四ノ二、アイス・ペルサン
名を呼ばれてイシュもはっと我に返る。
レムが早足に近付いてきて、イシュを軽く抱え上げるとその足で部屋を出た。
「レム?」
名を呼ぶイシュの視界で、扉が閉まり光る壁が見えなくなる。
「ここには来てはいけない」
レムはひどく義務的な声で言う。
幼いイシュは何か答えたようだが、レムは続けた。
「今は……まだ必要がない」
そして黙り込むと、イシュをその胸に抱きかかえたまま洞窟の外へと連れ出した。
外は真昼の日差しが明るく、今の光景が幻のようだった。
レムはイシュを下ろし、膝をついて目の高さに屈む。
そしてイシュの両肩に手を置いて言う。
「ここは危険なのだ。二度と来てはいけないし、人に話してもいけない」
何故だかイシュは子供ながらにその意味を受け取り、頷いた。
そしてこの記憶を自分一人の胸にしまった。
「……ごめんなさい」
幼いイシュが素直に謝ると、ようやくレムがその口元に笑みを浮かべた。
レムは、他の人のように笑い立てるということがない。穏やかに口元で微笑しているか、今のように困ったように僅かに笑うだけだった。
レムは何かを考えているのか苦笑の中からふぅ、と息をついた。
「……戻ろう」
それだけを口にする。
どちらからともなく手をつなぐ為に手を出した。
イシュは夢の中でレムの手をとった。
そしてその途端、夢から覚めた――。
不意に五感が明確に戻ってきた。
森の中ではなく、静かな場所。
どこかの室内だとわかったその時、すぐ近くで声がした。
「思ったより子供なのね」
イシュマイルが驚いて声のした方に顔を向けると、若い女性がこちらを見ていた。そして、イシュマイルは自分がその女性の手を握っているのに気付いて慌てて離し、飛び起きた。
視界の中に、記憶にない室内の景色が飛び込んでくる。
イシュマイルが覚えているのは、戦場でライオネル隊の雷弾を受けて逃げ回ってた記憶が最後だ。
目を覚ますと、何もかもが違っていた。
広々とした部屋。
整った調度品。
壁には、透明度の高いガラス状の大窓と、それを飾る豪奢なカーテン。その窓越しに見える、濡れたような地平線の景色。
全てが見たことのない場所だった。
「あら。元気そうね」
その女性は、どこかツンとした声でイシュマイルに言う。
イシュマイルは改めて女性の顔を見る。
妙に可愛らしい人だった。
年の程はイシュマイルより少し上に見え、祭祀官が着るような長い服を身に纏っていた。長い髪は明るい色で、背に垂らしたままだ。
タイレス族の容姿だったが、どこか違和感もある。
「でも他の名を呼びながら手を握られるのって、あんまり面白くもないわね」
「あの……」
イシュマイルは何か言おうとしたが、どうにも言葉にならなかった。妙に緊張して考えが浮かばず、混乱もしていたがそれ以上に動転していた。
その女性は、イシュマイルの次の言葉を待ってかしばらくそのままの姿勢でいたが、不意に扉の方に視線を向けた。一瞬遅れて、扉がノックされる。女性が「どうぞ」と言うと、外からも別の女性の声がした。
「アイス様。ライオネル様がお越しです」
「あら、入って頂いて」
長髪の女性は、椅子から立ち上がると扉に向かう。
現れたのはライオネル・アルヘイト、一人だ。
「急ぎのことにて、この格好で失礼……」
未だ戦の後処理に追われていたライオネルは軽装のままで、室内外の女性達に対して慇懃に礼の形をとる。
イシュマイルは、それがすぐには誰だかわからなかった。
ライオネルはノア族の出自であるが、龍人族の特徴でもあるグレイッシュな銀髪をしており、それをタイレス族のように短く撫で付けていた。特徴的なのは容姿よりも眼鏡の方で、この眼鏡は視力の為以上に魔法の効果のあるものだ。
全体には神官か学者といった雰囲気だが、片方の前髪だけを頬にかかるほど垂らしている様など、武人らしくない指揮官だった。その態度は戦場での姿とは別人のように軟弱な振舞い方で、言われた女性も毎度のことなのか呆れた顔をして見せた。
「どうして私が呼び出されたのか、お聞きしたいのだけど?」
ライオネルはどういう意味か?という風に首を傾げて見せた。そしてイシュマイルのベッドの方に歩いてくる。
「おや? もう起きているのかい?」
ライオネルはアイスに問うたが、アイスは軽く頷いただけでイシュマイルに視線を向けた。
「紹介しておくわ。この人が、ライオネル・アルヘイト。ノルド・ブロスの第三皇子にして、この砦の守備隊長よ」
「……事実上の左遷だけどね」
皇子と言われて居心地の悪くなったライオネルが、すかさず横槍を入れる。対する女性はライオネルの顔を見ながら「またふざけて!」とたしなめた。
そのやり取りを見ながらイシュマイルは、この男の声をどこかで聞いたなと考えていた。記憶にはないが、地下牢獄での会話は耳には入っていたのだろう。
続いて女性が自分の胸に手を当てて言う。
「言い忘れてたけど、あたしはアイス・ペルサン。レミオールで教官をしていたのだけど、今はこんな具合よ」
こんな具合、を強調してかライオネルを横目に示した。
アイスもまたこの砦に囚われている人質の一人だったが、アイスとライオネルの立場は同等に近いらしく、彼らの話す様子は街の若者が浮いた会話をしている風にも見えた。
イシュマイルは珍しくその光景に不機嫌になった。
それは敵味方というような憎しみでなく、もう少し身近な感覚だ。突然乱入してきた男のせいで会話に放っておかれたからだと感じていたが、そればかりでもないことは、まだ自覚がない。
不思議とイシュマイルには、この男が先ほどまで戦っていた相手だという認識が消えていた。彼らが普通の会話をし、人間らしい表情を見せている姿を間近に見てしまったせいかも知れない。
理由はわからないが、今はこのライオネルという男の態度が妙に癇に障った。
イシュマイルが憮然と視線を逸らすと、壁に大きな旗のようなものが架けられているのが目に入った。