十ノ六、詭弁
「ドロワ……?」
カーマインも、さすがに表情を歪めた。
この時点ではドロワ市はまだ完全に降伏した状態ではなかった。サドル・ムレス都市連合を脱退することには合意していたが、その為の準備は進んでいない。
この時期に戦闘用の竜馬をドロワに動かすというのは、いかなることか。
カーマインでなくとも訝しがるだろう。
タナトスは微笑して答える。
「恩を売っておいてやれ。ノルド・ブロス産の竜馬なら、やつらも喉から手が出るほど欲しかろう?」
「恩……?」
つまり、ドロワを制圧する為によこすのではなく、ドロワに竜馬を提供してやれ、とタナトスは言っている。
「アルヘイト家直送の現役の竜だ。実戦で役に立たぬわけがない」
タナトスは穏やかに微笑んでいるが、カーマインはタナトスの一言に反応した。
「実戦、と仰いましたが……それはどちらを指すのです? ドロワの敵は」
タナトスはまだはっきりとは答えない。
「それがわからぬお前ではなかろう? 私を悪者にするなよ」
カーマインは憮然としている。
「兄上の策か、ライオネルの策か……お伺いしたいものですな」
タナトスは女の仕草で口元に袖を添えて笑ったが、カーマインは頬一つ動かさなかった。口には出さないが、あまり心地の良いやり方とは言えないからだ。
――ドロワ市。
夜はさらに更けていくが、街中のざわめきは治まる様子はない。
ドロワ聖殿に仮に設けられた司令室は、まだ機能を残していた。
室内にファーナム騎士団のジグラッド・コルネス団長と、ドロワ白騎士団のツィーゼル・カミュ団長の姿がある。
軽い食事を済ませたあと仮司令室に戻り、街に出る部隊の数を徐々に減らすよう調整している。
聖殿の給仕係の者が温かい飲み物を運んできて、テーブルに置いた。
この頃になるとかなり緊張は和らぎ、ファーナム騎士団も出立の準備に入ろうとしていた。
「カミュ殿はお若いのぅ」
ジグラッドはどこからか椅子を運ばせて、腰を下ろしている。
カミュは立ったままで、ソーサーを左手にカップに一口つけた。
「左様ですかな?」
カミュは団長としては確かに若く、三十代に届いたばかりだ。歳増して見えるジグラッドと並ぶと、なおさらのこと。
二人とも軽い仮眠をとった程度で、交代までまだ時間がある。
「おぅよ、口でも動かしていないと瞼が下がりよるわ」
ジグラッドはしおらしいことを言うが、その声の張りはとても居眠りをしそうな気配はない。
「では、何か任務以外の話しでも致しますか」
カミュは人の良さそうな笑みを浮かべる。その様子は、ドロワ貴族の出にしては腰が低い。
カミュはもっぱら家柄で団長に成ったようなものだが、カミュの独自の魅力といえば角を立てない穏やかさと、和を取り持つ才能かも知れない。
「そうよのぅ……」
ジグラッドは話題を探そうとして、室内に視線を泳がせた。
とはいえ二人ともすぐに社交的な談笑を、という気分でもない。頭の中を占めるのはやはり任務のことだ。
「うぅむ……性分かのう。昨日からの引っ掛かりが邪魔をしよるわ」
カミュがカップを動かす手を止めた。
カミュにも思い当たることがあり、ジグラットに向き直る。
「私も実はお訊ねしたいことが…」
ジグラットが視線を向け、カミュはカップをテーブルに置く。
「ライオネルからの書簡の文面についてです」
「……」
ジグラッドがすぐに返事しないのは、同じ気懸かりを持つためだ。
二人は昨日、あの場に居てシオンがこれを読み上げるのを聞き、その書簡の文面も、実際に目にしている。
「あの書簡には『サドル・ムレス都市連合による、聖レミオール市国への武力介入に対して』と記されていました」
「うむ」
「あの一文、書簡はドロワだけに宛てたものではなく、サドル・ムレス都市連合に対するものだ、と読み取られる可能性はないのか、と……」
これは、ライオネルが『皇子』という身分を持つことで、ドロワ市が単独で帝国と外交交渉を行い、和平を締結させたと見なすことも出来なくはないか、という懸念だ。
「まず、前回の停戦時の条件と、今回の和平締結の書簡。これらを混同させる意図を感じます」
停戦の時、すでにドロワ市は二か条を受諾している。
そして今回、一見容易くみえる一条が追加され、そちらも受諾されるのは確定的だ。
カミュは言う。
「ドロワ市は都市連合の他市の意向を図らず、独断で和平を結び、連合を離脱したと拡大解釈されても致し方ない……」
「……詭弁よの」
ジグラッドは短く答えたが、カミュと同じことを考えている。
「横車を押す、とはこういうことでしょう」
ジグラッドが続けた。
「『都市連合の大会議』を通過せずに、帝国と外交交渉し締結させたとなれば……これは小さくはない問題じゃな」
カミュは頷き、ジグラッドは続けた。
「まず都市連合を無断で脱退した時点で、他市からの非難は避けられんじゃろう」
「強硬派のファーナムがドロワを弾劾する図は容易に想像できるわ。それに、今回はアリステラも絡んで来るじゃろうな……メンツを潰されたようなものだ」
まさに昨日の味方が今日には敵になるという、望まぬ方向に事態は進みつつある。
その時。
同じ仮司令室の中から、もう一人の声が室内に響いた。
「ライオネルにとって今有効な駒は……」
ジグラッドとカミュが振り返ると、いつの間に来ていたのか、黒騎士団のアストール・セルピコ団長の姿がある。