十ノ四、無駄足
夜更け頃。
シオンはようやくドロワ聖殿に戻ってきていた。
シオンは姿を隠す術を施して外出していたため、シオンの正確な居場所を知っていたのはごく少数の者だけだ。ともかく、シオンが皆の前に姿を現すと聖殿内の空気も再び引き締まった。
ドロワ聖殿に仮に設置した司令室は、まだ騎士団長らが残って活動している。
シオンは聖殿に戻るなり、そちらに足を向けた。
――と。
廊下の向こうから、事務官の男が来るのが見えた。
「あ、これはシオン様、良いところに」
男は慌てている。
「シオン様。今、礼拝堂の入り口にガーディアンの方がお見えに」
「ガーディアン?」
シオンは訝しげに表情を変えた。
男は手短に説明し、シオンを促す。
「イシュマイル・ローティアス君の仲間の方とか。行く先をお尋ねなのですが、私には……」
「イシュマイルの?」
シオンはなにごとか、思い当たった。
「よし、会おう」
男の言う礼拝堂は、現在使われてるドロワ聖殿の表ホールのことだ。正面入り口から礼拝堂まで一列に繋がっていて、内部は相当広い。
しかし事務官の男に案内された場所まで行っても、それらしい人物は居なかった。
「あれ、たしかにここに……?」
焦っている男をよそに、シオンは溜息をつく。
「痺れを切らして帰ったか? どうしてガーディアンというのは、私に無駄足ばかり踏ませるのだ」
シオンはもう一度、確認する。
「たしかにガーディアンか?」
「は、はい。ガーディアン独特の波動をたしかに」
「ふぅむ。しかもその者、イシュマイルの仲間と名乗ったか……」
シオンはますます怪しむ。
「どんな人相だった?」
「それが、フードを目深に被っていらして。ただ声の感じではお若い方かと」
「……ガーディアンは大概若く見える」
「いえ、そうではなく子供のような……」
シオンは多くを聞かなかった。
「心当たりがないな。騙りかもしれん」
実のところ思い当たる節はある。
だがシオンは敢えてそれを無視した。自分から出てこない相手に、気を使う必要はない。
「今後似たようなことがあっても応対するな。ガーディアンといえども油断してはならん」
「は、かしこまりました」
事務官は一礼し、シオン共々その場をあとにした。
礼拝堂には、未だ不安を抱えた市民らが少なからず出入りしている。
月魔の再来を警戒し夜を徹して灯りが燈されているが、隅の方には光の届かない暗い部分もある。
影が滲んだ暗い狭間に、そのフードの男はいた。
シオンが去って行くのを見送り、フードを外す。
「やれやれ……食えない御仁だ、相変わらず」
特徴ある口調と共に、銀色の髪が流れた。
タナトスだった。
イシュマイルと別れた後、どこかに消えていたタナトスもイシュマイルを捜してしたようだ。
「おかしいな。イシュマイルの気配がどんどんドロワから遠ざかる……これは近いうちに街を離れる暗示かなぁ」
タナトスは何度かイシュマイルの気を探ったが、見えてくるのは今の居場所よりも少し先のイシュマイルの状態だ。それは予知の能力に近い。
鮮明だったイシュマイルのが存在がおぼろげになってゆき、タナトスは困惑する。まるで何者かの気配に阻まれているように感じた。
「また捜し直しじゃないか。……本人に直接訊いておくんだったな」
タナトスは独り言を言い、フードを被り直すとドロワ聖殿から外へ出た。
街の人々は、夜が更けても落ち着いて眠りに入る様子はない。
人々は互いに家々に寄り合い、店は惰性のままに開いていた。愉しむ酒ではなく、不安を鎮めるために人は群れた。
通りの角々に騎士団員の姿が見られたが、どの顔にも疲労の色が見えた。
「寄り掛かり合って目を開いていれば、安心だとでも思っているのかな? 皆がほんの少しずつ我慢をすれば他の誰かが休めるのに……身勝手だね」
タナトスは淡々と独り言を言いながら、歩いていく。
異国のフードを被ったタナトスの姿に、今は誰も目を留めない。他人を見る余裕がないのか、それとも見えていないのか。
タナトスは歩きながら、十字に両腕を上げ冷たい声で嗤う。
「ドロワにはもう少し、傷ついて貰わないと……気息奄々(きそくえんえん)たる状態ってやつだ……」
夜の森で、鳥が奇怪な叫び声を上げた。
騎士団の厩舎では、竜馬が何かを察し騒ぎ始める。
「……僕は、追うべきかな?」
不意にタナトスが夜空を仰ぎ見て呟いた。
今宵の空は雲かかかり、月も星もよく見えない。
「ただ待っていても、彼は戻ってくるだろう……目的がそこにあるのなら」
それでもタナトスは、夜の月に問うように続けた。
「彼は迷っている……流れに任せていても、辿り着く場所は同じだというのに」
「バーツでは駄目だ。シオンでも……レアムでも、おそらく。求める答えを、行く先を指し示せるのは、多分僕だ。僕もそうしてやりたいとは思うが……」
タナトスは、誰に見られるともなく外門を抜けた。
ドロワの街を離れ、街道からも離れて歩き続けた。街の灯りも、人々のざわめきも遠くなる。ただ森の中の不気味な鳴き声だけが、暗い夜空に響いている。
タナトスは暗い山道の果てで、切立った崖の上に辿りついた。
ドヴァン砦の方向に目をやるも、景色は流れる砂粒のように闇に溶け込む。そのまま山土に両膝をついて座り込んだ。子供のような頼りない仕草だった。
「……でも、それでいいのか? タナトス。それは彼を巻き込むことだ……彼を引き込むことで何が起こる? 望みか? それがお前の望む、行く先か?」
誰かに語るように呟くタナトスの瞳が、赤い色に染まる。
縦に裂けた虹彩から瞳孔が僅かな光を照り返す。
「違う……」
「それはお前の野望であって、イシュマイルの望みじゃない」
「本当は僕の望みでもない――」
タナトスがその唇を大きく開く。
放たれたのは人の声ではなく、飛龍の上げる高い鳴き声のような音だった。たちまちにタナトスの姿が黒いつむじ風に撒かれ、夜の景色の中で見えなくなる。
一条の光が、天へと延びた。
巨大な蛇のようにも見え、雷が空へ還るかのように高く飛び、それは東の方角を目指して夜空を貫いた。
ドロワの人々はその夜、聞いたこともない鳴き声ような音を聞き、見たこともない光の矢を見た。
そして同時に、若い男の声を聞いた。
「ならば――ここで分かとう」……と。