二十九ノ二、双つの名
――気付くと、真昼間の陽射しの中にいた。
空が見え、音も体の重さも、地面の感触も戻ってきている。
「大丈夫か?」
声とともに人の気配が間近にあった。
それがロナウズだと理解する頃には、その手で上体を起こされている。
目に入るのは、いつもの四辻の景色だ。
「その様、何と戦った?」
またロナウズの声がして、レニは今更のようにロナウズの顔を見る。
「……てめぇ、か?」
呆然としたまま、訊ねた。
誰かに腕を掴まれたのを覚えている。
助けられたことや男の手だったというのは理解していたが、それがロナウズではないというのも頭ではわかっている。
「安心しろ、君を助けたのは私じゃない」
「……ハ。考えるまでもねぇ、……てめぇに出来る芸当じゃ、ねぇ」
レニは強がろうとして、体中に痛みを感じて悶絶した。
改めて見ると、あゆらるところに裂傷があり赤くない場所がないほどだった。
「何者だ? また、タナトスとやらか?」
ロナウズはなんら気遣うでもなく、義務的に訊ねる。
レニはひとしきり痛がったあと、ぼそりと答えた。
「違ぇ……あれはもっと、ヤバイもんだ……」
「……」
レニの語彙力はともかく、前回を上回る危機感をレニが抱いたというのであれば、ロナウズとしても捨て置けない。
「一度屋敷に戻るぞ。その状態では隠形も治癒もままならぬだろう」
ひとまず、とロナウズが手を差し出す。
「その後で、ここで何があったのかきっちり聞かせてもらう」
「……ふん……」
レニはすぐには手を出さず、ロナウズは腕を掴んで乱雑に助け起こした。
「人目につかぬうちに行かねば。さすがに君の風体は目立ちすぎる」
不本意ながら肩を借りる形になり、レニは意地でも自分で歩こうとしたが衰弱が激しかった。
「てめぇの手は、借りねぇ……。なんならここでトドメでも刺しとけよ」
せめてもの反発に、憎まれ口を叩くレニである。
「……此処で死なれてもこまる。殺すなら屋敷の中でやるさ」
「ぬかせ……」
ロナウズはレニに肩は貸しているが必要以上には助けない。
ともかくも二人は急ぎこの四辻を立ち去る。
昼間の良い陽射しであるのに、周囲に人の往来はなかった。
誰も今の光景を目にすることはなく、その不可解さを含めてのこの場所である。
――ただ一人。
不自然に現れた人物がいた。
立ち去る二人の後ろ姿を見送っていた。
レニとロナウズが無事この場を去ったのを確かめると、四辻に向き直る。
「……これが例の四つ辻か。これはまた、派手に破れておるな」
誰と話すでもないその声は、あのレコーダーのものである。
レコーダーの目には、四辻から溢れ出そうと暴れる奔流が見えている。
四辻で交差する龍脈――街道を結んで流れるエネルギーのラインは、濁流の如く乱れていて、以前の整えられた河のような太い流れは失われていた。
レコーダーは、空を仰いで語りかける。
「どうやら、私が呼ばれたのは此処を塞げということですな?」
見上げる空は何も変わらず、いつもの青い天球のままだ。
「……まぁ良いか。多少骨は折れるが、私の手に負えぬ相手ではない。ただ」
レコーダーは姿の見えぬ誰かと会話を続けている。
「ここが破れたということは、鏡合わせとなる地にも災いが忍び寄っていよう……つまりは、レヒトだ」
レヒト、かつての帝国の都。
このアリステラの四辻から、アール湖の中心を基点として対となる場所となる。
「そちらは任せよう。その前に――」
レコーダーは地面の奥底を覗く様にして、四辻の中央を見る。
「これほどの力だったとは……我ながら、惜しい逸材を見逃したものだ」
レコーダーは四辻を見つめ、残念そうに呟く。
その目にはレニを襲った龍頭亜人の姿と、その足元にうずくまったままでいる頼りない人影が映っている。
レコーダーはひとまずレニを助けたものの、今一人をどうしたものかと思案している。
そんなレコーダーに、姿見えぬ相手はなにごとか伝える。
「……承知した。他ならぬ、貴女の頼みだ」
レコーダーは応えると、胸の前で指を組み、術を唱えた。
その姿が揺らぎ、霞むように消え去る。
レコーダーは暴れる四辻の流れの中に身を沈めた。
人の目には見えないが、四つ辻から溢れてきていたものは『災厄』である。
アリステラに降りかかろうとしていた災いの一つ。
魔人と呼ばれたレコーダーは、敢えて人族の運命に干渉した。
――レコーダーがその空間に降りると、炎を纏う人影が見えた。
その者は歩き回りながら炎を滴らせ、火柱を作っては同じ所ををぐるりぐるりと回っている。
「まだ彷徨っておるか、アヌ・ウム・イドよ」
レコーダーはその炎の者を、古い通り名でそう呼んだ。
アヌ・ウム・イド、つまりアヌン・メイダ――は聞こえていないのか、レコーダーを無視している。
「……器の失われた霊精というのも、哀れなものだ」
アヌン・メイダはさきほどレニを捉えていた時の勢いは失われ、今は声も形も朧気にうろつき回るだけである。
「あいにくだが、その入れ物はお前には合わぬ。ガーディアンに返して貰おう」
「ガ……ディアン……」
レコーダーの言葉に、アヌン・メイダが僅かに反応を示す。
「理性があるか。では」
「君に、ある名前を教えよう」
レコーダーは、二つの名前を声にした。
二人の人物、それぞれに与えられるはずだった二つの名前。
「一人はアステイル・アクティナ・レスファトゥス。今一人はアクエルド・ティエラルス・レセケファレオ。……これらの名には名付けた者の願いと愛情が込められている。運命を跳ね返せるように、との想いが――」
どちらの名前に反応したのかはわからないが、アヌン・メイダを形作っていた炎の衣が揺らぎ、吹き消されるように四散した。
炎の中から、囚われていた人物が姿を現す。