八ノ二、灰
バーツはゆらりと立ち上がり、姿勢を戻すといつものように髪をなで上げた。
終始見守っていた市民や、ロナウズの部下からは賞賛の溜息と共にざわめきが起こる。
バーツは野次馬を無視して残された灰に近付き、灰の山を靴先で蹴って覗き込んだ。
「……出たな、これが月魔石か」
バーツはその場に屈み、黒い石を指で摘んで取り上げた。
「小せぇもんだな、こうして見ると」
ロナウズはサーベルを一振りし、刃に残った灰を振り払う。
二刀を鞘に戻しつつバーツに視線を向けた。
「それがこの騒ぎの元凶というわけか」
ロナウズもバーツと同じ感想を持ったらしい。
石畳の上に残された灰の量は恐ろしく少ない。殆どの質量が月魔石に吸収されるようだった。
雷光槍は生命の力だと、バーツはシオンに教えられた。
月魔は生命の力が魔素によって破壊の方向に暴走し、本能のままに暴れる悪種の魔物だ。その月魔が肉体の崩壊を支えられなくなって消滅した時、そこから現れるのが月魔石となる。
月魔石はその生物体の全てを食い潰して、なお強い魔力を有する冷たい石となる。
こんな小さな黒い石が、悪意の塊としてこれだけの騒ぎを起こすのだ。
(これが、針の一刺し……か)
バーツは石を手に、ゆっくりした動作で立ち上がる。
「それにしても……月魔の腕を斬り飛ばすとは、いい腕だな」
褒められて悪い気はしないのか、ロナウズも少しばかりの笑みで答える。
「私の腕だけではない。この刀はノルド・ブロス、ロワール産だ」
「……名刀かよ」
騎士団の正規の支給品に似せているが、別物だ。
バーツはロナウズの隠れた刀剣趣味を知って笑ったが、イシュマイルの双牙刀も同じロワールの物だ。ノルド・ブロスの技術力は、そんな所にも現れている。
バーツは、手の中で月魔石を遊ばせながら言う。
「よし。まずは片付いたし、とりあえずアイスたちの方を見てくるか」
しかし。
ロナウズは周囲を警戒して見回し、眉根を潜めた。
「妙だ……まだ妖気が消えない。まだ何か居る気配がする」
バーツも頭を上げ、辺りを窺う。
「……団長殿は優秀だな。なぁ、何であんたもガーディアンにならなかったんだい?」
バーツはいつもの口調で茶化したが、ロナウズはそれを聞き流した。
「これは……少々様子がおかしい。隊に戻って整え直したほうがいいかもしれん」
「真面目だな、とっくに任を解かれてるってのに」
「そっちこそ『義理じゃない』だろう?」
ロナウズは部下に合図を送る。やりとりは短いが手慣れた確認の作業だった。
「私は一度ドロワ城に戻る。ドロワ市の指揮下に参じようと思うが、どうだ?」
バーツは首を横に振る。
「いや、それならドロワ聖殿に向かってくれ。他の騎士団の団長もそこにいる。ドロワの騎士団は収拾つかねぇし、月魔が相手なら、俺たちの出番だしな」
バーツは、ガーディアンの数の中にロナウズを入れつつも、騎士団としても勘定に入れている。
「まぁ、いつもの『他所様の騎士団に用はない!』で追い返されるかも知れねぇけどな」
「それはないな。堅物だが意外に適応力があるのが我が騎士団だ。使い勝手は悪くないと思うぞ」
「ハ。これだから自信家ってのはよう……」
バーツの憎まれ口に、部下のアリステラ騎士が珍しく苦笑いしている。
彼らも自分たちの上官について同じ感想を持っているらしい。しかし当のロナウズはそれを褒め言葉と受け取る。
同世代の二人は軽口を叩きあったが、今はそれ以上続けている余裕はなかった。
ともかく、二人はそれぞれにこの場を離れた。
その頃。
イシュマイルは施療院を飛び出し、ドロワ聖殿へと急いでいた。
(シオンさんに、このことを知らせないと……)
先に聖殿に着いているであろうシオンに、避難者から得た情報を運ばねば。
本音を言うならアイスの所に駆け付けたいのだが、その居場所がわからない。
(アイスさんだけじゃない。バーツも、アーカンスさんも、みんなどこにいるんだろう)
今のイシュマイルには知人の誰の居場所の特定できず、シオンを頼る以外に打つ手も浮かばない。
けれど聖殿周辺は、特に人の流れが滞って混雑していた。人々の『聖殿近くにいればなんとかしてくれる』という心理が、そうさせている。
「ここも駄目か……。流れに逆らえないや」
もともと古い町並みは入り組んでいて、大人数の移動を遮る構造になっている。加えて、人々はあちらこちらで座り込んだり論争などして、道を塞いでいた。
イシュマイルは、そういった人の集団にぶつかる度に道を変え、路地へ路地へと回り込んで、結局遠回りをしながら拝殿に向かう。
そして、そんなイシュマイルの前にも月魔は現れた。
それは小道が放射状に集まる広場でのことだ。
古い街でよく見かける、小道を抜けた先に水場などがある憩いの場。イシュマイルは、そこで奇妙な光景を見た。すぐ近くからも悲鳴が聞こえ、周囲のざわめきが高くなる。
だが、すぐにパニックが起こったわけではない。
人々の視線の先に、ひときわ大柄な人影があった。
否、人ではない。
獣のような、人のような――。
月魔は放心したように暝い目を見開き、目的もなくフラフラと彷徨っている。
下町の人々は、怯えながらもそんな月魔を遠巻きに見ている。
中には気丈な者もいて、手持ちの農具などを持って月魔の後ろで構えたりもしているが、無防備なその背を突くことが出来るものは居ない。
イシュマイルも不審に思って、月魔の様子を伺った。
(この月魔……たしか、アイスさんが見たものと同じでは……?)
イシュマイルは、アイスから受けた情報を、部分的に映像として感知していた。これはイシュマイル自身にも強いテレパス――精神感応の能力があるためだろう。
どうやらこの月魔は、アイスのいた学び舎を離れたあと道なりに進んで広場まで降りてきていたらしい。
月魔は広場をゆらゆらと歩き、中央の井戸の前まで来て立ち止まった。
そして二度、三度と頭を揺らしている。
(倒れる……?)
が、倒れるより早く、人々の目の前で月魔の体は崩れた。
肌理細やかな灰が崩れるそばから積み重なって、あとには何も残っていない。
月魔はひとりでに自壊した。
イシュマイルはそれを見て、誰よりも早く駆け寄った。
素手で灰を掻き分けて、月魔石を見つける。摘み上げてみると、漆黒の月魔石は真昼の日差しの中で鈍く光る。
(これを、すぐにでもシオンさんに届けなきゃ)
そして多くの避難者が目撃したという、あと数体いるはずの月魔のことも報告しなければ。
イシュマイルの背後に、いつのまにか人影があった。
イシュマイルの手の中にある月魔石を見て、ふっと息を吐く。
「――なぁんだ、もう片付いてたのかい。これは、無駄足だったみたいだね」
聞き覚えのある声に、イシュマイルは弾かれたように振り向く。
同時に飛びずさるように避けて、距離を取った。
いつの間に現れたのか、目の前にタナトスと名乗ったあのガーディアンがいる。