三十二ノ一、エフ
第四部 諸国巡り・弐
三十二、サクリファイス
「……フローターズ、か……」
イシュマイルが、我知らず呟く。
もしかしたら、今の自分の状況を一番表した言葉ではないか。そんな考えが頭を過ぎる。
「ねぇ、バーツ」
「あ?」
自分はフローターズか、と言おうとして少し尋ね方を変えた。
「ガーディアンも……もしかしてフローターズになるのかな?」
バーツはすぐには返事ができない。
ガーディアンはエルシオンの使徒とは呼ばれエルシオンに帰属してはいるが、地上での姿を見るにつけ、その寄る辺の無さを感じる。
あらゆる垣根を飛び越える代わりに、手近にある何もかもを捨て去っている。
エルが問う。
「魔人のことを、エルシオンの略称でなんと言うか知っているか?」
「……略称?」
「あぁ。エルシオン――天上の者たちは二十六の区別があるらしいが、それを二十六の古文字に当て嵌める呼び方がある」
「古文字?」とイシュマイル。
「そうだ。魔人は『エフ』と呼ばれている。そしてフローターズのフの音もエフという。魔人はフローターズと同じという意味なら、なかなか言い得て妙」
「……?……」
イシュマイルはまったくわからない、という顔をしている。
「二十六、か……。魔人もエルシオンの数に入ってるわけか」
バーツは別の興味を抱いたようだ。
「なら、俺たちガーディアンにも略称があるのか? その二十六の中に」
「あるよ」
「なんていう文字だ?」
バーツの質問に、エルは素直には答えない。
「……十三番目の文字だ。意味は……自分で理解するのだな」
古文字は、今では記号や意匠としてのみ使われている。
エルの名も同じ古文字のエルを借りている。
「エル。そのくらいでお止め」
テッラがようやく口を挟んだ。
テッラは何かと暴走しがちなエルを、しばしばこうして止めている。
テッラは杖を握りなおすと、椅子から立ち上がりバーツたちを促す。
「……学ぶ気があるのなら、クロウラーの船内をくまなく見せてやりたいが。今は急ぎの旅なのだろう?」
イシュマイルが、何かに気付いたように腰に帯びたバッグを探る。
「あ。テッラさん、これ――」
イシュマイルはテッラに駆け寄ると、小さな容器を手渡す。
「これ……たぶんあの子に効くはず。その、迷惑でなければ――だけど」
小分けにした容器の中には使い切る量の軟膏をいれてある。
テッラは一目見て、その薬の正体を見極める。
「こいつは……久しく見ていなかった。ノアの子よ、おまえの所にはまだこの植物が残っていたのか?」
「うん」
イシュマイルは頷き、しかし首を横に振る。
「葉は採れるんだけど、併せる材料が足りなくて。これだけしか……」
「……」
テッラは目を見開くようにして軟膏を見ている。
「だろうな……元々この塗り薬は、ウエス・トールでしか作れなかったものだ」
テッラはひとまず子供の母親に薬を手渡した。
若い母親はこの軟膏を知らない。
他の女に教えられながら、わが子の手当てを始めた。
イシュマイルは暫くその様子を見ていたが、テッラがこの場を離れるよう促した。
「ノアの子よ。見せたい壁絵がある」
そう言って杖の先でもって、最初の広間への扉を指し示した。
イシュマイルとバーツは、三つ目となる部屋へと案内された。
三つ目の部屋は他よりも荒れていて、壁の崩れた部分からは天然の岩が入り込んでいた。普段は使われていない部屋である。
テッラに続いてイシュマイルとバーツは入ったが、狭さもあってアシュレーとエルは部屋の外に残った。
壁絵の量はここまで見た中では最も多く、不規則に描き重ねられている。
テッラによると相当に古い時代のものだという。
「見るがいい。フクロウ頭の人族が植物の葉を手にしている」
イシュマイルたちがテッラの言う壁をよく見ると、たしかに線刻画で不思議な姿が描かれている。
フクロウ頭の名の通り、頭部と目玉が大きな人型の何か。
「……これ、砂漠の魔物?」
多少形は違うが、特徴は似ていなくもない。
「こいつぁ、キメラの絵か」
バーツも知識はあれど見慣れぬ壁絵を前にして見入っている。
だがテッラが言わんとしたのは、フクロウ頭ではない。
「手にしているのは薬葉だ。この植物は、もともとこの地にあったもの。そして随分前になくなってしまったもの」
「なくなってしまった……?」
イシュマイルはもちろん、年長のバーツですら生まれていない頃の話だ。
「わたしが小さな娘だったころ。大きな災いがあった」
テッラは、自身の始まりの話をする。