二十八ノ十、影
「そうだねぇ――特には何も?」
伯母役の女はあっさりと答えた。
ライオネルという男がノア族の里にいつ居たのかすら覚えていない。
もとより死生観にタイレス族とは差があり、ましてライオネルは龍人族の血統でもある。
「自分から戦場に立つ以上、俺たちには言うことはない」
男の意見も似たようなものだ。
「ただし」
夫婦は少し言葉を付け足す。
「彼が何を守っているかによる」
「……守る?」
ドヴァン砦のことを? とは言わない。
それはノア族らしくない発想である。
では、何?
「ノア族の戦いは、守ることだ。伝統であったり、愛する人であったり、時には意地であったりもするが、ノア族にとって大切なものに形はない。そして形のないものは必ず外から見えるものだ。それに共感した時にだけ、俺たちは助けたいと感じる」
「……」
ロアならずともタイレス族にはよくわからない話だ。
「ルネーもそうだったよ」
女はロアにそっと言う。
「あいつが剣に掛ける情熱と信念は目に見えるものだった。タイレス族は理解しなかったようだけど、あたしらはあいつに手を貸したいと感じたさ」
そしてロアの髪に手を置いて言う。
「あんたのこともね」
夫婦がロアの世話役を引き受けたのは、ルネーの縁者だから……だけではない。ロア自身が持つ才能と、習得への貪欲なまでの姿勢だ。
ノア族自体が職人気質でもあり、自然と受け入れている。
「ルネーってのはね、ランドストーカーなんだよ」
女が言う。
「星神ブリスの申し子さ。あたしとうちの人みたいに里の外を旅する者には、星と星神こそが標……。ルネーのような男と知り合うのも必然だね」
タイレス族は天体や自然の様々なものを神として敬うが、エルシオンに関わる者は特に太陽と月を強く信仰する。
反面、星については民間信仰の方が根強い。
星神を大切にするのはウエス・トール王国の砂漠の民や、各地を旅する隊商などで、古くは放浪民を侮蔑して星神を落としめたとも言われる。
『星読み』を軽くみる傾向にあるのもそのためだ。
だがそういった国境を越えて旅する者こそが、大陸の血流である。
魔物ハンターやルネーのような剣士が彼らを守って供に旅するのも、金銭だけが契約の要ではないということだ。
「ルネーは彷徨う者だ。大陸中を旅して回るのが運命……やつにはお前みたいな弟子が何人かいるが、いずれ誰かがそれを引き継ぐ」
男はそう語り、女はロアに自分の子のように言う。
「あたしは……それがあんたでないことを祈るよ、ロア」
「本当のノルド・ノア族の男になれば良いのに」
女はそう言って含みのある笑い方をする。
ノア族の里に入りノア族の娘でも娶れば、それでロアもその子供もノア族である。
伯母夫婦役の二人は、時折そうやってロアに話を持ちかけるのだ。
ロアはというと、今はあまりその気にならないようだ。
――三人はその後、南東にある小さな村についた。
駅馬車のステーションの一つでもあり、他の乗客や旅人が行き来する。
サドル・ムレス都市連合に戻るには『案内人』の協力が必要である。
ロアは彼ら『案内人』と落ち合う為に村に来た。
正式な出入国が難しい今、大方の者が選ぶのは金品を使っての密入国や密航あたりだろう。一番安全で現実的である。
巡礼や弱者を装ってレミオール大聖殿への道を懇願する者もいる。
御伽噺の中ならば、空掛ける翼竜に乗って飛び越える方法もある。
もう一つ、現実的でない方法もある。
月魔の徘徊する洞穴を抜けて外海へと出る。大荒れの毒の嵐の中、大陸の外周を辿ってどこかの秘密の入り口へと辿り着く。――こんな話、行方不明に尾ひれが付いた伝説か、根拠のない噂として、誰もまともに信じようとは思わない。
いずれにせよ、潜入の方法に関しては皆何も語らない。
それが『案内人』との契約。
語る者が居ないのは、語ろうにも命を無くした者であるか、命を引き換えにしてでも語らないと誓った者たちだからだ。
ロアも、潜入の方法に関しては誰にも明かさない。
――ロアが『案内人』との繋ぎを待って村に滞在している間。
その間に一度だけ不思議な体験をしている。
村に入った日、見慣れぬ者に出会った。
遭遇したと言ったほうがいい。遠目に存在を確認した途端に、近付いてはいけない相手だとロアは悟った。
一見すると女かと思った。
だが線の細い男にも見える。
村の広場にある泉の前に、その者は立っていた。
『盾の泉』と呼ばれ、設えられた石像からは水位差を利用した噴水が流れ落ちている。数本の水の垂れ幕の向こうに紛れるようにして、その人影は佇んでいる。
その者はノルド・ノア族の女の衣を身につけていて、黒くて長い髪を背に垂らしている。だがノア族の女は髪をそのようにしないし、里の女たちの顔とは違った。
目線が合いそうになり、ロアは咄嗟に飛びのいて物陰に隠れた。
『ロア』の時には見せない素早さであったが、そのくらい狼狽したのである。
(――あれは、ヤバイもんだ)
そう感じた。
危険だとか強いという類のものではない。
ロアはその手合いの恐怖心は一通り味わって慣れている。
すぐさま危機を運んでくるようなものではなく、異質な者への畏れに近い。
どちらかといえば、自分に似た何か――。
幾つも名前を持ち、幾つもの自分を使い分ける者。
(あれは……作り物だ)
説明は出来ないが、そう感じた。
その者は人形のように冷たく美しい外見をしていたが、感じる気配は一人ではなく無数の存在。其処にいるのにどこにも居ない。
泉の水が見せる幻影でもあるのか、ロア以外には見えていないようだった。
ロアはしばらく物陰でやり過ごし、気配が去るのを待って再び泉を確かめる。
その時はもう、その者の姿はどこにもない。