三十ノ十、赤き者たち
バーツとイシュマイル、護衛役の砂船乗りたちは宿を出て、連れ立って泉へと足を運んだ。
地形的には泉は少し低くなっていて、周囲の街並はこれを見下ろすようにして取り巻いている。
泉は、元は地下から噴出す水がそのまま砂地に広がっているだけだったが、急激に深くなっているのもあって今は周囲を石煉瓦の輪で囲って保護してある。
空の青を映した水が、砂地の土色と相まって緑色に透けて見えた。
「見て。泉の真ん中、水が溢れてきてる」
泉の縁から、イシュマイルが指差して言う。
泉の中ほどの水面が揺れて泡立ち、並々ならぬ水量が下から押し上げているのがわかる。
「こいつぁ……」
想像していた水プラントを上回る水量に、バーツも感心している。
「で、どうだよ。聖なる泉もこんな風か?」
「……ぜんぜん。聖なる泉はもっと小さかったし、岩場の隙間から水が流れ込んで来てた」
イシュマイルは石煉瓦にしゃがみこんで水面を覗き込む。
師匠のギムトロスからは、泉の水源は聖地の奥にあるとだけ聞いていた。聖地には足を踏み入れてはいけない掟だったから、確かめたことはない。
バーツはそんなイシュマイルを見、同じように泉の中央へと視線をやる。
「この水の底に、龍族の石とやらがあるわけか……」
石から噴出す水――。
サドル・ムレスでも似た逸話のある水場は幾つかあるが、その中には真実を語るものも有るのかも知れない。
泉の周囲には、ロープに結わえられた布地が風に強く翻る。
その一枚一枚に、金糸でもって呪術的な記号や文字列が刺繍されている。内容は、聖碑文――石舟伝承やはじまりのうた、古代龍族に関するものだ。
「……祈りの場、か」
バーツは、聖殿で見る礼拝とは別種の祈りの姿を見て呟く。
布を纏うロープの先は石煉瓦を積み上げた石柱に結ばれていて、似たような石柱が街の角のあちらこちらに建てられている。
砂船で見た残骸の石柱を連想させるが、石柱の並びは緩やかに円を描いてもいて、エルシオン信仰を象徴するものかと思われた。
――ふと、バーツは視線を感じて振り向いた。
泉の斜め向こう岸。
大きな貯水桶があり、その傍らに体の小さな老婆がいた。
砂避けの赤い頭巾を頭から被り、深い皺の刻まれた顔立ちは凛々しい。いかにも砂漠の女らしくその身に宝玉の飾りを付けている。
「……あれは……ジェム?」
バーツは気付いた。
彼女は全身に、ジェム・ギミックを纏っている。
「目を合わせないで――」
横に居た砂船乗りが小声で注意する。
バーツは言われるままに視線を外したが、気付けば泉の周囲の家屋の前や物陰から、人々は一行をじっと見ている。
「……彼らにとっては、命の水源である以前に信仰の対象でもあるんですよ」
今更とも言うべき注意を、砂船乗りは促す。
「お、おう」
確かにその通りだ、とバーツも言う。
オアシス民は砂船乗りの姿は見慣れているが、異国の装束のバーツやイシュマイルには警戒している。
バーツは、イシュマイルの後ろからフードを引っ張って起こし、離れるよう目配せする。
「宿に戻りましょう」
砂船乗りが促し、元来た道に向かう。
「……」
バーツの頭をよぎるものがある。
老婆の視線は自分ではなく、イシュマイルを見ていたのではなかったかと。だがその視線は見知らぬ子供を見守る老女のそれでは無かったように思う。
宿の食堂に戻り、アシュレーと合流した後は、積荷の上げ下ろしの手伝った。
客であるバーツとイシュマイルは、積荷そのものを触ることは許されなかったが、代わりに補充する水や食料の運搬を手伝った。返礼の意味もあったが、暇を持て余していたからでもある。
「……バーツ。あの人たち、なんだろう?」
食用種の袋を抱えたイシュマイルが、バーツに追いついて言う。
バーツは一回り大きな袋を肩に乗せていたが、イシュマイルの示す方向をちらと視線だけで確認する。
荷運びの者ではなく、オアシス民とも思えぬ親子が居て、バーツたちをじっと見ていた。
親子は全身を覆う赤い衣を身に付けている。
オアシス民とは形の違う垂れた頭巾を被り、数珠繋ぎの宝玉と鏡から成る装飾具を首元や腰から幾つも下げていた。
街から船着場までの道中、家屋の影や木々の木漏れ日の中に彼らは何人も立っている。
「初めて見る服装だな」
バーツは自然を装って砂船乗りに近寄り、彼らが何者か尋ねた。
「……あぁ、あれは赤岩の一族ですよ」
砂船乗りは軽く答える。
「ハサスラを見に時々来る連中です。普段は街の外の岩窟住居で暮らしていて、砂船が来ると下りてくるとか。害はないですよ」
はたして、船着場に停泊中のハサスラに着いてみると、赤い衣の者が数人で船体を見上げていた。
「彼らはね、ジェム・ギミックを信奉するんですよ」
「――はぁ?」
バーツならずとも間の抜けた声を上げるだろう。
「……そんなものまで信仰の対象になるのかよ」
ハサスラの積荷を上げ下ろしする人々の周囲に、彼らは遠巻きに集まっていた。
何か話すわけでもなく、もとより話しかけても返事もせずにただ船体を見ているらしい。ジェム・ギミックの集大成の高速艇に向かって、彼らは心の声で呼びかけ続けている。