二十八ノ八、善人
「なぁ、ロア。ドヴァン砦が落ちたとしたら、どうなると思う?」
スープの皿を掻き回しながら、ジェイソンが独り言のように言う。
「それとも……もし、失敗したら――」
「オレが、死ぬ」
ロアは淡白に答え、ジェイソンは慌てて言い直す。
「じゃ、じゃあ無事落とせたら? 聖レミオール市国は解放されて、ドヴァン砦も通行できるようになる。ドロワも……サドル・ムレスに戻る?」
「元通り、だな」
ロアはジェイソンが何を言っているのかわからない様子だ。
「変わらない……なにも」
いつものように静かな声で言うだけだ。
ロアはそのまま食事を続け、ジェイソンは手が止まっている。
「だが……タナトスに続いてライオネルも消えることになったら……。そうなったら、カーマイン一強……帝国に住む俺たちタイレス族は、さらに肩身が狭くなるんじゃ――」
「なら、逃げろ……」
ジェイソンが顔を上げると、ロアがまっすぐに自分を見ている。
「逃げるって……どこに」
「確かに、ドロワやレミオールに逃げ出してる奴らはいる。アテがあって金がありゃあ、な」
ジェイソンには想像も付かない。
「受け入れられると、思うか? タイレス族だけの国があるなんて、俺には信じられない」
「……」
ロアは少し考える。
「……無い」
まったくもって必要以下の言葉しか発しない。
どちらの問いに対する答えかも判別つかないが、ジェイソンにはどちらでも同じだ。
「俺だって一度は魔物ハンターになって故郷を捨てたさ。だが戻ってきた……今んなってもう一度逃げ出した方がいいってわかってても、もうその気にはなれん。不思議とな」
ジェイソンも、祭祀官シェイムと同じである。
ボレアーがどうなろうとも、そこで暮らし続けるだけだと。
「ロア。お前、生まれは?」
ロアは首を横に振るだけだ。
覚えてなどいない。
ただ今までで一番長く滞在したのはボレアーだろうと思われ、その点ではジェイソンと境遇は似ている。
「なぁ、ロア」
まだ少し迷いはあるのか、ジェイソンがまた訊ねる。
「お前のその技術……どこで学んだんだ?」
「……」
「あぁ、鍵開けとかギミックとか、そっちだよ。ルネーに連れられて修行して回ったんだろ? やっぱりロワールとか、ファーナムとかか?」
ロアはまた少し考えている。
「ちょっと、憧れるよな。俺はハンターとしてあちこち回ったつもりでいたが、帝国の外には出たことないんだ。……色んなとこで腰を落ち着けて修行を積むっても、悪くは――」
「……ハノーブ、だったかな……」
不意にその名が頭に浮かんだ。
街や工房の名ではなく修行した場所でもないのだが、何故かそれを思い出した。
「ハノーブ?」
ジェイソンには聞き覚えのない町だ。
「そこって小さい、町?」
「……いや」
ロアは手を止めて考えている。
「――セイグダ・ハノッブ……パル・アギテュール」
「え?」
不意にロアが不思議な言葉を発した。
「……ディオデキマ・デイケ・ミナメス……ハノッブ・セグンダ……デ・シーマ」
いつもの掠れきった声でなく、滑らかな音が喉から出てくる。
「……ロア。今、なんて言った?」」
ジェイソンは少し間をおいてから訊ねる。
ロアは自分では気付いていない様子で、視線を落とし思い出そうとしている顔だ。
「ハノーブって聞こえた気がするが……なんというか、聖殿の祈りの時みたいな――。お前、いまさらシェイムに祈り方でも習ってんのか?」
「……なに?」
ロアは今問われたかのようにジェイソンを見た。
発する声も普段と変わらない。
「いや、なにって……」
ジェイソンはひとまず聞き流すことにする。
「ま、まぁ、いいんだ。……それより覚えてることは?」
「……」
ジェイソンは再び訊ね、ロアはハノーブの記憶を辿ろうとする。
「……そう、だな」
「ライブラリー……」
思いついた単語を口にする。
「ライブラリー? どこかの聖殿の図書館ってことか?」
「……」
「本を読んだだけでそこまで?」
「いや」
ロアは遠い記憶をたぐっている。
「覚えて、ない……ただ」
「ただ?」
「酷い目に……あった」
覚えているのは、そこで捕まった記憶だけだ。
まだほんの子供だった。
ロアが最初に捕まった所で、逃げる生き方はそこから始まった。
以来、ルネーの手によって再び捕まる日までずっと裏社会に居て、カラスとあだ名されるほど逃げ続けていた。
お頭と呼ばれた男たちは、それを『ギフト』だとも言っていた。
ハノーブのことは思い出したくない。
あれ以来、声がうまく出せなくなった。
ハノーブの記憶を辿ろうとすると、体が強張り自由が利かなくなる。
それもまた『ギフト』のせいだとも――。
ロアは両の二の腕をさするようにして、もう話したくないと首を横にふる。
ジェイソンも気遣って、それ以上は訊ねない。
マスターはロアのことを「痛くも無い足を引き摺る」と言っていたが、それはロアをよく知ってはいないからだ。
「ギフト……天賦の才ってことか」
ジェイソンはギフトの意味を古い信仰として知っている。
神が神の手を人に授ける時、犠牲もまた強いるという考えである。
言ってからジェイソンは、その意味に気付いて自分で笑う。
「じゃ、俺がハノーブってとこに行っても、お前みたいになれる望みは、薄だな」
そこまで神に愛されるには、元となる才能がなければならないからだ――ジェイソンはそう解釈して、吹っ切れたように笑っている。
「……」
ロアには、ジェイソンの笑いの意味がわからない。
「――なぁ、来年もちゃんと来るんだろうな? 今年早上がりした分、お客も待ってるだろうしな」
ジェイソンは、ロアの身を思っていつもより早く街を出ろと忠告した。
マスターが心変わりするとは思いたくないが、少なくともマスターの目の届く範囲に、ロアを置いていたくない。
ロア達が無事なら、ボレアーで何かあっても計画の破綻には繋がらないとも思っている。
だが街の人々にもこの店にも、ロアは必要だ。
「……生きてれば」
ロアは冷静に言い、少し悪ぶってか付け足した。
「……自警団員って肩書きは……オレにとって、便利だからに過ぎない。……だろ」
「あぁ」
ジェイソンは頷いたが、納得したわけでもない。
「でもさ。二人が、ドロワで市民になったって聞いたから、さ」
ルネーがドロワに腰を落ち着けるなら、ロアもそうかも知れないとジェイソンは思っている。
「準市民、だ……それにオレはサドル・ムレスじゃ、前科者だ」
「お、俺だって帝国じゃそうだぜ、二度捕まった。今だって……」
ジェイソンはいつもの癖でワルの度合いを張り合おうとする。
が、相手が悪い。
「今だって――三流の鍛冶屋だよ」
諦めてそう言った。
「ギルドの支援で工房を持てたが、俺の本当の役目は窓口……使いっ走りだよ。市民に溶け込んで、人目を欺く手伝いだ」
ジェイソンはそう自虐したが、口調だけはさっぱりとしている。
ロアは知っている。
ロアレルムストー・キルグムという存在もまた、便利な肩書きに過ぎないと。
最初からそして今後もずっと、そんな人間はこの世に居ない。
ロアはそれを受け入れて演じていて、ルネーはロアとクロオーという二役に対し驚くほど完璧に別の人物として接している。
「……あんたみたいなのを……善人っていうのかも、な……」
「はぁ?」
ロアはふと口にし、言われたジェイソンは耳を疑った。
ジェイソン自身の基準でいうなら、自分は善人ではないからだ。