三十ノ一、星の子たち
第四部 諸国巡り・弐
三十、星の標
――ウエス・トール王国。
アシュレーの高速艇ハサスラが永い砂漠を進んでいる。
夕刻に出航し、夕陽を置き去るかのように東に針路を向ける砂船の船首に、イシュマイルは居る。
広い空は茄子紺色から紫、桃色と重なり橙とも緋とも見え、太陽の神レミオールからは黄金色の光線が差す。雲にも色鮮やかな影が落ち、一面の砂はそれら全てを照り返すように赤い。
イシュマイルは魅入られたようにその夕焼けを見ている。
そんなイシュマイルに、一仕事落ち付いたアシュレーが声を掛けに来た。
「見飽きない景色だろう?」
アシュレーはその手にイシュマイルの分の砂避けマスクとゴーグルを持っている。今は風が凪いでいるが、異変があれば喉や目などを守るためだ。
「特に夕焼けってのは、どこの国の景色でも見事なもんだ」
「……うん」
「でも、ここまで何にも邪魔されない夕日って、そうは見られないよね」
イシュマイルはサドル・ノアの村近郊で見た風景を思い出そうとする。ノア族の村は深い森の中にあったから、こんなに広く丸い空は初めてだ。
ここにあるのは全身を圧してくる風、直接肌を差してくる陽射し。砂漠から見える太陽や月は、そこに何者かが住んでいる気配すらあって、神話が肌で感じられる。
「……ほんとうに、何もない処だね」
ここには人の密度がない。
それが森であれ街であれ、それまでの場所には密度があった。
命が消え入りそうだとイシュマイルは思う。
「こんな、何もないところで――」
ここが自分の始まりなのかと、実感が沸かずにいる。
シオンの話が本当だとすると、自分はここで母と思しき女性と死に別れたことになる。
その村はもう無いとも。
だとしたら墓なども無く、諸共とうに砂にのまれて大地に還ったのだろうか――そんなことを考えていた。
アシュレーは、イシュマイルの子供らしからぬ表情を見ている。
「何も無いってわけでもないぜ」
アシュレーは斜光に照りかえる砂の大地と、急激に緋色を失っていく夕空へ視線を移した。
「ウエス・トールの大砂漠には砂の砂漠と、白い砂漠の二種類ある。今走っているところは砂の大地だ」
砂船が走るのは岩場の少ない砂砂漠である。
比較的柔かい岩石が風化などで砕けて積もったもので、風によって砂丘は移動し、なだらかに波打った地形となる。時折金粒のように光るのは硬い鉱石の礫が含まれているためだ。
「俺たちの遥か祖先が最初に渡って来て辿り着いたのが、このウエス・トール王国だと云われている。どうやって人族が大陸中に拡散したのかは、謎なんだがな」
当時から王国の環境は厳しかったという。
この環境の中で人族の助けとなったのが、この地に住んでいた古代龍族だと伝承は語る。
「石舟伝承や『はじまりのうた』にある、最初の龍族との対話の地が此処だったわけだ」
「じゃあ、ここからノア族の祖先は三賢龍と共に三方向に旅立ったわけだね」
ノア族の三つの拠点は、この王国を除く三箇所にある。
「あぁ。それにラパン王朝は、プレ・ノア族の正統血統だとも言われてるな」
はじまりの地である。
「もう一つの『白い砂』は定期的に移動はしてるが、だいたいは古都の周辺や遺跡群の辺りにあってな」
今目指している古都テルグムや、オアシス村もその方角にある。
「陽射しを照り返して真っ白に輝くから、白い砂漠って呼ばれてる」
「白い砂なの?」
「そうでもない」
訊ねるイシュマイルの前で、砂砂漠は夜に飲まれ色彩を失っていく。
「白い砂漠の砂は恐ろしく滑らかでな……船の上からじゃ水面のように見えるんだ」
「砂なのに?」
「あぁ。まるで臼で挽いたみたいに細かいのに風には飛ばない。水のように溜まっていて、砂に置いた鏡みたいに光を映す」
「夕方には夕陽を映して真っ赤になるし、明け方には紫に染まる。そして夜は――」
アシュレーが話しながら、前方を指差した。
「嵐の外海みたいに、真っ黒になる」
前方に、真っ暗な穴でも開いているのかと思われる黒い地面が見えてきた。
陽の傾きに陰影を見せる砂砂漠の中に紛れて、大きな池のような何かが待ち構えている。
「入る瞬間は揺れるから、注意しろよ」
アシュレーはイシュマイルの肩を掴みながら前方を見る。
黒く見える白い砂漠に艇身が滑り込んだ瞬間は、ボートが水に入った時のように大きく沈み込み、そして浮き上がる感覚があった。
そして、それまでの波音にも似た砂を滑る音すらしなくなる。
無音の中、風が抜ける音が大きくなった気がした。
「う、浮いてるの?」
「あぁ。砂に浮くから砂船なんだ」
イシュマイルの感覚では本当に滑空でもしているのかと思うほど抵抗を感じなかったが、アシュレーからすればやはり砂間を切って船は進んでいる。
「奇妙な場所だろ?」
話している間にも高速艇は漆黒に見える白い砂漠を進み、夜を迎えたこともあって世界は一気に黒い世界になる。
「空を見てみるといい。星空ってのは遠くにある小さいもんじゃなく、光の洪水だってわかるからさ」
アシュレーが夜空を指差すと、そこには白く蒔き散った飛沫のように星が夜空を覆い始めている。
「年に数回だが、今日みたいに風が静まる夜がある。綺麗に星空が映ってな。砂漠の民はこれを星の海と呼んでいる」
風の少ない日が続くと、白い砂漠は驚くほど広い平面になることがある。
凪いだ水面のように平らな大地が巨大な鏡のようになる。満点の星空が、地上にも鏡写しに現れるのである。
そこは見慣れた夜ではなく、星からの光に溢れた世界である。
「星の日に生まれた子供は特別に祝われるし、恋人たちは星の海の日に結ばれたがるわけだ」
アシュレーは、改めてイシュマイルに言う。
「一見何も無い殺風景な荒野に見えただろうが、人がそこに一人でも居る限り、浪漫のない土地なんてないんだよ」
「お前はここで生まれてここに戻ってきた。それだけでも感動的じゃないか」
「……そうだね」
イシュマイルはもう一度、星空を見上げる。
天にも地にも、星の海が満ちている。
それはどこか見覚えのある景色。
「戻ってきたんだ」
そんな言葉が自然と出てきた。




