二十四ノ八、サイレン
月魔竜は何度も浮いては落下を繰り返しつつ、脚のような突起で這い進んでいる。
その都度に起こる揺れと突風は、その重量からだけでなく身を包む魔力から発生する現象である。巨大な魔力の塊がその体を動かすだけで、周囲には自然を超えた力が発生する。
「狙いはその男だ! 月魔を行かせるな!」
口々に叫ぶが、月魔竜が激しく動きながら接近してくると、それだけで自由が利かなくなる。転倒し、月魔竜の突進を避けるのも精一杯の者もいる。
そんな中にあって巡礼服の男は独り、楽しげに月魔竜を見て嗤っている。月魔竜が真正面から自分を狙って迫っているが、それを承知で恍惚と眺めている。
「……さぁ寄こせよ生贄の肉……。自ら望んで血と心臓を掲げた者こそが最高の供物、最上の犠牲である……」
空中に浮揚する月魔竜を見上げ、男は祈り詩のような音階を口ずさむ。
月魔竜は何度目かの浮揚ののち、泉の石像目掛けて落ちてきた。
泉の前に立つ巡礼の男は諸共その下敷きとなる。
ダヒサ泉の女性像は、月魔竜の肉の重量と魔力によって圧潰された。
月魔竜は突進を止め、その位置に留まり蠢いている。
崩れた水受けから泉の水が流れ出し、それが赤く広がっていく。
ようやく立ち上がった白騎士団は最初は呆然と、やがて忸怩たる思いでその様を見る。追い詰めた末にようやく掴まえた男を、みすみす殺させてしまった。
皆が言葉を失う中、月魔竜の肉の下から泉の水が吹き上がった。
せき止められていた水は、本来女性像の手にある壺から流れ出るはずがその全てが破壊されたため、今は石畳と瓦礫の間から吹き上がる。
泉の水は月魔竜の頭や背にも降りかかった。
膨らんだ皮膚が強酸でも浴びたように溶けていく。
月魔竜は暴れ、泉の瓦礫の隙間に脚を取られたか逃げ出そうともがいている。
赤い水がさらに広がり、どこまでが男の血であったか地面で混ざり合い広がった。
泉の水は背中の薄羽や氷塊のような結晶に降り落ち、水が触れた所から融解のためか白い靄を発生させた。
その靄は周囲に漂い、泉を取り囲む白騎士団の喉や眼に強い刺激を与える。
「馬鹿な――。よもや水でっ?」
白騎士団は咄嗟にマントで口元を覆う。
この喉を刺す白い靄――何もかもあの時と同じだ。
「ネヒスト!」
後方からカルードが叫ぶ。
「騎士団を下げろ!」
「貴方こそ下がりなされぃ! この月魔は此処に閉じ込めて対処致す!」
「こいつは前の奴とは違う、同じでは駄目だ!」
ネヒストと言い合うカルードを押さえていたフェルディナントが促す。
「――! おいっカルード、空を!」
頭を上げるまでもなくカルードの視線の先、ネヒスト達の向こうに細い光の柱が見えた。
「あれは……信号灯……?」
ビーコンの灯りである。
白い光が上空へと伸びるのが見え、旧修道院を取り囲んで南と北にも同じ光が現れた。
信号を上げたのは白騎士団である。
ネヒスト達とは異なる別働隊は月魔竜と遭遇し、当初の手筈どおりにこの旧修道院へと追いたててきた。その成功と位置を報せるために三発の信号灯を空へと打ち上げ、それが今カルードたちと交叉したのである。
その報せは全軍を指揮しているカミュたち、そしてドロワ城と聖殿にも向けられている。
自警団員らは見慣れない灯りにただ空を見上げていた。
「……あの信号の色……」
聖殿騎士であったカルードは、その意味を察して目を見開いた。
フェルディナントが面食らったようにカルードに問う。
「カルード、何なんだあれは!」
「防衛機構――輪が、発動された……」
フェルディナントが理解するより先に、カルードは白騎士団に向かって叫んだ。
「白騎士団左中隊! 早急にこの敷地から退避! ここに光が来るぞ!」
白騎士団、そしてネヒストがはっと振り返った。
彼らの耳には、中隊長ヘイスティング・ガレアンの命令に聞こえたからだ。
どこからともなく、旧市街のあちらこちらから甲高い異音が響く。
サイレンに似た響き、その目的も警告である。
これを耳にした市民はすぐに従うべきだ。
ネヒストも、今度は迷わず退避命令を出した。
敷地内、庭園に居た者建物内に居た者みなが街路まで下がり、見守る。
庭園ではまだ月魔竜が泉の水を頭から浴びているのが見える。白い靄を立ち昇らせながら、苦しむかのように動いている。
カルードはフェルディナントに抱えられたまま泉を見ている。
ネヒストはその隣に立ち、やはり事態を見守った。
「十五年ぶりですな……」
「あぁ。だが前回とは違う」
カルードは何度目かの同じ言葉を繰り返したが、意味は違う。
「何の話です? 光とは」
フェルディナントはまだ察しが付いていなかったが、彼も子供の頃に見ているはずだ。
「――オルドラン・グース殿だ」
カルードとネヒストが同時に答えた。
「ドロワ聖殿と、祭祀官長殿が御加勢下さる」
ネヒストが続ける。
「先達ての月魔が現れた時は、祭祀官長殿は不在であられた。いや、もしドロワに居られたとしても、あの時は人が多すぎた故――」
すうっと、上空からオーロラのような輪が降りてきた。
ちょうど夕刻を過ぎ、だんだんと暗くなり始める空の下である。
敷地を包むように、雲まで続きそうな円柱が揺らいでいる。
「これは……」
フェルディナントもようやく思い出した。
――十五年前。
ドロワの街が月魔の大群に囲まれた時、こんな光の輪がドロワの街をぐるりと包んで守ってくれた。
あの時はわからなかったが、これがドロワ聖殿が成した防護陣であると、今なら理解出来る。
蛇足ながら、その防護陣のためにレアム・レアドはドロワ聖殿の門に辿り着けずサドル・ノア村へと飛ばされたのだ。
それと同じ光が、今は光る柱として目の前に出現している。
(美しい……だが)
恐ろしい――その白い光は、どこか冷たい。