二十六ノ八、英雄の子
「私もただの乗客の一人なのだが、多少『上』に顔が利くのでね。今回は無理を通させてもらった」
ローゼライトはそう嘯いて言う。
「なに……君たちを拿捕したままだと、また帝国に戻らなければいけない。私としては迷惑なのでね」
「あんたは何処に、何をしにいくんだ」
訝しむバーツの問いに、ローゼライトはすらすらと答える。
「まずはアリステラ港。行く先は酔狂な貴族の屋敷さ。この船に積んでいる騎乗用竜族は儀仗用の逸品でね。鑑賞に耐える個体ゆえに手入れが欠かせない。……見るかね?」
「……いや。見るまでもなく竜族の気配はわかる」
帝国側の船内には竜族の高い気配が複数ある。
軍用か観賞用なのかすらわからないが、どれか一体を見せられたところで専門家でないバーツには口の出しようもない。
「だろうね」
ローゼライトは口元を歪めるように笑う。
なんの不自然さもない嘘をバーツが微塵も疑わなかったのは、ローゼライトの持つ特性のせいもある。
そこに、イシュマイルがやってきた。
「ほう」
ローゼライトはバーツとの会話をやめ、興味を持ったらしくイシュマイルを見る。
「なるほど、そういうことか」
「船が引き込まれた理由が、なんとなくだがわかったよ」
ローゼライトはイシュマイルに近付こうとし、バーツはすかさず片手で制した。
「……案ずるな。いまさら危害をくわえるつもりはない」
「どうだかな。あんた、名前は?」
バーツは憮然とした口調で問うたが、ローゼライトは首を横に振る。
「名は名乗らぬよ。名乗っても意味が無い、私はそういう生まれなのだ」
ローゼライトの言葉は、一つ一つに含みがある。
その時。
イシュマイルが何かに気付いて表情を変えた。
「えいゆうの……子?」
イシュマイルが呟き、ローゼライトはその言葉に反応を示した。
イシュマイルはぼんやりとした声で言う。
「今……誰かの声がした」
「誰の?」
「誰の、というより大勢が一斉に同じ言葉を言ったような……」
「……」
そして、ローゼライトに真直ぐに視線を向けた。
「貴方のこと、ですよね……? あの人たちが今、僕に言ったのは」
名乗らぬローゼライトに代わり、何者かがイシュマイルに告げた名前。
英雄の子――。
「あの人たち……か」
ローゼライトは肯定も否定もせず、ただ頷くだけだ。
「何故君にその声が聞こえたのか、それはこの際よいだろう」
「目的の水域まではまだ随分とかかる。今も流されているからね」
ローゼライトはまた眼鏡を掛け直した。
その表情を読まれまいとするかのように。
「波が凪ぐまでの暇に昔語りでもいかがかね?」
その前置は、昔語りをする吟遊詩人が好んで使うフレーズでもある。
「――君たちは我が祖国への偏見があるようだが……ノルド・ブロスというのは今も昔も、三種族が和をもって暮らす平和な国だよ」
ローゼライトは、まず最初にそのことを強調して言った。
帝国は、三種族が暮らす平和な国だと。
「と言っても私が生まれた頃の話となると二百年ほど前まで遡ってしまうから、その時代の面影などはないだろうが」
バーツとイシュマイルはそんなまさか、と互いに顔を見合わせる。目の前の龍人族の老人は、その言葉を信じるならば二百歳以上ということになるのか。
ローゼライトは、二人の顔色に気付かぬ様子で語り続ける。
「当時のノルド・ブロスの和の中心にあったのは……そう八門貴族、三部族の首長九人、そして百家院――レヒトにはかつてその為の議事堂があった」
レヒトとは、今の炎羅宮レヒトに移る前の、旧都レヒトのことである。
旧都レヒトには三種族が集う合議制の議会があり、平和的に機能していた。
八門貴族の中には、レアム・レアドの旧姓であるアスハール家もあり、その他の龍人族の有力家が名を連ねていた。しかし百年前の大災厄で地盤諸共崩落し、今となっては議事堂はおろか何も残ってはいない。
「私の父はその昔、その議事堂の護衛兵の一人でね。名も無き平民の出だったが、実力と野心だけでセネター・ガードまで成り上がった……皆は父をして英雄の気風と称えたものだよ」
「英雄の、気風」とバーツ。
「だから、英雄の子?」とイシュマイルも鸚鵡返しに問う。
ローゼライトは、ふっと抜けるように笑う。
「父が英雄となったのは『レヒトの大災厄』の後だ。そして私と父の縁が切れたのは、それよりもずっと前……つまり、私が英雄の子だと知っている者はごく僅か……」
「何より、私の相は忘失の者。こうして言葉を交わした君たちも、この船を降りる頃には忘れているだろう」
それがローゼライトの運命であり、特性でもある。
誰も彼の存在を覚えておらず、目の前にいても気付かない。
「私がジェム・ギミックの研究に生涯をかけたのはその為だ。私の存在も名前も忘れ去られるだろうが、研究の成果は残る」
ローゼライトは、誰に言うでもなく心にしまっていた本音を口にする。
望みはただ、それだけだ。
「それが三種族の世界に何を遺すか……繁栄か瑕か、それは知らん。所詮は使う者の心根一つ」
「アウローラ・アルヘイトはそれを祖国の復活の為に使ったが、お前たちばどうであろうな?」
ローゼライトは改めてアリステラの船を見、今度は鼻で嗤ってみせた。
「この船と我々の船を見比べればわかる。模倣劣化としかいいようがない」
「……何の話かわからねぇが、見下されてるのは感じるな」
バーツは、挑発を敢えて躱した。