八ノ六、騎士
ヘイスティングの傍らに、年長の騎士が一人残っている。
名をツグルス・ネヒストといい、第七中隊長であるヘイスティングの補佐官である。
「卿」
ヘイスティングは、個人的にも相談役であるその騎士を呼んだ。
「俺はドロワ聖殿にこのことを知らせ、対応を御教授頂こうと思う。……可笑しいか?」
騎士ネヒストは顔色を変えず「いいえ」とのみ答えた。
ヘイスティングは、無言のままその表情を歪める。
内心では相当口惜しい思いをしていた。
(月魔の一体ごときに……)と反芻するが、これほど手を焼くとは想像もしていなかった。
また、ヘイスティングは聖殿の祭祀官というものにも、ガーディアンというものにも、頭を下げたいとは思わない。
古めかしい格式に囚われているとしか感じないからだ。聖殿に関わる者たちは、みな閉鎖的で秘密主義で、排他的だ。
若さ故かヘイスティングは、ドロワ全体を包む因習というものに反発を覚え、同時に自らも血筋や地位への誇りに縋るしかなく、そんな己に歯痒さを感じている。
ヘイスティングを苛立たせるのは、常に『自分』だ。
「……聖殿には、俺が行く。ここは頼まれてくれるか」
ヘイスティングの言葉に、ネヒストは言葉こそ発しなかったものの驚きの表情を浮かべた。聖殿に行くのは自分だろうと予想していたからだ。
これまでの経験から、ヘイスティングが他人に頭を下げるより、ネヒストが買って出た方がトラブルを防げると知っている。
「宜しいので?」
「……うん」
ネヒストはヘイスティングが気落ちしていると察し、労わる声音で問うたが、ヘイスティングは寄りかかることはしなかった。
竜馬を返すと、供を二騎ばかり連れてその場を離れた。
残ったネヒストはその姿を見送り、自らも指揮をとるためにその場を離れた。
あとに残るのは、灰の上に転がる奇妙な結晶だけだ。
ヘイスティングは、人の波を掻き分けるようにして先を急いでいた。
けれど旧市街から溢れてきた避難者たちは、封鎖されている東側へと逃げ込もうとして、それを制止する白騎士団との衝突が起こっていた。
ヘイスティングは供の部下をそれらの対応に置き、単騎になって前に進んだ。
ようやくのことでメインストリートまで戻ってきた。
ここにも動揺した人々の姿があった。
竜馬に騎乗したままのヘイスティングからは、人の流れが滞り、街を塞いでいる様が見て取れた。
(この混乱を鎮めなければ……しかし、手持ちの騎士団だけでは到底……)
聖殿に急ぐヘイスティングは、焦燥と共にただそれを見ている。
その時、見覚えのある騎士が走ってくるのが目に入った。
(ファーナムの……遊撃隊!)
ヘイスティングがその人物を見咎めるのと同時に、相手も竜馬の上のヘイスティングに気付いた。
「ガレアン殿!」
先に声を上げたのは、ファーナム騎士の方だった。
それは、半分私服姿のままのアーカンスだ。
「これは――! なにごとですかっ!」
アーカンスがそう抗議の声を張り上げたのは、ドロワ白騎士団が避難する人々を追い返している姿を見たからだ。
一方、ヘイスティングも詰問する口調で怒鳴り返す。
「ここで何をしておられるっ!」
ヘイスティングがまず責めたのは、アーカンスの衣服についてだ。
「騎士たる者がそのような無作法な成りで――あまつさえ、一隊を預かる者が部下や竜馬から離れて何をしておられるかっ!」
「ガレアン殿!」
アーカンスは逡巡なく叫び返す。
「旧市街の避難民は行き場がない。東側を開放して貰いたい!」
「駄目だ!」
アーカンスは路上から、ヘイスティングは騎乗から、それぞれに怒鳴りあっていたが、その間にも人々は二人を避けるようにすり抜けていく。
誰も、彼らを見て足を止める者はいなかった。
ヘイスティングは我に返り、頭を一つ振ると独り言のように言う。
「いや、違う。そうじゃない」
そしてアーカンスに向き直った。
「今はあちらに足を踏み入れるのは危険なのだ」
「――危険、とは?」
「東側にも月魔が現れたのだ。しかし……打つ手がない」
「……」
状況のわからないアーカンスにも、その途方に暮れた様子が理解できた。
「ならば、市民と避難民を、安全な所に――」
「安全な場所など、どこにあるのだ!」
ヘイスティングは焦りもあってか、意味なく怒鳴り返した。
「……安全など、何処に……」
相当消耗しているのか、俯いて頭を力なく振る。
アーカンスはというと、普段からこの手の癇癪には慣れていて、頓着する様子はない。いつもの冷静な声音に戻り、ヘイスティングに言う。
「……わかりました。つまり今、ドロワの街全体が危険。無事に済んでいるところなどないと言うことですね」
そしてヘイスティングの前に一歩近付き、懇願するかのように声を絞る。
「ガレアン殿。今、聖殿に各騎士団の団長方が集っておられます」
ヘイスティングが、はっとして頭を上げた。
「貴殿もそちらに向かい、そして指揮をお願いします」
「……え……?」
ヘイスティングには返す言葉が浮かばなかった。
自分から頭を下げにいく途中で、相手から頭を下げられたからだ。