七ノ七、魔女
その頃。
今一人のガーディアン、アイス・ペルサンは旧市街の片隅にある、古い学び舎で教え子とともにいた。
聖殿での仕事の後、時間と場所を借りて、本来の自分の仕事であるレミオールの見習い祭祀官の指導に当たっている。彼女らの次の移動先が決まるまでの間は、ドロワ聖殿に間借りするしかなかった。
この日も、見習いの少女らと共に古い経典などを紐解いていたが、その静寂が破られたのは突然だった。
ドロワの街は、立派な城壁を持つと同時に、天然の要塞でもある。山岳地であり、旧市街の城壁の一部などは自然の岩山と繋がっている。
しかし近年、破損などによりしばしばその境目から野生の獣が入り込むことがあって、それが旧市街の住民の問題にもなっていた。
この時も最初の騒ぎが起こった時、住民の多くが「いつものように獣が現れたのだろう」と受け取り、そのための対処をとった。
アイスが教え子たちと共にこの騒ぎを耳にした時、すでに彼女の居場所近くまでその獣、いや魔物は入り込んでいた。
「アイス様!」
近隣の住民が悲鳴と共に逃げ込んできた。
急ぎホールへと駆けつけたアイスは、そこに醜悪な魔物の姿を見た。
すでに体の一部が魔力の暴走で変形し、精神的にも正体を失った、かつて『人』であったらしきものがそこにいた。
まさに『月魔』そのものがいた。
アイスはその場にただ立ち竦んで、月魔と真正面に対峙した。
事態を知った警備の者や屋敷の男たちが駆けつけ、アイスを守るように前に立ちふさがる。彼らは武器になりそうな物を手に、構えた。
月魔がいざ攻撃行動に入れば、何人いようと盾にもならないだろうが、街の人々は必死だった。使用人の一人がたまたま台所にいて、焼けた杭を武器に持って来ていた。月魔にも多少の理性は残るのか、その焼けた金属におののき、無意味な咆哮のみを繰り返す。
男たちはアイスの身を案じ、下がるよう声を上げたがアイスはその場を微動だにしない。女たちは恐怖で半狂乱の悲鳴を上げた。
双方の我慢比べのような睨み合いが続く。
と。
何かの拍子に、不意に月魔がその凶暴性を緩めた。
振りかざしていた両腕をだらりと下ろし、それまでの恐ろしげな叫びが消えた。そして元は目であったろう二つの窪みはますます虚ろになり、ぼんやりと空を見る。
月魔は、その斜めに傾いた姿勢のまま、ゆるりと背を向けた。両足を引きずるようにして戸口から外へと歩き、その場をあとに街の中へと消えた。
「……?」
武器を構えた姿勢のまま、男たちはその姿を見送り、互いに顔を見合わせた。夢を見ていたか、化かされたかのようだ。その傍らで、それまで固まったように立っていたアイスがふぅ、と息をつく。
「……良かった、間に合ったわ」
アイスは小さく独り言ちると、笑みに戻り男たちに礼を言う。
「ありがとう、貴方たちのおかげでみなが助かったわ」
男たちが振り返ってみると、アイスはいつものアイスだ。
「今のは、間違いなく月魔だったわ。シオンやバーツに知らせないと……。でも、貴方たちはこれ以上無理をしないで、ここにいるのよ」
「……」
男たちは意味がわからず、呆然としている。その間をすり抜けて、アイスは扉の近くまで歩いていき、言う。
「誰か、ここに椅子を持ってきて」
アイスは、扉を見張るかのように椅子に腰掛け、全員に言う。
「みんな、私の位置より後ろにいるのよ。そうすれば安全だから。外にいる人々も念のために入れたほうがいいわ」
そして、両手を祈るように組み、目を閉じた。
この日。
アイスの持つ能力のうち、特異な二つが発揮された。
アイスはヒーラーとしての能力の他に、テレパス(精神感応)類の力が突出している。この時アイスは、ドロワの街にいる全てのガーディアンに今の出来事を知らせた。
シオン、バーツ、そしてロナウズら、バラバラに行動していた彼らに同じ情報が伝達され、事態を把握させた。この知らせを受けた者は他にもいる。ガーディアン適合者や祭祀官など、多くの者がこれを受けていた。
「今の……アイスさん?」
先に声に出したのはイシュマイルだった。イシュマイルはこの時まだアーカンスらと共にいて、アイスからの知らせをシオンと同時に受けた。
シオンは急に厳しい表情に戻り、椅子から立ち上がる。
傍にいたアーカンスは、感知できないまでも「嫌な予感」というものは感じた。そしてすぐにでも飛び出そうとしたイシュマイルに気付き、隣室に駆け込む。
「待ちたまえ、どこに行く!」
アーカンスは戸口近くでイシュマイルの腕を掴まえ、ともかく押さえた。
「でも、アイスさんたちがっ!」
「アイス殿? 何の話だ。第一まだ本調子じゃないだろう」
問答をしている二人の後ろで、シオンが厳しい表情のまま言う。
「その通りだ。イシュマイルはここに残れ。そしてアーカンス、お前は指揮官としての職務に戻れ。すぐにでも」
「シオンさん!」
イシュマイルはまだアーカンスに腕を掴まれたまま動けず、抗議の声をシオンに浴びせた。
シオンは、イシュマイルには若干穏やかな笑みを向けた。
「……大丈夫だ。アイスなら、たとえ月魔が何体来ようと敵ではない」
イシュマイル、そしてアーカンスが振り返る。
「月魔ですって?」
一人、詳細のわからないアーカンスがシオンに問う。
シオンはただ頷いた。
「私はすぐに聖殿に戻らねばならなくなった。街中に入り込んだ月魔とやらは、すでに討伐隊が出ているはずだ。――時に、アーカンス」
「はい」
「ファーナム第三騎士団の力を借りたい。万一の混乱に備えて、ドロワの騎士団と共に市民の誘導に当たって欲しい」
「……承知しました」
シオンは言い終わると、イシュマイルの向き直った。
「アイスが何故、ドヴァン砦で特別待遇されていたか、わかるか?」
「……特別?」
「月魔の一体も倒せなくてガーディアンが勤まるものではない。……ただ、彼女の術は特殊でね。あのレアムですら、アイスとはまともに戦おうとしない」
「え?」
イシュマイルは「まるで理解できない」といった表情のままでいたが、シオンはそれ以上の無駄話を避けた。
シオンは内心で呟く。
(アイス自身に戦う意思があれば……の話しだがな)
「アイスのことより、自分の心配をしておけ。……さて。アーカンス、任せたぞ」
「えぇ、やってみます」
シオンは扉を開いて行こうとし、言い残したように付け足した。
「――あぁ、そうそう。バーツの奴は別行動のはずだ。探さなくていい」
そして足早に部屋を出て行った。
イシュマイルとアーカンスは、しばらく唖然と扉を見た。どちらからともなく顔を見合わせ、今なにを言わんとしたのか?という表情を見せた。
当のバーツはこの時、アイスより受けた情報により事件を知り、共にいたファーナム第三騎士団も殆ど時間差なく事態を把握した。
ロナウズ率いるアリステラ騎士団も同じく行動を開始したが、彼らは城内からの移動に時間を取られていた。
そして。
街中の警邏担当だったドロワ市の白騎士団と、戦後処理に解散中だった黒騎士団には、このことを知り得た者は誰もいない。
彼らの中にはガーディアンや聖殿と接点となる者がおらず、従来の伝達方法で受けることのできる情報には時間的誤差があった。後手に回ってしまったことは否めない。