六ノ八、変調
「バーツ、私だ」
扉の向こうから、ロナウズ・バスク=カッドの声が聞こえた。
ちょうど扉に向かおうとしていたバーツは、その足で扉に近付き、開く。
平時の軍服にきっちりと身を固めたロナウズが居た。
「あれっ? もうそんな時間かよ?」
今日アリステラ騎士団はドロワの街を出る予定だが、バーツが聞いていた時間よりかなり早い。
「いや、これから官邸に顔を出してくるところだ。……ただ、その後こちらには戻らずに出立するのでな」
そう言うロナウズは、イシュマイルに声をかけに来たのだろう。
ロナウズは簡単に説明したが、バーツはその様子に気付き、室内を振り返った。
バーツは困り顔で答える。
「あー……悪いな。イシュマイルの奴、ちょっとな」
バーツが室内を示すように顎をやると、ロナウズも扉越しで見えないものの視線を移した。
「どうかしたのか?」
「あー、それがよ」
イシュマイルの具合をどう説明すべきかバーツが言葉を濁していると、その背後で大きな物音がした。
バーツが振り向くと、イシュマイルがベッドから落ちて床に居た。
「お、おいおい。お前!」
バーツは扉から手を離して駆け寄る。
イシュマイルは起き上がろうとしてベッドからずり落ちたらしく、身体に毛布が絡み付いていた。
「いっ、たぁ――」
痛むのがぶつけた腕なのか頭痛なのかわからないが、とにかく身体が痛くて重く、上手く動かせない状態だった。
「どうしたんだよ。どっか具合でも悪いのか?」
バーツは口調こそ乱暴ながら、イシュマイルが難儀している毛布をはがすのを手伝ってやる。
「か、身体が……重くて」
イシュマイルはそう答えるものの、その声もよく出ない。
(……なんだろ、コレ……)
いつになく身体がなかなか覚醒せず、イシュマイルは夕べの記憶を辿ろうとした。そのイシュマイルに、ロナウズが声をかけた。
「お早う、イシュマイル君」
ロナウズは勝手に室内に入ってきており、バーツの横で膝を付くような格好でイシュマイルの顔を見た。
室内の薄暗さのせいか血の気が引いて見えるが、熱があるような様子でもない。ただ寝起きの悪い子供のように、反応が鈍い。
「我々はもうアリステラに出発するよ。君を誘おうと来てみたが…その様子では無理そうだね」
「え……?」
イシュマイルは、ロナウズを間近に見てもすぐには理解していないのか、いつものように姿勢を正すということもなかった。
ロナウズは構わずに言う。
「アリステラには、ハロルドの生まれた家もある。……君には縁を感じるからね。見て貰おうと思ったのだが、次の機会にしよう」
「アリステラ……」
バーツが横からロナウズに言った。
「ロナウズ。なら、近いうちに俺が連れてくさ。どのみち俺たちもファーナムに戻るし、アリステラまで足を伸ばせるぜ」
ロナウズは、バーツに笑って答える。
「なるほど。では二人分、歓迎の用意をさせておくか」
「……俺ってオマケ?」
言い終わるとロナウズは立ち上がり、バーツも見送る為に立ち上がった。
「ロナウズさん!」
イシュマイルはなんとか呼び止めようと名を呼ぶ。
「あの、有難うございます。色々と……」
イシュマイルの言葉を、ロナウズは笑みで遮る。
「気にするな。これは、と思った相手にはとことん惚れ込むのがバスク=カッド家の血だ。礼はいらんよ」
バーツとロナウズは、ひとまずイシュマイルをその場に残して廊下へと出た。
「……物好きだねぇ。騎士団の団長様だろ」
からかう口調のバーツを、ロナウズは聞き流し、歩き出す。
「君こそ、任務を後回しではないか」
「それはいつのもことさ」
「――冗談はともかく。少し気をつけてやったほうがいいな」
ロナウズは表情を厳しくした。
「あの部屋に入った時、何者かの気配を感じた……あれはなんだ?」
ロナウズは扉の方を振り返るようにして問う。
バーツは声を低くする。
「あんたも感じたかい」
「君もか」
バーツは漠然ともやのような物を感じ、ロナウズは「何者か」と表現した。
「とりあえず、師匠ンとこに運んで看てもらう。ここで俺が見てても埒明かねぇからな」
そして付け足す。
「イシュマイルを聖殿に預けるいい機会かも知れねぇ」
「……賢明だな」
「あの子の出現以降、流れが早まった気がする……」
ロナウズは歩きながらも、正面を見据えるように背筋を正した。
「戦場に時折現れるという、異分子……かな」
バーツが、ロナウズの横顔を見る。
ロナウズもまた、イシュマイルの居場所が戦場にしかない、と感じているようだ。
「まだ子供だ。薦めたくはないな。十七歳というのも嘘なのだろう?」
滞在の許可証にあった口実の年齢は、イシュマイルが咄嗟についた嘘のまま記入されていた。
「へぇ、そりゃ考えもしなかった」
バーツは笑ってごまかした。
書類の上での年齢など、どうでもいいと思ったからだ。
バーツとロナウズがホールまで戻ってくると、ちょうど遊撃隊の一部が帰還してきたところだった。
アーカンスが二人を見つけて声をかけてきた。
「これは、ロナウズ殿とバーツ隊長」
アーカンスは相変わらず癖で、バーツを隊長と呼んだ。
バーツは返事をするより前に、閃いてアーカンスに言う。
「そうだ、アーカンス。お前が行け」
「……はい?」
アーカンスは笑みを作るより先に、困惑の表情を浮かべる。
毎度のことながらバーツの言動は唐突で、横に居たロナウズにもわからない命令だった。