十ノ三、女難
しばしの休憩の後、バーツとイシュマイルはドロワ聖殿を出て宿舎に向かった。
すっかり日の暮れたドロワの街を、久しぶりに二人で歩くことになる。思えばドロワ市に来た日以来のことで、まだ一週間と経ってない。
まだ街路のあちこちには、市民がたむろしていた。
「灯りが漏れてるね」
イシュマイルが、角の家を見て言う。
月魔に壊されたのか、崩れた壁から室内の灯りが揺れている。
「まだしばらく休めねぇな。怪我人も……死人も出てるし、家屋の修繕もあるしな」
「ドヴァン砦から解放された人たちは、まだ行く先が決まらないのかな」
「あぁ」
夜が更ければ、人々はまた月魔に対する恐怖に取り付かれるだろう。月魔は夜に現れると皆は信じている。騎士団らは夜を徹して警戒の態勢を崩していない。
「そういやぁ、お前」
バーツが話題を変えた。
「さっきの続きだけど、アイスがどれだけ面倒な女か知ってるのか?」
「……なんの話し?」
イシュマイルは、子供らしからぬ声音で眉間に皺を寄せた。
バーツは構わずにからかう口調で言う。
「お前、アイスに歳訊いたこと、あるか?」
「……ないよ」
イシュマイルは憮然と答える。
第一失礼だろ、と言い返すイシュマイルに、バーツは違う答えを返した。
「それは、無意識のうちにそう質問しないように操られてるんだぜ?」
「……」
イシュマイルはしばし黙り、そしてまた「え?」と訊いた。
「思い出してみろ、アイスに何か話しかけようとして、それがどうでもよくなって止めたってこと、ないか?」
ある。
何度となくあった気がする。
「でも、それって気のせいなんじゃ……」
「それがアイスの能力なんだよ。意識無意識に関わらず、流れを変えちまう」
「たとえばな」
バーツは説明を始めた。
「戦いを挑んできた相手に『戦う気力』を無くさせると……どうなる?」
イシュマイルは考えて、自信なさげに答える。
「……戦うのを、やめる?」
「それだ」
アイスは強いテレパス(精神感応)能力の持ち主だ。
この能力は相手の感情を読み取ったり組み込んだりするが、さらに一歩進んで相手をこちらの思う精神状態に陥らせるに至る。ヒーリングやカウンセリングなどに有効に使われる能力だが、悪く使えばかなり性質が悪い。
アイスの場合それが不安定に作用し、時にアイス自身にも自覚がない。
「故郷では『フロントの魔女』って呼ばれてたらしい。ガーディアンになる前の話しだけどな」
アイスの出身地は、『花の都』と呼ばれるフロントだが、この街の特徴として高い能力者が集まるというのがある。祭祀官を養成する『フレイヤール』という機関の本拠もフロントにあるほどだ。
「師匠から聞いたぜ。アイスがガーディアンになる試験の時、通常一人の試験官がその時は二人だ」
「……シオンさんと、レム、だね」
イシュマイルは話を変えようとしたか、相槌を打った。
「おぅ、もう聞いたのか? その話」
「アイスさんからね。全然手加減がなくって、何度も落第したって」
「なんで加減がなかったのか、わかるか?」
イシュマイルは、首を横に振る。
単に厳しい二人だから、が理由だと思っていた。
「アイスのその能力を引き出すためだ。つまり『相手の戦意を無くす』ため」
「師匠が言ってたぜ。後にも先にも、レアム・レアドを戦闘不能にして負かしたのは、アイスだけだって」
「それって……」
イシュマイルはどう答えていいかわからず、口篭る。
「じゃあ、アイスさんは戦を止めることもできるの?」
「戦ってのは、規模がでかすぎるな」
バーツは苦笑交じりに言う。
「今のアイスじゃあ、とても実戦に使えるレベルじゃねぇな」
「それじゃあ……」
「師匠が言うに、アイスってのは元々他人に同調する性格じゃないんだと」
ではドヴァン砦ではどうしてたのか、と言うイシュマイルに、バーツは答える。
「術をかけるにしたって、ライオネルやレアムくらいになると、そう簡単なことじゃないだろ? まして向こうはアイスの手をよく知ってる」
「うーん、よくわからないけど……そうなの?」
「端っから警戒してる相手には、隙を窺うよりむしろ『別の手』を仕掛けちまった方が有効なんだよ。だからアイスたちは特別待遇されてたんだ」
イシュマイルには、バーツの言うことがよくわからない。
バーツは続けて言う。
「師匠が言うに、アイスはどうも気楽過ぎるんだとよ」
「気楽?」
イシュマイルの考えからは、予想外の表現だ。
「師匠曰く、アイスは能力の使い所をまるで気付いていない。だが、そのおかげで今も生きていられるってな……。ま、俺もそう思うぜ、個人的には」
アイスの能力は、いわば他人の戦いを止める為に自らの命を引き換える筋書きを暗示する。バーツはそんな犠牲精神など下らない、と口先では言う。
もしアイスがその為に自らの命を削り、あるいは命を無くすとしたら、バーツはそれを非難するだろう。けれどそういうバーツが、誰よりも先んじて他人の盾になるだろうことも想像に難くない。
聖殿騎士というのは、本来そういう性格のものだ。
「……バーツは、アイスさんが嫌いなのかと思ってたよ」
「あぁ?」
イシュマイルは意外に思いながら、話を聞いていた。
「ねぇ、バーツはそういう女性――」
居ないの? と訊こうとしたイシュマイルの声を、バーツが「いねぇよ」と遮った。
「興味ねぇ話題だ」
「………」
イシュマイルはそれで黙ったが、バーツは気まずくなったか、さらに言う。
「第一な、あのバアさんのせいで、俺はドロワ中の女たちから嫌われてんの。おかげで気楽でいいぜ?」
あのバアさん、とは情報屋の老婆のことだろう。
「……あることないこと、言いふらされたんだね」
「あぁ。特に面倒なのは、師匠まで引き合いに出されることだ」
ドロワの娘たちからすれば、バーツというのはシオンに厄介事を持ち込む存在でしかないらしい。彼女らにそう刷り込んだのは、老婆の流した噂だ。
そして今回も騒動もその一つに数えられるだろう。
ただでさえファーナム騎士はドロワでは嫌われていたのもあって、バーツはガーディアンの修行期間中、街の女性を敵に回すという異常な事態に追い込まれた。
「あのババア、今にとっ掴まえてやる」
バーツは今更怒りを思い出したのか、拳を鳴らしている。
(つまり、毎回逃げられてるんだ……)
イシュマイルは、他人事ながら気の毒に思った。