四ノ九、ウォーラス・シオン
バーツが受け取った飲み物を飲んでいると、扉が開いて祭祀官の装束を着た人物が現れた。
バーツは「お」と驚いてみせて、イシュマイルにカップを返しながら言う。
「オイオイ、忙しいンじゃなかったのか? わざわざ来てくれたのかよ」
その人、ウォーラス・シオンは扉を後ろ手に閉めながらバーツを見た。イシュマイルもカップを受け取りながら、しばしその人物の顔を見ていた。
噂通り、厳しそうな横顔は凛としていてドロワの娘たちが騒いでいた理由が理解できた。
タイレス族の男性にしては珍しく髪を肩ほどにまで伸ばしていて、品のある物腰や祭祀官の衣服と相まって柔和な印象を与えた。
ガーディアンの常で見た目の年齢はバーツと変わらないようにも見え、バーツの師匠というには想像とかなり違った。
が、それも数秒のことだ。
突然、バーツのいたベッドが僅かに浮いて横倒しになった。
バーツが床に放り出されると、ベッドはまたくるりと元に戻り、シーツがその上にふわりと被さった。はじめから誰も使っていなかったかのようにベッドは元に戻り、その傍らでバーツは床に尻餅をついてた。
「いってぇ……」
肩から落ちたらしいバーツは、腕を撫でながら大袈裟に言ったが、シオンはそれを一喝した。
「全く……いつまで怪我人をやってるつもりだ! 人手が足りないんだ、さっさと起きろ!」
祭祀官というのは大抵は穏やかにそして厳かに話すものだが、この師匠は良く通る声を張り上げた。
バーツは慣れていて、ゆらりと立ち上がる。
「ひでぇ見舞い客もいたもんだな。俺じゃなかったら大怪我してるぜ、師匠よ」
今度は壁の窪み棚に飾られていた花瓶が、バーツ目掛けて飛んだ。
バーツはこれを少ない動作でかわしたが、花瓶は後ろの壁にぶつかると鞠のように弾んで床を跳ね転がった。そして花を上にすくりと立ち上がる。
不思議なことに花は花びら一枚葉一枚も折れておらず、満たされた水もそのままだった。最初から床に置いてあったかのようだ。
イシュマイルはその花瓶を覗き込み、両手で抱え上げてみた。ガラス質でコーティングされた花瓶はひんやり冷たく、硬い。
その頭の上では、まだ師匠シオンがバーツを叱り飛ばしている。
「いいかげん師匠呼ばわりもやめろ! ガーディアンと成ったからには同格! いつまでも見習い気分でいられては困る!」
「大体な。我がドロワ市はレミオールとは独自の国交があって、今度のことも交渉が進んていたんだ。ファーナムごときが後から来て勝手に引っ掻き回されてはかなわん!」
バーツは片手で髪を直しつつ、思い出したように言う。
「あー……そういやここの責任者だっけ。オルドラン・グース氏は人質になってるって話しだったな」
シオンは長い袖で腕を組み、尚も不機嫌に言う。
「……まだお戻りになっておらん。何かあったらお前たち全員、ドロワから叩き出してやる」
「相変わらず厳しいな。俺の見舞いに来たんじゃねぇのかよ!」
「仮病の健康体を叩き起こすのは見舞いとは言わんわ!」
イシュマイルは一連の騒動を、真横で見ていた。
手に花瓶を持ったまま呆然とシオンを見ていたが、ようやくシオンもその視線に気付いてイシュマイルの方を見た。
シオンがバーツに問う。
「……この子は?」
「あーそいつ? イシュマイル・ローティアス」
イシュマイルは、シオンを視線が合うとぎくりとして背筋を延ばした。
「例の、レアム・レアドの件を追っててサドル・ノア族の村で見つけたんだよ」
「……レアム?」
シオンは怪訝そうな顔を見せると、イシュマイルに向き直った。
「歳は?」
「十五――いえ、十七ですっ」
イシュマイルは反射的に適当な年齢を言ったが、シオンはその顔をじっと見ている。
「十七? ノア族……?」
「十五年前、レアム・レアドが連れていた赤ん坊なんだと」
バーツが横から口を挟む。
「師匠なら何か知ってるかと思ってな。連れて来たんだよ」
シオンはバーツの声を聞いているのかいないのか、イシュマイルをじっと見ているその瞳には僅かに驚愕の表情が現れていた。
バーツがその様子に気付いて問う。
「師匠、イシュマイルのこと、何か知ってるのか?」
「知っているも何も」
シオンはイシュマイルを見ながら、一息に言った。
「……君がレアム・レアドと会ったのは、ウエス・トール王国のはずだ。覚えてはいないだろうが、古都テルグムの近くにあったという、小さな村だ」
「!」
イシュマイル、そしてバーツは驚いてシオンを見る。
それは村を出る時に、ギムトロスが言っていたことと合致していたからだ。
シオンは続けた。
「その村は、十数年ほど前に魔物にやられて無くなってしまったそうだ」
「師匠! なんでそれを?」
驚きで声を上げるバーツに、シオンは振り向いて答える。
「ウエス・トール国王……いや、女王、フィリア・ラパンはガーディアンだ」
シオンはバーツには険しい表情を向けた。
「我々ガーディアンには、ガーディアン独自の情報網がある。お前もいい加減、騎士の名など返上しろ」
「……」
イシュマイルは言葉を失った。
今までの話を総合すれば、その始まりは北の果てのウエス・トールの村になる。
レアム・レアドはそこでイシュと呼ばれた赤ん坊を預かり、その後南の端にあるサドル・ノアの村に現れ、ここに隠れ住んでいた、ということになる。そしてウエス・トールにあったというその村は、もう存在しないという。
手掛かりが途切れたような気がした。
「師匠」
バーツが横から口を挟んだ。
「その辺りの話し、詳しく話してくれないか」
「……それは構わないが」
シオンは、自分の知る範囲のことを話し始めた。
「ウエス・トールの女王フィリア・ラパンが、直接私に連絡を取ってきたのだよ。ドロワに子供を一人預けたい、と」
イシュマイルは俯いていた視線を上げてシオンを見た。
ドロワには、かつての戦争の折に戦災孤児院が唯一創設された歴史があり、今でも広義の福祉施設としてその設備が存続していた。
ウォーラス・シオンは現在、その館長も兼任している。
女王フィリアが直接シオンに連絡をとってきたのも、そういった表向きの理由があるからだろうと思われた。その裏では、シオンが数多くのガーディアン適合者を育てた実績があることと、よりレミオールに近いドロワという場所であることも、フィリアの思惑の範疇かも知れない。
シオンは続ける。
「ウエス・トールは今でも魔物の跋扈する危険な場所。だから、そこまで辿り着いて無事役目を果たせる適任者がいなくてな」
バーツが「あ」と閃いて言う。
「それでレアム・レアドか!」
「その通り。レアムは当時ある理由でドロワにいたんだ。そこで私がレアムをウエス・トールに派遣した」
「村長がレアムにその子を預け、それをフィリアに報告したこと。そしてレアムがテルグム聖殿に現れたところまでは、確実な事実。……けれど、その後はそれっきりだ」
「それっきりって?」
「レアム・レアドの行方がわからなくなったのはその直後」
シオンは続ける。
「レアムは元々どの聖殿、どのガーディアンとも距離を置く奴だったし、特にこの半年はレミオールも封鎖されていたから、私もレアムとは会っていない」
シオンは声を落として続けた。
「だから、私にはそのフィリアの話の子供と、レアムが連れていたという君が、同じ子供であるという確証はないが――」
シオンの言葉は続きがあったようだが、聞いていたバーツが口を挟んだ。
「……ずいぶんとやりっぱなしじゃねぇの?」
「そうか?」
シオンは不思議そうに訊き返す。
「子供一人を預けておいて、十五年も放りっぱなしかよ?」
バーツは、いささか無神経ともいえる師の話に苛立ちを感じていたが、なじられたシオンは平然と言い返した。
「そういう点では私もフィリアも、レアムを信用している」