき切って話しだした。

「明朝、この船の持ち主のベンジャミン・ベンという人がじきじきに、あなた方を迎えに来て、本土まで載せていってくれるそうですよ。彼が就職や、家や、生活全般にわたって支援してくれるというのです。」

「ベンって、確か、あなたの親友っていう人なのよね?」

「一応そうです。彼は、私の姉夫婦に取り入りたいだけかもしれないですけどね。……」

といって、苦笑いした。

「ウェイ先生。最後なのよね? 今が、私たちがゆっくり話すことができる、最後の時間なのよね?」

「恐らくそうです。」

「私たちは、まだ住所も電話番号も持っていない。でも、ぜひあなたと連絡を取り合っていたいの。」

「そうしましょう。……ちょっと、待って下さいね。」

とレイナンは言って、がさごそと自分のシャツとズボンのポケットをまさぐった。

 イリーナはさっと立ちあがり、後方の扉をガチャリと閉めた。鍵もかけたようだった。人知れずレイナンの胸は高鳴った。

 名刺を受け取ったときのイリーナは、やや顔を赤らめていた。名刺を読み上げ、赤子の衣服に忍ばせた。

「この子にはさっき乳をあげたの。もうすやすや眠ってしまったわ……」

ぽつりとつぶやいた。「私たち二人きり……」

 レイナンはたじろいだ。イリーナは続けた。

「ベン社長じゃないのよ、本当に私たちを守ってくれるのは。……。あなたなの。ウェイ先生。」

 彼女を見た。

「イリーナさん!」

「助けて。」

彼女は涙目になっていた。「娼婦のような真似は、もうしたくないわ。大企業の社長となら、以前の私の二の舞になるわ!」

レイナンは苦しさを押さえて言った。

「社長には奥さんがあります。しかしとうに愛が冷めているのは知っています。社長は、夫人だけでは満足していない、ということを今のうちにあなた方に忠告していた方が、賢明でしょうね。ですが、わかって下さい。私は社長のように、あなた方に寝食を分け与えることはできません。」

イリーナは涙をこらえていた。彼は冷たく言った。

「すみません。助けてやることはできません。」

彼自身も、アイナの肉体を心の底で求めているのだと、口が割れても、言ってはいけなかった。

「……どんな甘苦も、あなたと一緒に乗り越えていきたい。」

彼ははっとした。しかし彼の声音は非情だ。

「その気持ちだけで充分です。その気持ちさえあれば、乗り越えていつか私のもとに来られます。」

手も握ってやることもしない。彼は我が身を、恨めしく思った。時間がまだ足りないのだ。彼女とは、これから時間をかけて、じっくりと愛を育んでいけるのだ、と信じていたかった。自分がいまだ未熟な精神しかもっていないとか、まだ彼女の肉体しか見えていないという言い訳を、心の中で押し殺していた。

 イリーナは何を勘違いしているのか、目の前で衣服を脱ぎ始めた。彼は恐れたまま、後じさった。勢い余って扉に背を打ちつけた。

「痛っ……」

少しかがんだが、顔をあげて再度イリーナを見た。

 見事な白い肢体だった。それは言った。

「ウェイ先生。」

レイナンはもどかしい手つきで、鍵を探り当て、ガチャリと外した。あわただしく戸をあけ、廊下をこけまろびつ走った。ほうほうの体で医務室に駆け込んだ。そして医務室の中から鍵をかけた。あらん限りの声で言った。

「イリーナさぁん!」

彼女に届いたかは分からない。雄叫びは、海にかき消されてしまうのだ。


 数ヵ月後、イリーナから手紙が届いた。住所と翻訳の仕事が決まり、やっと落ち着いたと書いてあった。それからレイナンと彼女の間に文通が始まった。

 彼女は結局、ベン社長のお膝元に住み着いていた。翻訳の仕事も、ベンの会社の業務翻訳が主らしいと人伝てに聞いた。やり取りする手紙の内容は些細なことばかりだった。二週間に一度往復した。彼女の手紙の向こうで、ジャンナはすくすく育っていった。レイナンは手紙が待ち遠しかった。

 イリーナは一度ならず、こちらに来てほしい、私は行かれそうにないから、と書き連ねてきた。しかしレイナンはなかなか時間が取れなかった。研究者としての仕事が、軌道に乗りつつあった。また学会の発表でもない限り、彼女のところまでの交通費も馬鹿にできなかった。

 彼はアラスカとカナダで、シャチの群れを追う小型船に同乗した。船医の頃より、海に一歩近づけた。海と海獣が間近に迫っていた。使える船は小ぢんまりとしたものしかなく、ちょっとした時化にたやすく翻弄された。同じ分野の研究者と分乗した。何ヶ月もの間、海獣を追って、二人の医師は仲良しになった。その人と荒波を超えていくことに生き甲斐を感じた。しかしある日、彼はレイナンの目の前で高波にさらわれた。しかも思いがけずレイナンに幸運が訪れようとしていた。その医者が占めていた助教授の席、そして南極でのクジラ類の実地調査船に乗り込む話が持ち込まれたのだ。

 間もなく南極・米マクマード基地へ飛んだ。白い大地で、診療の合間にカメラを回してあちこち駆けずり回った。海氷、各国の砕氷船、白い頂の山々、鯨の潮吹き、基地での食事、様々な祭り、日本から来たNHKスタッフ。冬が訪れると、夜が訪れる。空に揺らめくオーロラ。カメラに収めようにも、実際見るのにはかなわない。スキーを履いて、書記の探検隊・スコットやシャクルトンの小屋に足を運ぶ。小屋の下を発掘している考古学者の手伝いもする。冬至の迫った真っ暗な極夜の日々。イリーナに、長い長い手紙を書いた。

 ペンギンの営巣地を見たとき、匂いに一番驚いたと、冗談めかした書き出しにした。書いているうちに、真夜中をとうに過ぎていた。だんだん文字は乱れ、何を書いているか分からなくなった。最後に、これから南極点に立ち寄って、帰りますと記した。

 地球の裏側に立ってきます! そして、その足で。


 南極点からの帰途、米軍機を使った。ニュージーランドで降ろされた。彼宛ての郵便物が一通届いていた。イリーナからだ。

 それはジャンナを託児所に預けて、彼の住所に向かうと告げていた。レイナンは元からの日程通り、飛行機を乗り継ぎ、最後にはタクシーで、自宅まで帰った。

 しとしとと雨が降っていた。たいていの人には寒いと感じられたかもしれないが、彼はあたたかいと思った。タクシーの運転手に珍しく「お釣りはいらない」と言ってのけ、自宅の前であわただしく下りた。

 傘も差さずに駆けた。外階段の踊り場に人影が見えていた。イリーナはそこに立っていた。髪はぬれていた。いささか茫然とした様子だった。やつれた様にも見えた。彼は足をはやめた。あと数歩のところだった。レイナンは無我夢中で……彼女を抱きよせた。

 彼女の震える手が、レイナンの背に巻きついた。踊り場で二人は再会した。


 暗がりの中で彼の背にまわされるイリーナのか細い腕……。


 翌朝、レイナンは重い頭を片手で押さえながら、疲労の残る体を起こし、部屋の片隅にある冷蔵庫まで行き、ワインを一瓶開けた。

 朝からかっ喰らった。酔いつぶれてしまえばいい、と思った。しばらく断酒していたのも、もうどうにでもなれ!

 昨日の濃厚な夜が、恨めしく思い起こされる。

 そして彼女は夜が明ける前に、帰ってしまった。もうここにはいない。永遠に戻って来ない気がする。前夜、レイナンの名を何度もやさしく呼んでくれたが、あれは嘘だった気がする。彼はただイリーナと話がしたかっただけだ。安っぽいソファーに座って、ポツリポツリとあのまま、語っていたかった。時計が十一時を打つ頃、近くの大学まで戻って、自分の研究室で寝てこようと立ち上がった。イリーナはここで眠ればいいと思った。だが彼女はレイナンの腕にすがった。彼は求められるとおりにした。だが、朝を迎えると、隣はもぬけの殻だった。置き手紙もなにも痕跡を残していかなかった。

 ただ彼のからだを求めただけだったのか。

 精神が離脱してしまったかのような、根深い空虚感、対する身体の徒労感。イリーナは彼に夢を見させた後、いまわしい真の姿を彼に見せつけて、出ていった! 彼は凌辱された気分だった。プライドが踏みにじられた。

 手紙の返事を返すのも馬鹿馬鹿しくなった。もう手紙を受け取りたくもなかった。……しばらくして住所を変えることを思い立つ。郵便類の転送処理を施すつもりもなかった。

 新天地を探した。レイナンの心にはっきり兆したのが、ペンギンの営巣地だった。手紙にもあれほど感慨深げに書き綴った、南極の王者たち! まさかまた南の果てにまで行こうとは思わない。だが、彼らの愛らしい姿が、懐かしかった。

 ペンギン、か!

 人に避けられることの多い自分と違い、彼らは人を恐れず、近づいてきた。子どもくらいの大きさなのに、堂々と立ち、頭には冠まで抱いていた。体の黒い毛の部分は、燕尾服のような豪華さと、耐寒用フリースのような機能性を兼ね備えている! こちらが後ずさりしないといけないくらいだった。足元の氷の割れ目に、腹ばいで近づき、するりと滑りこむと、あとは真っ青な海の下で、高速で泳いでいた! 隊の鳥獣学者のフィールドワークに同行を希望して、彼とともに発信機の航跡を追った。吹雪でテントに閉じ込められ、耐えた三日間もあった。あの日々が懐かしい! そして、氷上の王者たちに、もう一度会い、彼らの自信を分けてもらいたい!

 辺鄙な所でもどこでもいい、ペンギンのいる浜辺、研究施設、そういった諸条件を求めて、求人票を手繰った。送った履歴書に対し、一通だけ返事があった。

 タスマニア大学、化学・工学・科学技術学部

 オーストラリア南東部にぽっかり浮かぶ島、タスマニア。同島北部にはフェアリーペンギンが住み着いている。州都ホバートにある総合大学での医学部教授の席がレイナンを待っていた。


 島北部、ロウヘッド近辺にレイナンは居を構えた。うらぶれた住宅街の空き家を借り受けた。見晴らしのいい高台にある、まだ新しい、平屋建ての住居だった。芝は伸び、庭は荒れ放題だったが、二日間かけてきれいに刈り上げた。居間には前の住人が残したテーブルなどの家具が散見された。大して傷んでいなかったので、そのまま使うことにした。居間のわきには主寝室があった。家具がなく、がらんとしていた。だからいろいろ買うことにした。白いタンス、大きな寝台、ポール式の照明器具をひとつずつ。彼の好みだった。客間には手をつけなかった。既にシングルベッドが据え付けられていた。まだ一部屋あった。そこも家具は残されていなかった。彼は背丈より高い本棚と、平机を運び入れた。正面にコルクボードを張り付けた。いつしか写真やメモでいっぱいになるだろう。その部屋は、書斎へと生まれ変わった。

 どの部屋の窓からも、海が見えた。水平線上に、時折白い船影が浮かんでいた。船は、イリーナ、ジャンナ母子を思い出させた。どうして、こんなに二人が恋しいのだろう。もう一生会わないつもりなのに。

 ロウヘッドにとどまるのは週四日間だった。ほとんどをペンギンや海洋生物の調査にあてた。残る三日間は車で三十分のローンセストンにあるキャンパスまで行った。医学部で教鞭をとり、附属病院の診察を済ませた後は、海辺の生物の資料の収集と分析に努めた。

南極よりも小柄なペンギンたちは、立派な冠を持たず、体の模様はむしろかわいらしかった。彼らの存在に癒された! その愛らしさに慣れ、毎日彼らを追っかけ、写真を撮りため、壁に貼り、アイドルのように崇拝した。彼らの行動をすべて把握したいと思った。彼らのすばらしさは、もっと世の中の人々に知られるべきだと思った。まるでラブレターのように、新しい論文を次々書いた。

 月日は流れるように過ぎ去った。雨の日も、晴れ上がった日も、書類の山を前に頭を抱えた日も、友人同僚とどんちゃん騒ぎした日も、心の奥底で来ない船を待ちわびていた。

 何も言わないペンギンたちのほうが、全身で雄弁に思いを伝えてくれる。ヒナの、「ごはんまだかなー?」と大きく口を開けるそぶり。腹いっぱい食べて、頬までつまってご満悦な表情。求愛の激しいダンス。生き残りをかけた、やたらと真剣な交尾。まっすぐに、情熱的に、彼らは今を一生懸命生きている。

 あの言葉は嘘だったのか? 彼の知っている女性は嘘をついた。人間は、嘘をつく。人間は、感情を隠す。かえって言葉を持つことで、不自由なことが起きる。人間は、相手をだます。ペンギンのほうが裏がない。わからなければ、推測すればいい。観察に観察を重ねれば、真実が見えてくる。動物の行動と思いは一致している。それに、ペンギンは群れを作る。強いものが弱いものを助ける。つがいのきずなは一生もの。立派な社会ができている。

 それに比べて、人間は複雑だ。嘘をつかれたと分かっていながら、まだ忘れられない、あきらめられない。思考は押し隠せても、夢はごまかせない。

 砂浜の岩陰でイリーナの幻を何度見たことか! ペンギンの巣穴をのぞきこんでいると、ふと彼女が傍らに立っている気がする。慌てて振り返るが誰もいない。風がさわさわと茂みを揺らして通りぬけていくだけ。

 手を差し伸べ、見えない彼女を抱きすくめる。だが空しい。嗚咽が漏れる。彼女はいない。ここには私一人しかいない! 彼女は来ない。私がここにいることを知らない。私は、ひとり。


 ロウヘッドには、診療所が一つあった。もともと老齢の医師が一人、看護師が一人、町の人々の診療にあたっていた。そこの医師が、レイナンに代診の話を持ちかけた。

「見てのとおり、ここは吹けば飛んでしまうようなちっぽけな診療所じゃ。そして、院長のわしは、とうに七十を過ぎているのに、ここの椅子に縛り付けられておる。どうかひとつ、このわっしにあと週二日の暇をくださらんかの。ウェイどのは、医師の国際免状をお持ちだと、風の便りで聞いておるんじゃよ……」

 老医師は、レイナンに、ゆくゆくはこの診療所を譲るとも耳打ちした。

 一週間熟慮してからレイナンは是と返答した。大学勤務を週に二日減らした。地域の誰かれとも、レイナンは顔見知りとなった。壁や棚に飾ったペンギンの写真を見て、子どもたちが目を輝かせた。

「ペンギン、好きなの?」

「うん。大好きだよ。」

「じゃあ、おじさん知ってる? ぼくの家の裏に、最近新しい巣ができたんだよ。」

「本当? 今度見に行ってもいいかな?」

お陰で、ペンギンの調査に必要ないくつかの証言、耳より情報が入るようになった。卵のある巣穴の場所、親鳥の出没情報などなど。

「あら、先生。往診ですか?」

「いえ、ちょっとヒナを見に。」

「あ、ペンギンですね。その茂みの裏ですよ。」

「ありがとうございます。」

ただ一つ困ったもので、彼に縁談も寄せられるようになった。町のおばちゃん連中が冷やかすのだ。

「まるでペンギンに恋をしているみたいだねえ。でも、どっちみち、この地にずっと暮らしていくつもりなら、そろそろかわいい嫁さんを迎えなきゃ。」

 論文の締切に追われて、二週間代診を休業した。

 締切明けに、どこか新鮮な気分で診療所への道を上った。町の人たちの笑顔を見る日。子どもたちは彼になついていた。親たちは気さくに接してくれた。様子を見に来た院長が、慕われているんだな、と少しうらやましそうにつぶやいた。

 ある夜のこと、診療所はもうすぐ閉まる時刻だった。玄関先に妊婦がうずくまっていた。彼女の顔はよく見なかった。妊婦の体は冷えていた。レイナンは看護師を呼び、妊婦を暖房の効いた部屋で介抱させようとした。しかし看護師は退勤した後だった。妊婦はレイナンの腕を握った。その感触に、彼は思い出した。

「イリーナか。」

レイナンは恐れた。恐れは現実のものとなった。彼は大きく膨らんだおなかを撫でた。

「誰の子だ?」

聞かなくても分かっていたのに。

「――あの時分、私を慰めてくれたのはあなただけ。」

そう彼女は言った。

「――私の子か。」

レイナンは息をついた。手を離し、彼女の腰を支えてやった。暖房の効いた部屋まで、いざなってやった。


 イリーナの手に引かれた女の子を見た。母親に生き写しだ。イリーナより線がほっそりしていた。

 ジャンナ。小さな手は、私の腕にそっと触れた。目が合った。だが暗がりでのことだ。




 タスマニアの小さな町に、髪の黒い男の医者が住んでいた。男は、ペンギン先生と呼ばれていた。毎朝ジョギングして、会う人、会うペンギンごとに挨拶をしていた。一九九五年に、長年同棲していた女性との結婚をようやく果たした。女性の元夫の死亡通知が届いたからだった。同年、長女は正式に男と養子縁組をした。長男はもともと認知されていたが、この度ようやく男の籍に入った。二〇〇〇年、男の一家は念願のオーストラリア国籍を取得した。(完)


地名と大学名は実在です。

大旅行気分で書きました。

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