五ノ二、白い月
イシュマイルとロナウズは、ホールを突き抜けて寄宿舎の中庭まで出てきた。
辺りには真昼の日差しが降り注ぐ。
外から見ていたより、敷地は広い。
一部の建物が取り壊されていて、すぐ近くにある公園と繋がってしまっていた。
古びたベンチだとか花壇だとか、施設の子供が使っていたらしき遊具の跡などが、かつての姿を留めている。
ロナウズは、何かを探すように空を仰いだ。
イシュマイルもそれに倣って、空を見上げる。
ちょうど青い空に、白く昼間の月が見えていた。
月は、いつも同じ面をこちらに向けている。
伝承ではもう一つ、速駆けの月なるものがあると言うが、それを見たものは居ない。天にある月は、いつも一つだ。
――霊迷宮アユラ。
太陽に住む神レミオールに対し、冥王アユールが住むとしていわゆる『冥界』、死者が眠り月魔が生まれるところとされている。
太陽の神レミオール、月の神アユール、地の神ブリオール。
人々は特にこの三柱を三神として崇め、他に夜空の星を神格化した星神ブリスなど、ドロワの街には至るところにそれらのシンボルが描かれている。
そういった紋章はノア族のものと起源を同じくしており、イシュマイルにとってはそこだけが馴染みのある光景ともいえる。
イシュマイルは、考える。
ロナウズの言葉によると、ハロルドとレアム・レアドは兄弟弟子ということになる。
シオンによれば、最初の算段ではイシュと呼ばれたその子は遠い北の国から来て、ドロワに託されるはずだった。
もしかしたら自分はここで、他のタイレス族の子供らと共にドロワの街で育ったのかもしれない。ここの館長はウォーラス・シオンだというから、バーツとももっと早くに知り合っていたのかも知れない。
ロナウズや、ハロルドとも違う出会いがあったのかも、知れない。
その場合、ノアの村での記憶――ギムトロスやダルデといった人々との出会いや、森の中の景色、そこで見た不思議な何かなども、その存在すら知らないままになっていただろう。
今、自分が名乗っているイシュマイル・ローティアスという名前さえも……。
ただ青いだけの空に涙を誘われそうになって、イシュマイルは目を閉じてこれをやり過ごした。
そして、視線を緑の木々に向ける。
ロナウズは、ゆっくり公園の方へと歩いていく。
イシュマイルは追いついて、その横について歩いた。
イシュマイルは、ふと考えた。
自分の血族の足跡はウエス・トールで途絶えてしまったが、もし実の父というものを想像するとしたら、今横を歩いているロナウズのような人かも知れない――。
ロナウズとイシュマイルは、髪の色や瞳の色、骨格といったところまでタイレス族の特徴がよく似ていて、これはバーツやギムトロス、レアム・レアドにはない接点だった。
年齢差などイシュマイルの勝手な空想という点では違和感のない相手で、ロナウズには他人を落ち着かせる包容力のようなものがある。
それはイシュが幼い頃にレムに感じた安心感と同じ、父性的な庇護の力かも知れない。
イシュマイルにはいくら背伸びをして忘れたふりをしても、抜け切れない幼い頃からの孤独感というものがあって、無意識に支えと頼むような人物との接点を求めたのかも知れない。
「ハロルドさんは、どうしてガーディアンに成ったんですか?」
イシュマイルは、ロナウズの話しを聞きたがった。
「バーツの話しだと、ファーナムでも人気のあった騎士団長だった、て」
ロナウズは、陽の光が射す淡褐色の瞳をイシュマイルに向けた。
それは時折、金色の光を返す。
「バーツと同じだよ」
ロナウズは答える。
「ハロルドも、バーツの時と同じく、評議会の推薦を受けてガーディアンの訓練を受けたんだ」
イシュマイルは、アイスに聞いた説明を思い出す。アイスは、今時のガーディアンは大抵そうやって成るのだと言っていた。
「んー。その、推薦とか評議会とかいうのは、ちょっとわからないけど」
ロナウズは口元に薄い笑みを浮かべただけだ。
「適合者を人為的に探し出し、あるいは作り出してガーディアンにする……それが今のやり方だ」
「作り出す?」
「聖殿騎士団というのは、そういう時に都合がいいのだよ。適正においても、訓練方法においても」
ガーディアンが教官として聖殿や街に留まるのはこの為もある。
ガーディアンの持つ知識やその修行方法の一部を騎士団や聖殿に開放することで、兵士や騎士、祭祀官を効率よく育成できガーディアンの方も適合者を得やすくなる。
ただ厄介なのは、そういったことを本来なら聖殿やガーディアン自身が主体となって行うべきところを、評議会など政治的な都合で決定するようになっていることだ。
特に人選に関してはその干渉が大きい。
バーツの人選の裏にはノア族であるバーツを軍団長にしないためだ、という噂も囁かれたほどだ。
良いことがあったとすれば、バーツとジグラッドの勝負が御破算になったことで互いが友人と成ったことくらいだろう。
イシュマイルは街の政治的な仕組みを理解しておらず、ロナウズの言葉の意味はわからなかったが代わりに一つ思い当たった。
「じゃ、ロナウズさんも?」
アイスの言っていた、何割分かの適合者なのか、とイシュマイルは問う。
「……あぁ。そうだ」
ロナウズは頷いた。
ロナウズもまた、兄ハロルドと同じガーディアンの適合者であると。
「ただ、私はガーディアンの訓練は受けてはいない」
その理由をロナウズは言わなかった。
ロナウズがあまりこの話題に触れたがらないのを察して、イシュマイルは違う質問をした。
「ハロルドさんの手紙には、なんて書いてあったんですか?」
「それはソル・レアドの話しか? レアム・レアドの話しか?」
イシュマイルは、笑って首を傾げた。
今のイシュマイルはどちらにも興味があって、出来るなら全てを聞いてみたい。
ロナウズは、イシュマイルの返答を待たずに話しだした。
「師であるソル・レアドは、聖殿や神学校の仕事が忙しく……レアム・レアドを呼び寄せて、ハロルドの修行相手としたのだそうだ」
ロナウズは記憶を辿って話していく。
「年齢も、性格も生い立ちも違うが親友なのだと、ハロルドはよく書いていた。レアム・レアドのことを始めにレムと呼んだのは、兄らしい」
「呼びにくいからとハロルドが無理やりつけたらしいな」
ロナウズは、兄ハロルドのそういった人懐こい部分を思い出して微笑んだ。
「兄の修行はここを拠点としていたらしいから、三人ともこの辺りで暮らしていたのかも、知れないね」
ロナウズは、美しい景色の公園を指して言った。
「ロナウズさん……」
イシュマイルは静かに問う。
「どうして、今日は僕を……?」
「うん?」
ロナウズは、少し考える素振りで答える。
「そうだな……。色々理由は浮かぶけれど、一番もっともらしいのは君がレアム・レアドを知っているから、というところか」
イシュマイルは困惑した様子で、僅かに笑みを作る。
「知っている? ……どうだろう。初めて耳にすることばかりで」
イシュマイルはぽつりという。
「ドヴァン砦で初めて戦場というものを見て、本当は怖いと思った……」
ロナウズが、イシュマイルを見る。
「でも、同じようなものを……僕は前にも知っていた気がする」
イシュマイルは幼い頃レムから感じた、あの恐さを思い出す。
「僕の知っている十五年間の方が、作り物だったのかな……」
「イシュマイル君」
ロナウズは、イシュマイルの言葉と、思考を遮った。
「ハロルドは、手紙にこうも書いていたよ」
「生意気な弟が、また一人増えたようだ……とね」
実際の年齢からすればハロルドのほうがはるかに年下なのだが、ハロルドの目にはレアムという存在はそう見えたのだろう。
「一見物静かなのだけど、その下に苛烈なまでの感情を押し殺している……と。しかしそれは憎しみのような負の感情ではなく渇望なのだ、とね」
ハロルドは身近に見たレアム・レアドをそう表現した。
ハロルドはレアム・レアドに対して自分と同じものを見出し、共感したのだろう。正反対の個性ながら内面の深いところでよく似ていたからこそ、親友と呼んだのかも知れない。
「……どれほど繕ってみたところで、隠し切ることなど出来ないと思うよ?」
ロナウズは、イシュマイルに言う。
「君の知っているレムも、レアム・レアドの素顔の一つだと、私は思う」
イシュマイルは無言でロナウズの顔を見上げた。
不思議とロナウズの面立ちに、会ったこともないハロルドという人物の面影を感じた。
それは、とても懐かしい感覚だった。