六ノ六、幻の都
服装による性差や階級の格差などは、その敷居が高いほど法則を破った時に相手に与える印象が強くなる。ノルド・ブロスに限らずこの大陸では、まず衣服が所属や階級などを表す。
古い街、特に伝統や格式に厳しい風潮のところほどそれが顕著だ。
そのため、たとえば異民族の衣服を着たイシュマイルのような存在も、異質な印象を他人に与える。
タナトス・アルヘイトは、公的な立場や能力以前にその容姿でまず他者に強い印象を与える。中性的な身体に着けているのは異性の衣服。これだけでも古風な気質のレヒト人は衝撃を受ける。
数年前にアウローラ帝が病の床に伏した時。
周囲の者は次代を支える三皇子を見比べ、そして心中密かにタナトスに失望した。
一つにはタナトスを支持する派閥がタイレス族とその擁護者であったせいもある。古参の勢力、特に龍人族の派閥はこれらを快く思わず、その矛先をタナトスという皇子に向けて何かと欠点を論おうとした。
もう一つには、龍人族特有の成長の仕方にある。
龍人族には幼生体という時期があり、その成長速度は個体により極端に幅がある。
最も成長の早かったライオネルは標準的な男性の風貌で、よく回る舌の端々に聡明さを覗かせた。次いで長じたカーマインは落ち着いた言動と雄々しい印象与える体躯、英雄アウローラの面影を強く継いだ面立ちを持っていた。
反タナトス派の人々は、未だ成長途中にあったタナトスを軟弱で神経質だと決め付け、吹聴した。タナトスにとってそれは一方的で我慢のならないことだった。
二つの方法がある。
打ち消すか、強調するかだ。
――タナトスは後者を選んだ。
多くの者が前者を選ぶ中で、タナトスはすっぱりと後者を選んだ。
半分は彼の趣味もあるのだろうが、タナトスは選んでクラシカルな女祭祀官の服を着て女性的に振舞った。
そうすることで周囲の反応をもからかっていたのだが、強調すればするほど人々がタナトスの本質を見抜けなくなることに気が付いた。
タナトスには、複数の顔がある。
狙って作り上げた分身あれば、計らずも出来上がった仮面もある。
その数は多ければ多いほど良い。
全ては、保身と野心のため……。
タナトス・アルヘイトは、父アウローラ・アルヘイトの病床に付き添っていた。
窓の外はいつもの遠い嵐のせいで雲の流れが速く、日中から室内は薄暗い。
タナトスは、濡れた布をアウローラの額やこめかみに宛がい、熱と汗を拭っている。傍目には甲斐甲斐しい看病を続ける息子の姿が、いつしかそれは息子タナトスではなく、タナトスの母ニキアの姿とすり替わる。
「……ニ、キア……」
聞き取れないほど微かな、老人の声。
病の為かまたは薬で朦朧としているのか、アウローラがこの名を呼ぶことが多くなってきた。
「皇帝、アウローラ……アルヘイト」
タナトスの唇が、詠む様に呟く。
「火の国の救世主も……今となっては、見る影もない……」
アウローラ・アルヘイトは、ノルド・ブロスの数少ないガーディアンであったと同時に、国の危機を救った英雄でもある。
かつてレヒトの街を大規模な災厄が襲った時、アウローラは即座に帰国してレヒトの救済に尽力した。彼に力を貸したのはウォーラス・シオンと、炎羅宮に住んでいた龍族だけだった。
その後もアウローラはエルシオンを捨てて国力の回復に尽くし、ノルド・ブロスは今の帝国の形をとるようになる。百年以上帝国のため、特にレヒトの為に尽くしてきたアウローラの身体は、すでに限界に達していた。
エルシオンと袂を分かてたガーディアンの、末路である。
アウローラは浅い眠りを繰り返しているのか、寝息に近い呼吸をしているが、その喉は漣みのような音がする。体の中から熱で腫れているらしかった。
タナトスは、顔を寄せるようにしてアウローラに話しかけた。
「また、母の夢ですか……? 夢は、しあわせですか……?」
アウローラは聞こえていないのか、何も答えない。
タナトスは続ける。
「……そう、そういえば」
「母には、妹がいましたね……」
タナトスは、アウローラの額の汗に布を当ててやる。
「彼女にも、子供がいたと……思いますか?」
アウローラは何も答えず、しかし突然に息を引き込んだか弱弱しい咳を始めた。
タナトスは、アウローラの痩せた胸板に手を置いた。
掌が、徐々に白く輝いた。
それは、バーツやレアムの時のように四方に広がる光ではない。相手の身体に触れた部分にだけ光が放たれ、染み入るようにその胸板を照らした。
アウローラが大きく息をつき、そしてまた静かに寝入る。
「……父上」
タナトスの瞳が、冷たい色を放つ。
「まだ……死なせはしませんよ。エルシオンの加護がないなら、僕が守りましょう」
タナトスは、間近に顔を寄せて囁くように言う。
「まだ、死んでもらっては困るんです」
その声は掠れるように甘く、冷たい。
「今少し、苦しませることになりますが……」
そしてその艶めいた唇を、老人の乾いた唇へと押し当てた。
僅かに開いた隙間から、生命素を直接注ぎ込む。
病んだ老体に、少しばかり顔色が戻る。
「……そう。あなたは未だ幻の中にいて、幻に縋って生きている……」
タナトスは唇を離してなお、吹き入れるように囁く。
「幻を生み出した、天盤宮……其処が僕の故郷なら」
「いずれ、あなたの幻は具現する……」
タナトスはそう言うと、その瞼を閉じる。
「其処へ至る道筋が今、一つ、一つ、集まりつつあります……」
濃く生え揃った睫を再び上げた時、その瞳には紅い光が宿っていた。
縦に開いた瞳孔は、タナトスの持つ龍人族の血が力増したことを現している。龍族と龍人族に特有の意識の集合体の中に、タナトスは居た。
「……ついに見つけた」
高揚した声音で呟くタナトスの瞳には、目の前の老人はもはや映っておらず、距離を越えて鮮明な知覚を得ている。
「ドロワの街……。そうか、やはりあそこか……」
点が線へと繋がり、止まっていた時間が動き出した。
皇子タナトスは、予てより注視していた異国の街に、新たな目的を得た。